北海の彼方で
フラウディア王国の最北に位置するスノーブルグから更に北の海を渡った先に、ミルクリア島はあった。どこ国の支配下にもないその島では、狩猟民族が穏やかな生活を営んでいた。寒さは厳しいが、海の幸と島の獣のおかげで豊かな食生活に恵まれている。彼らは麻や動物の毛皮で作った服を着て、男は狩猟や漁に出て女は子を産み育てる。そんな生活を古くから続けてきた。ある日、そんな平和な生活が突如として終わりを告げた。それは、サーヤがガーディアン・ティンクを解き放ってから一週間ほど後の事だった。
島の砂浜に、島の住民の殆どが集まっていた。彼らは遠くの海に浮かんでいる大きな三つの影を見ていた。
「お母さん、おっきい鯨がいるよ」
「本当に大きいわね。でも、あれは鯨なのかしら?」
母子が話し合っていた。そのすぐ隣で十四歳になる少女のエナも、海に浮かぶ影を見ていた。とても可愛らしい少女である。少し癖のあるボブカットのブロンドに、大きな瞳は空のように素直な青色、ウサギの耳を模した飾りの付いた帽子を被っていて、上着から短いスカートにひざ下まである長い靴まで白い毛皮で覆われていた。今は真冬なので、特に毛皮を着込む事が多い時期になっていた。
「あれは船じゃ」
エナの後ろの方から声が聞こえた。振り向くとそこには、深いしわに覆われた顔の老婆が、何人かの逞しい男に付き添われて立っていた。島のみんなから婆様と呼ばれる、島のシャーマンである。彼女は島で一番の物知りでもあった。
「婆様、いくらなんでも大きすぎるわ」
「エナよ、外の世界にはあれくらい大きい船があるんじゃよ。それにしても、外の船がこんな島に何ぞ用でもあるのかのう?」
その時、海の方から凄まじい音が響いた。この島にいる者は誰も聞いたことのない轟音だった。そして刹那、エナのすぐ近くで途轍もない衝撃が弾けた。悲鳴と共にエナは吹き飛ばされ、砂の上に転がった。少し頭は痛んだが、起き上がってみると幸い無傷であった。しかし、目の前にはこの世のものとは思えない悲惨な光景が広がっていた。先ほど自分の横で話し合っていた親子が、だいぶ遠くの方まで吹き飛ばされていた。母親の方は上半身と下半身が千切れて、別々の場所に転がっていた。子供のほうは母親の上半身の近くに横たわっている。エナは混乱しつつも走りよって、無傷に見えた子供の方の体を揺すった。
「し、しっかりして!」
子供の体がごろりと仰向けになり、全体が明らかになった。それを見てエナは息が止まった。子供は肩から胸まで吹き飛んでいて傷口から白い肋骨が何本も飛び出していた。当然、息はしていなかった。
「あ、あああ!!? どうして、こんなの酷すぎる!!?」
エナは泣きながら叫んだ。その時にも次々と轟音が響き、海岸にいくつも爆発が起こって島の人々が何人も吹き飛ばされていた。
「逃げるんじゃ! 村は駄目じゃ! 洞窟の方へ逃げよ!」
婆様の声が飛び、人々は砂浜から逃げ出していた。しかし空ろな目のエナの耳に、婆様の声は届かなかった。エナは突然走り出し、皆が逃げるのとはまったく違う方向へと向かっていた。
「エナ、どこへ行く! 村じゃない、洞窟へ逃げるんじゃ!」
エナの後ろの方で婆様の声がしていた。
余りにも突然に、余りにも悲惨な出来事を目の当たりにし、エナはどうしていいのか分からなくなっていた。少女はただ、村の中心にある氷の女神の像に向かって手を合わせて祈った。氷の女神はこの島で古くから信仰されていて、女神は雪の妖精を使いとしていると言われている。だから女神の足元には妖精の像もあった。
「女神様、女神様……」
エナは涙を流しながらひたすら祈り続けた。やがて遠くの方から、先ほどの爆音とは異質の何かが爆ぜるような音が無数に聞こえてきていた。さらにまるでエナの悲しみに反応するかのように雪が降ってくる。
「あそこにいるぞ!」
誰かのそういう声が聞こえた後、エナの元に狼の毛皮を着た男が走ってきた。
「エナ、何やってる!! 早く逃げろ!!」
「……兄様……人が死んだの、お母さんと子供が、酷い死に方だったの、だから天国では幸せになれますようにって女神様に……」
エナの落涙は止まらなかった。そんな妹に男は酷と思いながらも言った。
「エナ、落ち着け、今は泣いている時ではないぞ。奴らが上陸してすぐそこまで来ている。一緒に逃げるんだ」
「ヨーシャ、駄目だ! もう洞窟の方へは逃げられん! 俺たちが奴らを足止めするから、その間にエナを逃がせ!」
「そうか、もう洞窟へは行けんか」
エナの兄ヨーシャは、厳しい表情を浮かべた。その時、また遠くの方で轟音が響いた。そして、急速に近づいてくる高い降下音が、恐ろしいものの到来を告げる。それは氷の女神の像に激突して爆ぜた。すぐ目の前で起こった衝撃にエナが悲鳴をあげる。
「いかん!」
ヨーシャはエナの手を引いて、崩れてくる女神の像の元から走り出した。兄の牽引で無理やりに走らされたエナが後ろを見ると、氷の女神の像が完全に崩れ落ちるところだった。女神の足元に残された雪の妖精だけが寂しそうに佇んでいた。その光景がまるで島の終わりを示すかのようで、エナは恐ろしくなった。
逃げる途中で黒服の兵隊に遭遇した。彼らは銃を肩にかけ、島の支配者でもあるかのように堂々と行進している。ヨーシャとエナは茂みに隠れてそれをやり過ごした。ヨーシャとしては、すぐにでも出て行って戦いを仕掛けたいところだったが、まずエナを安全なところに逃がすのが先決であった。
「隊長、島の者が殆ど見当たりません、どこかへ逃げ出したようですな」
「ふむ、そうか。奴らは獣と同じだ、見つけ次第撃ち殺してしかまわんからな」
それを聞いていたエナの心は深く傷ついた。自分と同じ姿をした人間が、自分たちを獣扱いし、殺してもかまわないと言う。そんな恐ろしい人間によって、この島は滅茶苦茶にされたのだ。
兵隊をやり過ごした後、雪の降りしきる中、ヨーシャは足元のおぼつかない妹を途中で抱き上げ、岸壁を下っていった。岸壁の底には漁に出るための小船が繋いであった。ヨーシャはそこまで行くと、妹を船に乗せて縄を解き、有無を言わさず足で船を押し出した。オールや帆を用意している暇はなかった。ただ波に任せてエナを送り出すしか方法がなかった。それが無謀なことであるのは百も承知だが、後方に迫っている人間たちに捕まれば確実に殺されてしまう。
「兄様っ!!?」
陸から離れていくエナは兄に届けとばかりに手を伸ばしていた。
「氷の女神よ、どうかエナを守りたまえ」
それからヨーシャは急いで来た道を戻った。仲間と合流して、いきなり島を襲ってきた侵略者と戦うつもりだった。
エナは雪の中で波に揺られ少しずつ島から離れていた。エナは余りにも多くの恐ろしいことがありすぎて、自分の中で整理する事ができなかった。ただ呆然と、島の岸壁の上を見つめていた。すると、誰かが岸壁の上に現れた。たとえ遠くからでも、エナがその姿を見間違える事はなかった。
「兄様!!」
ヨーシャは全身血に塗れた傷だらけの姿でエナのことを見下ろしていた。
「よし、いいぞ、もっと離れていけ」
微笑を浮かべるヨーシャの後方から無数の発砲音が響いた。ヨーシャは背中から無数の弾丸に撃ち抜かれ血を吐いた。
「エナ……お前は生きろよ……」
高い高い断崖から、ヨーシャは落下していく。その姿は遠くからだと、奇妙にゆっくりと落ちているように見えた。やがてエナの兄は、冷たい水面に抱かれて、海の底へと沈んでいった。
「いやぁーーーーーーーーっ!!!」
エナの悲愴な叫が、雪を降らせる灰色の天上へと響き渡った。
どのくらいの時間が過ぎただろうか。降雪はやがて吹雪となり、船の上に横たわるエナの体から容赦なく熱を奪っていく。エナは悲しみの余り考えることを止めていた。エナは極寒の地で生まれ育った少女である。今の状況がどんなに絶望的かもよく分かっていた。どこへ行くかも分からない小船にただ一人で吹雪の中を進んでいる。その先にあるものは確実な死だ。もうすぐ死ねると思うと、なぜだか少女はほっとした。死ねばすぐに兄様に会うことが出来る。あの残酷な死に方をした親子や、他にも沢山島の人が殺されている。天国でまた皆で平和に暮らせるんだ。エナは死に安らぎを求めた。
しばらくしてエナが気が付くと、吹雪が止んでいた。しかし、空は相変わらず灰色で、エナの周りでは雪が吹雪いていた。何故かエナの周りだけ吹雪いていないのだ。不思議な光景だった。
「何が起きてるの?」
エナの頭上から、輝く結晶が降ってくる。エナは思わず手を伸ばしてそれを受け止めた。
「雪の結晶? こんなに大きいの見たことない……」
そして、エナの周りで吹雪いている雪の中からそのフェアリーは現れた。瞳と翅の色はジェムシリカがコアである事を示すコバルトブルー、肩の辺りで揃っている銀色の髪に、服からスカート、小さなブーツまで、天使を思わせるような純白であった。その姿は、エナが話に聞いていた雪の妖精の姿と殆ど同じだった。
「ああ、雪の妖精が迎えに来てくれたんだ」
エナの母親はよく言っていた。死ぬときに雪の妖精が現れれば天国に行ける、だから雪の妖精に来てもらえるようにいい子でいなさいと。雪の妖精は、ミルクリア島の人々にとって天使と同等の存在だった。
エナの前に現われた妖精は船の舳先に立ち、手のひらを差し出した。小さな手の上に、青い宝石とプラチナの首飾りが輝いていた。エナは殆ど無意識に手を伸ばし、宝石のある妖精の小さな手と自分手を重ねていた。その瞬間、宝石から凄まじいまでに青い光が放たれた。エナの手に触れる宝石の光はとても温かかった。
「これは、奇跡……」
エナは自分はこれから天国に行くんだと信じて疑わなかった。雪の妖精が現れた事で、エナはすっかり安心して青い宝石を握り締めたまま眠ってしまった。それからも少女に吹雪が襲いかかる事はなかった。ガーディアン・ティンク、雪の妖精メープルは、ずっと船の舳先に立って、契約者となったエナを守護し続けた。ミルクリア島から流され続けていた船は、フラウディア王国へと近づいていた。
雪の妖精に続く
これで闇色の翅は完結となります。ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。雪の妖精を書くのはまだまだ後になると思いますが、このシリーズは必ず全て書ききります。その時はまたよろしくお願いします。