地獄の季節-18
「…サーヤ、大丈夫だ……」
「翼をもがれてはもう戦えないだろう」
そう言ってシルメラとサーヤを見下ろすコッペリアの背後で、丘向こうに沈みかけた欠けた太陽が、完全に消えて闇が下りてきた。コッペリアは、はっと思って太陽が沈んでしまった丘の向こうを見つめた。空にはまだ太陽の残光があって、ほのかな明るさがあったが、それはすぐに消えてなくなりシルフリアは宵の支配下に置かれた。
「勝てもしないのにいやにしつこいと思ったら、そう言う事かい。お前は夜が来るまで時間稼ぎをしたかったんだね」
「……そうさ」
「わたしが逃げるとでも思ったのかい?」
シルメラはサーヤに抱かれ、翼を断たれた痛みから、冷や汗に塗れて苦しそうに大きく息をしていた。
「わたしが戦いを挑んだのは、お前にこれ以上人間を殺させないためさ」
「はん、苦労性だねぇ。しかもその苦労は何の意味もないどころか、後でサーヤを苦しめる事になるよ」
「なんだと? どういう事だ?」
「そのうちに分かるさ。フェアリーと協調出来ない人間は、シルフリアにいるべきではないんだよ」
その時、急にコッペリアの顔つきが強張った。
「奴だ」
闇の帳を突き進み、小さな影がシルフリアの街に下りてきた。それは街並みの上を低空で飛ぶ。彼女が通り過ぎた後に衝撃的な強風が巻き起こり、その速力の凄まじさを物語った。そして、彼女はほとんど瞬間的にサーヤが見上げる空に現れ、コッペリアの目前で止まり、蝙蝠のような翼を大きく開いた。
「来たか、ニルヴァーナ」
「…………」
ニルヴァーナは、夜のみ赤く輝く双眸の中に悲しみを湛えて黙していた。不意にニルヴァーナは、その瞳でサーヤを見つめて言った。
「……わたしはお母様が大好きです……けれど、一つだけ憎んでいる事があります……」
普段、ほとんどしゃべらないニルヴァーナが、サーヤの目の前で驚くような快活さで話を始めた。
「……それは、コッペリアに力を与えすぎてしまった事……コッペリアはお母様と同じ力を持っています……世界の創造主足りえるその力は、いつかは封じなければならない……その為にわたしは生まれた。……わたしの持つ力は、シルメラやコッペリアと同等です……けれど夜にしか力を出すことが出来ません。……お母様はそうする事で、わたしがコッペリアを超える存在となり、コッペリアを封ずる事が出来るようにしたのです。……わたしは姉妹を殺すために生まれた黒妖精なのです……わたしはお母様の罪そのものの存在なのです…………」
サーヤにはニルヴァーナがなぜそんな事を自分に語りかけるのかは分からなかったが、急に現れた理由の分からない罪の意識が重くのしかかって押し潰されそうになり、悪いのは自分なのだと訴えかける本能の前に、顔を覆って泣き崩れた。どうして泣いているのか自分でもよく分からないが、黒妖精たちに申し訳ないという気持ちが溢れて落涙に変わっていった。
「サーヤ……」
そんな様子のサーヤを、リーリアはただ見ている事しか出来なかった。
悲しみを浮かべるニルヴァーナとは対照的に、コッペリアは相手を侮るような弓なりの笑みを浮かべていた。
「ふん、もう勝った気でいるのかい。わたしはお前に殺される気なんてないよ。逆にお前を殺して、わたしは本当の意味で自由になるんだ」
見ている者は、コッペリアとニルヴァーナの間にある空気が膨張していくように感じた。怒り、悲しみ、憎悪、冷酷、様々なものがこそに凝縮され、ぶつかり合い、無音の衝撃が膨張を助長する。そして、誰もが爆ぜると思った瞬間、ニルヴァーナが弾け飛んでいた。人の目にはまったく見えない速さだったが、コッペリアが気味の悪い笑みを浮かべつつ突出して体当たりしたのだ。
薄闇の中で、コッペリアの血色の双眸と大きく開いた六枚の翅に宿るオーロラに似た輝きが際立った。
「ぐちゃぐちゃのバラバラにして! コアを引きずり出して粉々にしてやるよっ!!!」
ニルヴァーナは近くの小高い建物に突っ込んで、煉瓦の壁に小さな体の割りには大きな穴を開けた。その穴から鉱物の破片と砂煙が活火山の噴煙のように勢いよく噴出した。コッペリアの六枚の翅が恐ろしく伸張する。その槍先のごとく鋭い切っ先が煙のなかを突き進んでニルヴァーナを追う様子は、無数のヨルムガンドが人に襲い掛かるような恐怖と威圧に満ちていた。そして翅の切っ先は建物の壁や窓を貫いて路上に突き刺さった。コッペリアは手ごたえのようなものを感じたが、すぐに異様ににやけた顔が凍りついた。ニルヴァーナが煙の中から飛び出してきて、片翼でコッペリアの翅をガードしながらその間からレールの上を滑る電車のように激しく火花を散らしつつ迫ってきた。コッペリアは翅を長く伸ばしすぎた為に隙が出来た。それを見逃すニルヴァーナではない。この夢魔のような妖精はコッペリアの懐に入り込み、思いっきり相手の頬をぶん殴った。
「ぐあっ!!」
堪らず悲鳴をあげたコッペリアは、かなりの高度から思い切り地上に向かって投げつけられるボールのように、ほとんど瞬間的に地面に激突していた。そのまま勢いが止まらずに地面を滑擦していたコッペリアに、ニルヴァーナは空中から素早く組み付き、コッペリアの首を締め上げにかかった。コッペリアの首の骨が軋み、口から声とも息とも取れない苦悶が漏れた。フェアリーが簡単に死ぬ存在ではないとしても、首の骨が折れれば活動は停止する。人間よりも遥かに生命力があるというだけで、体の構造は人間とほとんど同じなのだ。
しかし、コッペリアは無抵抗で首の骨を折らせてくれるような甘い存在ではない。ビジョンブラッドの妖精はアレキサンドライトの妖精の両手首を掴み外しにかかった。ニルヴァーナのか細い手首は、もう少しで押し潰されるくらいまで締め上げられる。凄まじいコッペリアの握力だった。それにもかかわらず、ニルヴァーナはコッペリアの首にさらに力を加えた。その時にコッペリアと目が合って、ピジョンブラッドと同じ色の瞳が大きく開いた。この間近でニルヴァーナの首を切断する軌道で鎌鼬が飛んだ。ニルヴァーナは超越的な反射神経で体を大きく揺らして、それと殆ど同時に首の側面が切り裂かれて血が噴出した。ニルヴァーナの手の力が緩み、隙を得たコッペリアは首から両手を外して足下でニルヴァーナの腹を蹴り上げる。その威力でニルヴァーナは上空に吹き飛ばされた。コッペリアは六枚の翅を展開してニルヴァーナを追う。そうしながら手の中で赤い光に満ちた剣を形成し、ニルヴァーナに向かってそれを振り下ろした。ニルヴァーナは両手の爪を伸張し刃と成して、それで紅剣を受け止めた。剣と爪の間で美しい無数の火花が飛び、薄闇の中を照らして散っては消えていく。戦っているのは人間よりもずっと小さな二つの存在なのに、戦いの衝撃は万の人間がぶつかりあう戦争に匹敵していた。サーヤやリーリアだけではなく、シルフリアの街で生き残った全ての人間が否応なしに視線を引き上げられた。それを地上で見ている人間たちには、何も言うことはできないし、表現のしようもない。この日の夜は異様に明るかった。それは夜空に大きく存在を示す満月のせいなのだが、その存在を視界で捕らえていても、黒妖精二人の存在が圧倒的過ぎて、満月の存在を誰もが忘れ去っていた。
ニルヴァーナとコッペリアの間で起こっていた競合いの均衡はすぐに破られ、ニルヴァーナは押し返してコッペリアは少し後退させられた。コッペリアは忌々しげに舌打ちすると同時に少し距離を取り、再び赤い輝きに満ちた剣を振り上げた。
「だあぁーーーーーっ!!!」
コッペリアの斬撃をニルヴァーナは無言で左手の爪で受け止めた。すると、五本の爪があっさりと切断されて宙を舞った。ニルヴァーナは驚きを見開いた眼に表した。ニルヴァーナの爪はダイヤモンドを越える強度を持ち、シルメラの鎌やコッペリアの紅剣に匹敵する武器である。コッペリアに内在する力がやけに先鋭に現れていた。その時ニルヴァーナは、コッペリアのマスターがすぐ近くにいる事を悟った。ニルヴァーナにとってはただそれだけの事で、コッペリアの思わぬ力に驚きはしたが、心が乱れるような事は些かもない。ただ創造主に与えられた使命に向かって突き進むだけだ。
ニルヴァーナの爪を折ったコッペリアが、してやったりという笑みを浮かべ、さらに上から打ち込んできた。ニルヴァーナは額の上に爪を置いて受け止める。今度は油断を排して力を集中させていたので、爪はしっかりと紅剣を受け止めた。
「真っ二つになりな、ニルヴァーナ」
「……断る」
静かなる力の衝突で爪と紅剣が小刻みに震えてかすかな音が鳴る。ニルヴァーナは瞬間に後ろに下がり、力を込めていたコッペリアは前のめりになってバランスを崩した。そこへニルヴァーナが手を払って五本の爪で斬りつけると、コッペリアは何とかそれを剣で防ぎ、衝撃で弾き飛ばされる。その時にニルヴァーナに向かって剣を投げつけた。虚をついた攻撃、ニルヴァーナはそれを危うく避ける。そこにコッペリアが斜め上から突っ込んできて、ニルヴァーナの胸を蹴りつけた。ニルヴァーナは体勢を立て直す間もなく街にある商店の屋根に叩きつけられ、小さな体が起こす衝撃によって店はいっぺんに崩壊した。
「うぐ……っく……」
店の石床を穿ち、体が半分埋まった状態でニルヴァーナは仰向けに倒れていた。今の攻撃のダメージは大きく、痛そうに顔を歪めていた。店の屋根は殆ど崩落し、ニルヴァーナの視界には夜空が広がっていた。その中に赤い瞳を輝かせるコッペリアが入ってきて、六枚の翅を伸ばし自分の目の前で全ての翅の先を向かい合わせた。剣のように鋭い切っ先の間にある円形に近い空間に光が現れる。
「この街と共に消滅しな」
光はどんどん大きくなり、コッペリアの姿はすぐに見えなくなった。そして、破壊された店の中で立ち上がったニルヴァーナに向かって、現実に街を滅ぼす威力がある破滅の光が放たれた。そして光が地上に吸い込まれると、周辺にある建物が衝撃の波紋で一瞬に崩壊していく。しかし、破壊はそれだけに止まり、街が消滅するほどの威力は感じられない。その理由をコッペリアは自分の目で見極めて驚愕した。
「なんだと!?」
巨大な漆黒の魔方陣がニルヴァーナの前に現れて、コッペリアの破壊の閃光を受け止めていた。
「こいつは驚いたね、防御の魔法なんて使えたのかい!」
ニルヴァーナは、コッペリアの放った光を全て受け止めた後、吸血鬼を思わせる翼を開いてコッペリアの目線まで上昇した。そのまま二人の黒妖精はしばらく対峙していた。
黒妖精たちを見上げていたサーヤは、彼女らの周りを取り囲むように妖精達が集まってくるのに気づいた。それらはコッペリアが人間を殺すのに率いてきたフェアリーたちで、街に殺すべき人間がほとんどいなくなり、やることがなく放浪しているうちに、黒妖精二人の激しい戦いに引き寄せられるように集まってきていた。
生き残った人間と侵略者である妖精達が見ている中で、ニルヴァーナは瞳に悲しげな光を湛えながら言った。
「……地上にはお母様がいます。……街が消滅すれば、お母様も共に消えていた……」
「もうお母様なんてどうでもいいんだよ! お母様にとって、わたしはもう必要ない存在なんだ。だからお母様が死のうが消えようが、わたしにはもう関係ないのさ!」
「……それは嘘。……貴方は、わたしが攻撃を凌ぐことを知っていた……だから、街に向かって攻撃した……」
コッペリアは不意に弱点を指摘された人間のように表情を固めて黙っていた。
「……貴方は、本能の部分ではもう分かっている……わたしには決して勝てないという事が……」
「っく、黙りな!!」
「夜はわたしの世界。……闇が世界を覆う限り、何人も宵闇の女帝に抗うことは……出来ない……」
そう言う姉の悲しげな目を見ていると、コッペリアの背筋に寒いものが駆け抜けた。