地獄の季節-17
サーヤがシルフリアに入ってから少し後に、リーリアがシルフリアへと帰ってきていた。リーリアは街が良く見える丘で、とても想像できない悲惨な状況を目撃して、悲愴な表情を浮かべたまま立ち尽くしていた。
「フェアリープラント社のビルが……」
ここから見えるプラント社のビルは、鉄骨を残して屋上から地上に向かって七割程が消失している。黒く焼け焦げた鉄骨から煙が上がっているのがはっきり見えた。
「何が起こっているの……?」
「断罪よ。フェアリーたちがシルフリアの人間を攻撃しているの」
リーリアの近くで浮いているレディメリーが言った。リーリアに抱かれているエクレアは、焼け焦げたビルをじっと見つめていた。
「断罪……」
リーリアはその意味を理解した。彼女自身、いつかこんな事が起こるかもしれないと思っていた。
「フェアリーたちを止められないの?」
「止められないわ、これは自然災害みたいなものだもの」
「どういう意味なの?」
「罪というものは人間だけにあるものじゃないわ。罪深い人間が集まる街や国にも罪は蓄積される。人間たちが罪深くなれば、街も罪に汚染される。罪の汚染が限界に達したその時には、必ず良くないことが起こるのよ。シルフリアではそれがフェアリーの反乱という形になって現れたのよ。これは自然の流れなの、だから止められないの」
「……とにかく街へ行きましょう」
その頃、サーヤは街の大通りに来ていた。目に見える光景は死屍累々、サーヤは思いのほか冷静にそれを見ていた。
「全部フェアリーたちが殺したんだね」
「ああ、そうだ。コッペリアめ、とんでもない事をしやがる。早く探し出して止めるんだ!」
シルメラは上空に飛翔すると、コッペリアの気配を探した。それから少し経って、シルメラはサーヤの近くに降りてきて言った。
「向こうだ!」
シルメラが前を飛び、サーヤがその後から駆けてゆく。二人は死人が転がる大通りをずっと先まで移動した。すると、悲鳴がサーヤとシルメラの耳に届く。シルメラは悲鳴の上がった所に向かって飛んだ。
細い路地に入り込んだシルメラは、その先で追い詰められている男を見た。
「こ、殺さないでくれ!」
「お前は必要のない人間だ、諦めるんだね」
コッペリアが男の目の前で六枚の翅を開いていた。
「やめろーっ!」
シルメラが大鎌を振り上げてコッペリアに迫ってきた。コッペリアは翅の一枚を硬質化させ、それでシルメラの鎌を受け止める。
「シルメラ、いまさら現れて邪魔するのかい」
「これ以上は人間を殺させはしないぞ!」
「もうシルフリアの人間はほとんど殺しちまったよ。まあ、まだ僅かに生き残っているのもいる。お前がわたしを倒せば、その僅かな人間くらいは助けることが出来るかもね」
シルメラとコッペリアが競り合っている隙に、殺されそうになっていた男は逃げ出していた。
「コッペリア、シルメラ……」
サーヤはウィンディの欠片を握っている手を胸に当てて、暗い顔をしている。シャイアと交わした約束が、サーヤの脳裏に蘇る。あの時のシャイアの声も姿も、そして心が蕩けてしまいそうな気持ちも、はっきりと思い出せる。それはもはやサーヤの体の一部のようになっていて切り離すことができないものになっていた。
コッペリアとシルメラは微動もしないが、二人の間では凄まじい力のせめぎ合いが起こっている。それが小刻みに震える小さな二つの体に良く現れていた。
「無理無理、今のお前じゃわたしには勝てないよ」
「なに言ってる! サーヤと一緒なら、わたしは誰にも負けない!」
「なら試してみな!」
コッペリアの残り五枚の翅が長く伸びて弧を描き、鋭い切っ先が一斉にシルメラをめがけて落ちてくる。シルメラが後ろに飛びのいてサーヤの目の前に着地すると、先ほどまでいた場所にコッペリアの翅が次々と突き刺さった。それから二人の黒妖精は同時に飛翔した。シルメラの翼が起こした風圧にサーヤの全身が翻弄された。
コッペリアとシルメラは上空で対峙した。サーヤは辺りに死体しかない異様な静けさの大通りに出てきた。黒妖精たちの戦いを見守りながら、サーヤはシルメラに心の中でひそかに謝った。
上空でシルメラが大鎌を構えると、コッペリアは右手には赤く輝く剣が現れた。そして二人はそれぞれの武器を手に同時に突出し、ぶつかり合った。武器だけで言えば長物を持つシルメラの方が有利だが、コッペリアは動きの素早さと巧みさで、シルメラの鎌を剣で受け止めたり、弾き返したりしていた。そして隙を見て、シルメラの懐に飛び込んだ。そうなるとシルメラは柄の部分でコッペリアの剣を防御するしかない。シルメラの目の前で、真紅に輝く剣と鎌の柄が交差して火花を散らした。シルメラは完全に押されていた。
「どうしたシルメラ? その程度なのかい!」
コッペリアは力に任せて剣を振りぬき、シルメラを吹き飛ばした。
「くっ、このぉ!」
シルメラが漆黒の両翼を開くと、吹き飛ばされていた勢いが急激に殺されて静止状態になった。
「どうしたんだよサーヤ! 魔力をくれ!」
シルメラは当惑しながら地上に向かって叫んだ。サーヤはシルメラに魔力をまったく供給していなかったのだ。サーヤの胸に付いているキャッツアイのブローチに魔力の供給を示す輝きはなく、夕方に近づいた濃い色の陽光でシャトヤンシーが際立っているだけだった。これではただの宝石と変わらない。
サーヤとシルメラが力を合わせれば、どんな強力なフェアリーにも負けることはない。そんなことはコッペリアだって分かっている。それでもあえて、コッペリアは今のシルメラでは勝てないと言ったのだ。コッペリアはサーヤが迷っている理由を知っているのである。
「どうしたって言うんだよサーヤ! 何で魔力を送ってくれないんだ!」
「……できないよ」
「え?」
サーヤの全身から力が抜けてずっと握っていた手が開き、ウィンディの命のかけらである砕けたアメシストが地面に零れ落ちた。そしてサーヤはその場に両膝をついて崩れ落ち、顔を覆って泣き始めた。突然取り乱すサーヤの姿に、シルメラは慄然とした。
「コッペリアの邪魔をしたら、シャイアさんの中からわたしが消えちゃう。そんなの、嫌だ……」
「サーヤ、あの女に何かされたのか!!?」
その時にシルメラのすぐ側で、コッペリアの痛快な笑い声が起こった。
「だから言っただろう、お前じゃ勝てないってさ! シャイアがサーヤに鎖を付けたのさ!」
「何なんだよあの女……サーヤはお母様の生まれ変わりなんだぞ、鋼の意思を持っている人なのに、それをこんな風にするなんて……」
シルメラはシャイアが恐ろしかった。新たな妖精女王としてこの世界に生まれてきたサーヤ。フェアリー達を優しさで包み込み、フェアリー達の為に戦い、そして何事にも負けぬ意志の強さを持つ。シャイアはそれを崩落させる魔力を持っている。ただ一人、サーヤに影響を与えることが出来る存在なのだ。
シルメラは瞳に涙を溜めながら、諦めずに叫んだ。
「サーヤ、頼むから魔力をくれ! この街にはまだ生き残っている人がいる、わたしたちでコッペリアを止めて助けるんだ!」
「……仕方ないよ」
「サーヤ!!?」
「人間はフェアリー達に酷いことをしてきたんだもん、フェアリー達が怒るのは当然だよ……」
サーヤはまるで人が変わったかのように冷たく言い放った。シルメラは呆然としてしまった。シルメラは、サーヤの本心は理解していた。それでもサーヤはきっと戦ってくれると信じていた。だが、そうはならなかった。
コッペリアが弦月の笑みを浮かべつつ言った。
「そうなって当然さ。サーヤはどこまでいってもフェアリーの味方なんだからねぇ。フェアリーを害する人間を守るために戦うわけがない。シルメラ、お前だって本当は分かっているはずだ! いや、黒妖精にお母様の心が分からないはずがない!」
呆然としていたシルメラは、急に表情に戦意を表白して大鎌をコッペリアに向けた。
「サーヤの気持ちがどうであろうと、お前を放っておくわけにはいかない!」
「やるってのかい? マスターの魔力なしで戦おうっていうのかい!」
いつの間にか夕の日差しが街を燃えるような濃い朱に染めていた。シルメラの背後の丘の向こうで沈みかけた夕日の紅が黒妖精たちを照らす。その時にシルメラは思った。
――コッペリアを放っておけば、これからもさらに多くの人間を殺すだろう。ここで終わらせなければ駄目なんだ。サーヤの力無しではこいつを倒せいないけれど、時間稼ぎくらいは出来る。何としても夜が来るまで足止めする!
「だあーーーーっ!!」
シルメラはコッペリアに突っ込んでいき、相手に脳天に向かって大鎌を振り下ろす。コッペリアはそれを真紅の光の剣で軽々と受け止めた。
「ぬるいねぇっ!」
コッペリアは大鎌を弾き上げ、その衝撃でシルメラは鎌を持っていた両腕まで頭上まで持ち上げられた。その隙にコッペリアの強烈な蹴りがシルメラの腹部に炸裂した。
「ぐはぁっ!!?」
吹っ飛んだシルメラは、近くの家屋の屋根に激突して小さな体で屋根の一部分を粉砕して穴を開けた。シルメラはそこから飛び出してコッペリアに迫ると、再び鎌を振るった。
「てやぁーっ!」
上段から相手の脳天をめがけた攻撃は、コッペリアの剣に意図も簡単に止められ、先ほどとまったく同じ構図になった。
「無駄だねぇ」
余裕の笑みを浮かべるコッペリアに、シルメラは猫のような目を見開いて視線を浴びせた。その瞬間に、コッペリアは衝撃を受けて弾き飛ばされる。
「ぐあっ!?」
コッペリアは数メートル吹っ飛ばされた後、宙に止まって六枚の羽を開いた。
「自慢の邪眼もマスターの力がなければこの程度かい。サーヤから魔力をもらえてれば、わたしの片腕くらい粉砕できたろうにねぇ」
今度はコッペリアが真紅の瞳を見開いた。コッペリアの生み出した衝撃波がシルメラを襲った。シルメラは鎌を盾に使ってそれを防御するが、凄まじい衝撃を受けた。
「うわあぁっ!?」
先ほどのコッペリアよりもずっと遠くに吹っ飛ばされた。コッペリアは即座に飛び出し、シルメラに高速で追いすがる。シルメラが体制を立て直した瞬間には、コッペリアが肉薄していた。
「そおれっ!」
コッペリアの拳がシルメラの腹にめり込む。
「ぶはあっ!!」
シルメラが血を吐き腹を押えるのと同時に、丸くなった背中にコッペリアの強烈な踵落としが炸裂した。シルメラは瞬間的に墜落して地面に叩きつけられた。大通りのレンガ敷きが大きく陥没し、粉塵が舞い上がった。
「シルメラ!」
粉塵が舞い上がる場所までサーヤは駆け寄った。
「うう……」
呻りながら、シルメラが粉塵の中から這いずって出てきた。もう体中傷だらけだった。
「シルメラ、もう止めて! わたしはコッペリアの邪魔は出来ないの、だから貴方に魔力を送ってあげられない。戦っても傷つくだけよ」
「サーヤの気持ちはよく分かるよ。わたしはサーヤを恨んだりはしない。けれど、この戦いは止められないんだ」
「どうして!?」
「黒妖精にはそれぞれ役割を持っている奴がいる。コッペリアは時が来たら妖精達を率いて人間を滅ぼし、妖精世界の創造主となる役目があった。だが、サーヤがどこまでも人間を信じると決めたから、あいつの役目はなくなったんだ」
「それ、どういうこと? わたしが人間を信じる事とコッペリアの役目に何の関係があるの?」
サーヤは混乱した。シルメラの言っている意味がまったく理解できなかった。
「今は説明している暇はない。とにかく役目を失ったコッペリアを放っておけば、暴走してさらに多くの人間を殺すだろう。その前に排除しなければならないんだ」
「そんな、排除するなんて!? 貴方達は一緒に生まれてきた姉妹なのに!」
「仕方ないんだ。そうするしかないんだよ」
「わたしは魔力を送らない、だからコッペリアには勝てないわ」
「コッペリアを倒す役目を担っているのは、わたしじゃないんだ。そいつが来るまで時間を稼げればいい」
「それって……」
シルメラとコッペリア以外に残る黒妖精は一人しかいなかった。サーヤがその名を口にする前に、シルメラは漆黒の翼を広げて飛び立った。
「まだだ、コッペリア!」
「懲りない奴だねぇ。いいよ、動けなくなるまで叩き潰してやるよ!」
シルメラが大鎌を振り上げて突っ込んでいくと、コッペリアは素早くシルメラの懐に飛び込み、鎌を振り下ろす瞬間に、鎌の柄を握っているシルメラの両手を止めた。そして、痛烈な膝蹴りをシルメラの腹部に叩き込んだ。
「ぐああぁっ……」
シルメラが口から血を滴らせながら腹を押えると、コッペリアはシルメラの首を掴んで前に突出した。
「そぉら、どうした! 少しは抵抗してみな!」
コッペリアはそのままシルメラを、近くの家の煉瓦の壁に叩きつけた。その瞬間に壁が陥没して大きく亀裂が入り、シルメラの黒い翼の羽が舞った。
「うあぁ……」
後頭部から壁に叩きつけられたシルメラは意識が朦朧としていた。コッペリアはそこから真下に向かってシルメラを投げた。背中から地面に叩きつけられたシルメラの黒い羽が再び舞い上がった。それからコッペリアは、シルメラが立ち上がるのをじっくり待っていた。シルメラはダメージが深刻なのでなかなか立ち上がれない。両手を地面につき、片目を閉じて全身の苦痛に耐えながら何とか起き上がろうとする。そうしてようやく半身起き上がって方ひざを付いたとき、コッペリアがやってきて彼女の顎を蹴り上げた。
「うわああぁぁっ!!」
吹っ飛んだシルメラは空中で弧を描き、再び地面に叩きつけられた。シルメラはそのまましばらく動かなかった。サーヤはただ見ていることしか出来なかった。愛するシルメラが酷く痛めつけられるのを見るのは辛かったが、コッペリアはフェアリーを絶対に殺さないという確信があったので、目をそらさずに見続ける事が出来た。
「サーヤ……」
「え?」
呼ばれて振り向くと、そこにはリーリアがいた。その傍らを飛んでいるレディメリーも、リーリアに抱かれているエクレアも、困惑しつつもその中にサーヤを責めるような風味がある。
「シルメラが傷だらけで倒れているわ。サーヤ、あなた魔力を与えていないのね」
「あの…えっと……」
「あなたが自分の大切なフェアリーが傷つくのを見ているだけなんて、どうしてしまったの? 何があったというの?」
サーヤは物言わずに俯いていた。シャイアに篭絡されたなどとは、とても言えるものではない。それに、フェアリーを虐めてきた人間たちを助ける気にはならない事も、リーリアには知られたくなかった。例え罪深い人間だとしても、その命を助けようとはしない、そんな行為をリーリアが許すはずはないとサーヤは強く思い、そして恐れた。
リーリアはさらに何か言おうとしたが、シルメラが急に起き上がって、「ちくしょう!」と声を上げたので、会話が中断された。
シルメラは最後の力を振り絞って黒い翼を広げて飛び立つ。そのまま飛翔してどんどん上まで行き、コッペリアを見下ろす位置で止まった。そして、自分の翼から黒い羽を三本取る。間もなくその羽は黒い炎に包まれた。シルメラはそれをコッペリアに向かって投げつけた。
燃え上がる黒い羽が迫ると、コッペリアは鼻で笑ってから六枚の翅を目の前で交差させて、全身を翅で包み込んだ。そこにシルメラの燃える羽がぶつかって炸裂する。コッペリアは瞬間に爆炎に飲み込まれた。シルメラは体力の限界が来るまで羽をちぎっては投げつけた。コッペリアは爆炎と煙で完全に見えなくなった。シルメラは荒く息をしながら、空中で燃え盛って形を変えていく炎を見ていた。その時、急に気配が真上に現れた。
「あっ!?」
シルメラが上を見ると、コッペリアが笑みを浮かべて見下ろしていた。コッペリアは一枚の翅をしならせて、シルメラの肩を打ち据える。シルメラは悲鳴をあげながら急速に地面に向かって墜落していく。
「これで終わりだよ!」
コッペリアが放った衝撃波が落下していくシルメラに迫る。そして、切断された黒い翼の片翼が血を撒きながら弾けとんだ。シルメラは声もなく地面に墜落した。
「シルメラ!?」
いくらコッペリアが同族を殺さないと言っても、これにはサーヤは青ざめた。サーヤが駆け寄りシルメラを抱き起こすと、服が翼を切断された傷口から溢れた血で瞬く間に赤く染まっていった。