地獄の季節-15
「何だ、何なんだこれは!!?」
カーライン・コンダルタは戦慄していた。彼はシャイアが怖くてずっと地下に潜伏していたのだ。だが、街が余りにも騒がしいので思わず外に出てきた。そして、フェアリーに殺された無数の人間や、街の上空を自由に飛んでいるフェアリー達を目撃した。彼はすぐに地下に逃げ込もうとしたが、ふと自分の屋敷や息子の事が気になった。いくらカーラインが低俗な人間だとしても、この状況で息子を気にしないほど無常ではなかった。彼は決心して、物陰に隠れながら自分の屋敷を目指すことにした。
物陰に隠れるなど、空を飛んでいるフェアリーにとってはほとんど意味のない行為で、多くのフェアリーがカーラインの姿を目撃していた。しかし、誰もカーラインを襲おうとはしなかった。
彼は行く先々で、フェアリーに殺される人間を目撃した。最初はいきなり目の前に黒い塊が落ちてきた。カーラインは驚き、何かと思ってよく見ると、人間であった。地面に叩きつけられて体の半分が潰れていた。
「うわあぁっ!!?」
カーラインが思わず飛びのくと、頭上から可愛らしい笑い声が聞こえてきた。見上げると、数人のフェアリーが口に手を当てて笑っていた。
――こ、こいつらがやったのか!? フェアリーが人間をこんなふうに殺すなんて……。
カーラインは怖くなってその場から逃げ出した。もう物陰に隠れようなどという思考は吹き飛んだ。とにかく助かりたい一心で逃げ出した。
カーラインが少し広い通りに出たとき、前方から複数の悲鳴が近づいてきた。人々が鬼気迫る表情で、後ろから追いかけてくる者から逃げている。
「逃げても無駄だよ」
追いかけているのはコッペリアだった。彼女の六枚の羽が横に伸びて硬質化し、それぞれが横一文字に構えられた剣のように怪しく光る。コッペリアは、雷光の様な速さで人々の間を通り過ぎた。そして、カーラインの目の前でそれは起こった。逃げていた人々の体が幾つかに分断され、血霧に塗れながら辺りに散らばったのだ。あまりに衝撃的な光景に、カーラインは気が狂いそうになって頭を押えて蹲った。そこに、何かの気配が近づいた。
「おや、お前かい、元気そうじゃないか」
カーラインが見上げると、翅を長く伸ばしたままのコッペリアが見下ろしていた。カーラインの視界の中で、コッペリアの翅は元の形に戻った。
「はぐあぁっ!!?」
カーラインは悲鳴をあげようとしたが、筋肉が恐怖の為に硬直して声が思うように出なかった。冷たい汗が全身から噴出し、顔から体まであっという間に濡れていく。そして彼は、もう命は助からないと諦めてしまった。しかし、コッペリアはただ彼を見下ろしているだけで、特に何をする様子もなかった。カーラインはもしかしたら助かるんじゃないかと希望を抱き始めた。
「お前、どうして自分が殺されないのか不思議に思っているだろう」
コッペリアの声を聞いて、カーラインの体に悪寒が走った。とにかく怖い、ここから逃げ出したい、しかし体が動かない。そんな状態なので、コッペリアが何を言っているかなど意識できなかった。
「殺す必要がないからさ。なぜなら、お前には死よりも残酷な運命が待っているからだ。フェアリー達はそれが分かるからお前を殺さないのさ」
コッペリアが不気味な笑みを浮かべた。カーラインは何か恐ろしいことを言われたような気がしたが、必死になって近くの家屋の壁に縋って立ち上がり、そして与太つく足で走り出した。
「ひひゃあぁっ!!」
ようやくのどの奥から出てきたカーラインの声は、奇声となって死の街と化したシルフリアの中に響いた。
カーラインが体力の限界まで走ってから顔を上げたとき、自分の館の前にいるのに気づいた。逃げながら無意識のうちに帰巣していたようだ。
久しぶりに帰ってきた屋敷は異様な静けさに包まれていた。見た目は変わらないが、明らかにおかしい。いつもなら屋敷の主が帰ってきたのなら、出迎えがあるはずだ。だが今は、誰も出てこないどころか、人の気配がなかった。カーラインが庭に足を踏み込むと、すぐにメイドと執事があわせて三人倒れているのが見えた。
「はぁ?」
カーラインは怪訝な面持ちで、すぐ近くにいたメイドの顔を覗き込んだ。途端に叫び声を上げて殴られでもしたように後ろに跳び尻餅をついた。再び冷や汗が全身からじわりと噴出してきた。メイドは両目が潰され、鋭い刃物で突き刺されたような痕が残っていた。
カーラインはしばらくその場にいて、心を少し落ち着けてから、倒れている死体を見ないようにして屋敷の玄関に近づいた。扉を押すと軋みながら開いていく。ロビーには誰もいなかった。
「おおい! 誰かいないのか!」
カーラインの声が屋敷の中で空しく響いた。恐ろしさの為に彼の胸の鼓動が早くなり、荒い自分の息遣いが無音の空間で異様に際立つ。
「どうなってるんだ……」
カーラインは屋敷の中を歩き出した。そして、すぐに凄絶な光景に叩きのめされた。そこいらで屋敷の使用人が惨殺されていた。
「うあああぁっ!!! もうやめてくれーーーっ!!!」
カーラインは発狂寸前の状態で駆け出した。屋敷のどこに行っても惨殺された死体が転がっている。情けない悲鳴を上げながら屋敷中を走っていると、彼は廊下の端で動くものを見つけた。座り込んでフェアリーを抱いているメイドの少女が、彼の事を見ていた。
「ご主人様?」
「お、おお、お前、何が起こったんだ、わしの息子はどうなった?」
恐怖でのどが引きつって声が震えていた。そのカーラインに、メイドが抱いているフェアリーが言った。
「あの人間なら、地下室であなたを待っているわ」
それを聞いたカーラインは、半ば呆然としながら地下室に向かって歩き出した。
「うふふっ」
カーラインの背後からメイドが抱いているフェアリーの笑い声が聞こえた。その時のフェアリーの顔は深い悪意に満ちていた。
地下の階段を下りていくカーラインの足音が辺りに響く、地下室に近づく程に闇が深くなっていく。足音があまりにも響くので、カーラインは時々ぎくりとして足と止めていた。やがて地下室から漏れる出入り口の光が階下に見えた。光に近づく程に、奇妙に肌寒くなり、何か強烈な生臭さが鼻を突く。それからカーラインが出入り口に立った時には、強烈な異臭に顔をゆがめた。部屋の中央の寝台に何かがあった。それは何かとしか表現のしようがない無残なものであった。生きている息子の姿を想像していたカーラインは、硬い表情でその何かに近づいて見た。寝台の上にはかつて息子だった肉の塊が仰向けに横たわっていた。
「!!?」
カーラインは声が出なかった。彼は知らない間に血溜りの中に立っていた。寝台のエルシドは胸から下腹部まで縦に大きく切り開かれ、すべての肋骨がむき出しになって外にせり出していた。完全に露呈している肺以外の臓腑は引きずり出されて刻まれた状態で床に散乱し、ノコギリで切断された手足の傷口はいびつであった。悲鳴を上げたままの相で大きく開いた口の中には、舌が切り取られているのが見えていた。そして、眼球を引きずり出された右目のアイホールがカーラインをじっと見つめていた。カーラインは目が飛び出すかと思うほどに瞳を見開き、阿呆のように開いた口から凄まじい声を上げた。それは悲鳴と言うには余りにも奇妙な叫びだった。屋敷の中で地下からの声を聞いたメイドの少女は、生まれてはじめて聞く恐ろしい声だったので、地下に手負の悪魔でもいるのかと思った。
カーラインは受け入れきれない恐怖と悲劇を内に抱えながら、地下室から一階へ続く階段をゆっくりと一歩ずつ上がっていた。来たときと同じように、足音だけが異様に響く。地上の光に近づくほどに、カーラインの心は嘘のように軽くなっていく。受け入れがたい現実も、耐え難い恐怖も、階段を一歩上がるごとに薄れていった。そして地下から地上へ出た瞬間、彼は心の底から救われたと思った。
「あは、あははははっ、あっはっははは!!」
カーラインが笑いながら屋敷の廊下を走っていく姿を、メイドの少女はフェアリーと一緒に目撃した。カーラインは一目散に走って、屋敷の外へと出た。
「おお!! おお!! 何て素晴らしい!!」
カーラインは嬉々として足元の石ころを拾うと、それを太陽の光にかざして見つめた。
「すごいぞ! 大きなダイヤだ! これでわしは大金持ちだぞ!」
カーラインは夢中でその辺の小石をポケットに詰め込み、さらに大きな石を両手で掴んで高く上げて叫んだ。
「このダイヤはすごいぞ!! これがあればプラントを動かすことが出来る!! ばんざーい! ばんざーい! あひゃひゃはははっ!!!」
カーラインは完全に頭が狂ってしまった。