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闇色の翅  作者: 李音
妖精章Ⅹ 地獄の季節
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地獄の季節-7

 リーリアが目を覚ました場所はシルフィア・シューレの寮で医務室して使っている部屋だった。

「気づいたぞ、ティアリーの白魔法は効果覿面(てきめん)だな」

「当然よ! 銃で撃たれたくらいの傷なんてちょちょいのちょいなんだから」

 リーリアはまだ焦点が定まらない視界の中で声を聞いた。男の方の声がとても懐かしい感じがした。

「リーリア、わたしが分かるかね?」

 男が覗き込んでいる。リーリアはまだ焦点がぼやけていたが、声と雰囲気でそれが誰か分かった。

「……クライン先生?」

「そうだよリーリア。君は校庭に倒れていたんだ。それをわたしが見つけてここまで運んだのさ」

 リーリアは視界の焦点が定まると、やたらと重く感じる体を起こした。腕と足の傷はまだ痛むが、それよりも大きな傷がリーリアを苛む。リーリアは脳裏に焼き付いたメルファスの無残な死体を思い出し、同時にシャイアの声が頭の中に響いた。そして否応なしに襲いくる恐ろしさに震えた。クラインが心配そうにその様子を見ていた。

「大丈夫かい? 無理をしてはいけないよ」

「……大丈夫です」

 ふと見ると、サーヤがベッドの端の方に突っ伏して眠っていた。シルメラとウィンディは部屋の壁側にある長椅子の上で寄り添ってやはり寝ている。

「サーヤはリーリアが眠っていた二日の間、寝ないで看病していたんだよ。君の容態が心配ないと分かった途端に安心して寝てしまったよ」

「わたしは二日も眠っていたのですか?」

「ああ、そうだよ。出血が酷くて危ない所だったんだよ。事前の応急処置とティアリーの白魔法がなければ助からなかっただろう。倒れていた君を見つけた時には既に応急処置が施してあったんだが、助けてくれた人に心当たりはあるかい?」

 リーリアは俯いて何も答えず、その表情には恐怖の色が濃く現れていた。

「分からなければいいんだよ」

 クラインはそれ以上は追及しなかった。彼はリーリアに何があったのか気にはなっていたが、リーリアがとても辛そうなのでもう何も聞かない事にした。

「あの、セリアリス先生とマリアーナ先生は?」

「あの二人はフェアリーラントへ行く準備をしているよ。君が目を覚ますまでは待っていると言っていた」

「そうですか……」

 リーリアは安心すると同時に申し訳ない気持ちにもなった。自分のせいでフェアリーラントへ行くのが遅れてしまった。

 その時にクラインの傍らに浮遊しているレディメリーがリーリアの事を見つめていた。その様子からは大きな不安を抱いている事が手に取るように分かる。リーリアが別の方向からも視線を感じて見ると、ティアリーもレディメリーと同じような顔をしている。彼女等が何を言いたいのかリーリアはすぐに悟ると、メルファスにブラックオパールのペンダントを取られていた事を思い出して首の辺りを触った。そこにはペンダントの鎖があり、懐にも確かな存在感があった。リーリアはペンダントがあった事にはほっとしたが、エクレアの姉妹たちにどういう言葉をかけるべきか、とても考えられなかった。しばしの沈黙の後にレディメリーが言った。

「リーリア、姉様はどこにいるの? 少し前から気配が消えてるのよ。リーリアならどこにいるか分かるでしょう?」

「……隠していても仕方がないわ。エクレアはここに」

 リーリアは懐から出したペンダントを両手で包み込み、レディメリーとティアリーの前でゆっくりと手を開いた。大きなブラックオパールの輝きを見た途端、エクレアの姉妹たちの顔が悲しみに満ちる。二人は抱き合い、声を上げて泣き出した。その声でサーヤが目を覚ました。彼女はリーリアの無事を喜ぶよりも、エクレアの姉妹たちの悲しみに打たれて黙っていた。

「誰かがわたしを殺す為に、誕生日に爆弾を送ってきたの。それに気づいたエクレアは、わたしの身代わりになって……」

 リーリアの目から一粒の涙が零れ落ちた。それを見たレディメリーは涙しながら言った。

「リーリアを守る為に死ねて、きっと姉様は幸せだったよ」

「そうよそうよ、間違いないわ!」

 ティアリーは涙を飛ばしながら、両手を握りこぶしにして力を込めて言う。

「ありがとう、貴方達にそう言ってもらえると救われるわ」

「そんなに悲しむ事はない、エクレアは死んではいないよ」

 クラインが微笑を交えながら言った。全員の視線が彼に集まる。レディメリーとティアリーなど涙を忘れて、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていた。

「クライン先生、それはどういう意味なのですか?」

「コアが残っていればフェアリーは甦る事ができる」

「それは……このブラックオパールを元にフェアリーを創ったとしても、わたしとの思い出の記憶もなければ見た目も違います。それはもうエクレアではありませんわ」

「いや、それでもエクレアだ。それを教えてあげよう。エクレアが犠牲となりコアだけの姿となったのは、この為なのかもしれないな」

 みんなクラインの言っている意味が分からずに困惑していた。

「わたしがここに戻ってきたのはね、君たちにわたしが気付いた大切な事を教える為なんだ。エクレアを通してそれを伝えよう。みんな一緒に地下の研究室まで来てくれ」

 サーヤとリーリアはクラインに付いて学校の地下にある研究所に向かった。校舎はエインフェリアに破壊されているが、地下室だけは無事に残っていた。リーリアは怪我の為に歩くのには難儀した。松葉杖をつき、サーヤに肩を貸してもらいながら歩いた。その移動の途中、地下室の近くにある裏庭でリーリアはずっと気になっていた事を尋ねた。

「クライン先生、どうしてレディメリーが契約の宝石を持っているのですか?」

「クラインはわたしとの契約を解除しちゃったのよ。自分は妖精使いの資格はないなんて、訳の分からないこと言ってさ」

 レディメリーが言うと、リーリアとサーヤが怪訝な顔をした。

「クライン先生に妖精使いの資格がないなんて、そんな事有り得ないよ」

「サーヤもそう思うでしょ! ねえクライン、サーヤだってこう言ってるんだからさ、意地張ってないでもう一度契約しようよ」

 レディメリーがクラインの前に来て契約の宝石であるピンクトパーズのペンダントを差し出すと、クラインは立ち止まって首を横に振った。

「わたしには妖精使いの資格はない。それは確かな事さ」

「んもう! 意地っ張りなんだからっ!」

「クライン先生、何があったのですか?」

 リーリアの問いに、クラインは悲しげな表情を見せる。

「出来れば君たちには話したくないな。それよりも今はエクレアを蘇生させる事に集中したい」

 それから地下の研究所に赴いたクラインは、まず自分が創ったガーディアンティンクたちの様子を見た。

「メープル、リリー、ルナルナ、元気そうじゃないか」

 生みの親が久しぶりに顔を見せているというのに、彼女等はサーヤの事ばかり見ていた。

「ほら、あなた達のお父さんが来てくれたんだよ、ちゃんとご挨拶しなきゃね」

「すっかりサーヤに懐いているね、本当に良かったよ」

 クラインが言った。良かったとはどういうことなのだろうか? サーヤにはとても引っかかる言葉だった。

「リーリア、エクレアのコアを貸してくれ」

「はい、先生」

 リーリアは首飾りを外すと、そのペンダントから宝石を取って差し出した。そして、53カラットの重みがクラインの手に渡る。クラインはエクレアのコアを見つめて言った。

「わたしはずっと考えていたんだ、エリアノがフェアリーを生み出した理由をね」

「それは、体が不自由な妹の世話をさせる為なのでは?」

 リーリアが模範の解答を示すと、クラインは疲れたような表情の中に微笑を浮べて言った。

「その為だけではない。わたしは以前から、エリアノがフェアリーを生み出した背景にはもっと重要な意味があると考えていたんだ。ずっと考えて、ついにそれを見つける事ができた。その理由の全ては、フェアリーのコアにあったんだ」

 リーリアにはクラインの言わんとする事が分からなかったが、サーヤは何となく分かるような気がした。

 クラインは何も入っていない卵形の水槽の前に移動すると、水槽の頂点の部分の蓋を開けた。中は羊水に近い構造の液体で満たされ、水槽の底には土が沈んでいる。クラインがその中にエクレアのコアを入れた。地上の空気を纏いつつ液体の中に入った7色の宝石は水槽の中央に止まり、空気の泡だけが水槽の上に向かって昇っていく。

 クラインは水槽に連結された装置のボタンを押した。

「フェアリーを生み出すのに必要なのは、コアとなる宝石と精霊力の宿った土、そして魔法の羊水とコアに魔力を供給する為の装置だ。この装置はエリアノが考案したもので、内部はとても複雑な構造になっている。この中でフェアリーはコアを中心に肉体が構成されていく。そして肉体の構成と同時にもう一つ重大な事が起こる。それは人間の生死にも深く関連しているんだ」

 地下の研究所に静けさが訪れた。頼りないランプの炎が照らす中で、人々の息遣いだけが聞こえていた。その中でエクレアのコアが淡く輝きだし、水槽の底に沈んだ土が少しずつコアに向かって吸い寄せられていく。クラインはそれを確認しつつ再び口を開いた。

「フェアリーの創造の過程は、人間が子を宿し胎内で育っていく過程に似ている。母に宿った赤子は時間をかけて胎内で肉体を構築し、そして命を宿す。その命とはどこから来るのだろうか? それを確かめる方法はないが、確かな事は構築された赤子の肉体に命が宿るという事だ。肉体は命の(うつわ)と考える事が出来る。しかし、命が肉体のどの部分にあり、どのような形で存在しているのかは分からない。あるいは命は我々の体の全体に広がって肉体を支配しているのかもしれない。命の在り方はどこまでいっても謎だし、目で見る事も出来ない。そこでエリアノはフェアリーを創る事にしたんだ」

 そこまで聞いて、サーヤとリーリアははっと目の覚めるような思いがする。クラインの言わんとしている事が、エリアノの思いが、おぼろげに形となって見えてきていた。

「君たちは賢いから何となく察したかな? フェアリーと人間の最大の違いは分かるかね? フェアリーは肉体の他にコアというもう一重の器をもっている。フェアリーの肉体はコアを宿す為の器だ。ではコアとは何なのか? それはフェアリーの命だ。そう、フェアリーは命を目に見える形で持っているんだ。もっと正確に言えば、コアは命を宿す為の器だ。エリアノはコアを用いて命を目に見える形にした。彼女は命の存在を人間に教えたかったんだと思う」

 そしてクラインは親指で自分の胸を差して言った。

「エリアノは、ここに命は確実に存在すると言いたかったんだよ」

 サーヤとリーリアは言葉もなかった。フェアリーという小さな存在にそんな深い意味があったなど、考えもしなかった事だ。しかし、サーヤには命の存在を明かそうとしたエリアノの思いは分かった。サーヤはエリアノの身代わりとなるような気持ちで言った。

「命が確実に存在するって分かったら、きっと人間はもっと優しくなれたと思う。でもエリアノは、それを伝える前に殺されてしまった。酷いよ、あんまりだよ……」

 サーヤは泣いた。エリアノの無念さが、悲しさが、手に取る様に分かって胸の内を焦がした。

「サーヤ、君はどうしてエリアノが殺されたと思うのかね?」

「根拠はありません。でも分かるんです、エリアノは絶対に殺されています」

 サーヤの涙で輝く瞳には深い悲しみと何者にも負けない剛直さが現れている。根拠が示されなくても、エリアノが殺されたと確信させられる姿だった。

「本当にエリアノが殺されているのなら、それを証明できれば多くのものを覆すことができるな」

 クラインは考え込んで独り言のようにいった後、水槽の方に意識を移した。

「話を戻すよ。フェアリーの肉体の構築と同時に何が起こるのか、もう言う間でもないだろう。コアに命が宿るんだ。しかし、このブラックオパールには既にエクレアの命が宿っている。フェアリーの命はコアという形となって残る為、コアさえ無事なら何度でも同じ命を持ったフェアリーを生み出す事が出来る。特殊な事情によってコアから命が出て行ってしまう事もあるようだが、そんな事は滅多に起こらない。このブラックオパールのコアから生まれるフェアリーには、確かにエクレアが生きた記憶もなければリーリアとの思い出の記憶もない。見た目も同じではない。しかし、コアは同じだ、このコアはエクレアの命だ。エクレアの命から生まれるフェアリーなのだから、それはエクレアに決まっている。エクレアと心を通わせたリーリアならば、それを確信する事ができるはずだよ」

「もし、もう一度エクレアに会えると言うのなら、こんなに嬉しい事はないわ」

「すぐに会えるよ。このブラックオーパールはとても強い力をもっているから、一日あれば復活できるだろう」

 それからクラインは近くの椅子に座って背もたれに体を預け、重くのしかかるような疲れを癒した。

「君たちにこの事を伝えたかったんだ。後はサーヤにお願いがある」

「はい、わたしに出来る事なら何でも言って下さい!」

「ガーディアン・ティンク達を君に託したい。あの子たちの母親になってやってくれ」

「……そんな、何言ってるんですか? あの子たちはクライン先生の子供たちです。ちゃんと責任を持って父親の役目を果たしてあげて下さい」

「そうしたいが無理なんだ。さっきも言っただろう、わたしには妖精使いの資格はない。当然、フェアリークリエイターとしての資格もね。エクレアを蘇生させるのが最後の仕事だよ。サーヤ、今あの子たちと心が通じ合えるのは君だけなんだ、君は唯一無二なんだよ」

 サーヤは断ってクラインにここに居てもらおうと強く心に決めて反論しようとしたが、クラインの苦悩深くまるで泣いているような表情の前に心が痛くなった。

「クライン先生……」

 サーヤはクラインに何があったのかは知らないが、クラインにとって決定的な悪い事があったのだと悟らざるを得なかった。

「……先生、分かりました」

 心優しいサーヤにはクラインの頼みを断る事はとても出来なかった。それを聞いたクラインは、まるでこれから安らかに死にゆく者のように目を閉じて深く息を吐いた。

「サーヤ、この子たちをよろしく頼む」

 それからサーヤはリーリアを連れて研究室を出た。リーリアはエクレアの側に居たがったが、まだ怪我が治っていないので休まなければならなかった。結局リーリアはサーヤに説得されて、医務室で休みながらティアリーの魔法の治療を受ける事になった。


 翌日、リーリアは朝から研究室に来てエクレアの様子を見ていた。サーヤは傷が癒えるまで休むようにと、散々リーリアに言って聞かせたが無駄であった。サーヤはエクレアの側にいたいというリーリアの気持ちは我が身の如く分かるので、説得するのは止めてリーリアから離れないようにして見守る事にした。

 フェアリーはとても可愛らしい生物だが、それが生れる過程はかなりグロテスクなのである。それに耐えられずにフェアリークリエイターになるのを諦める人がいるくらいだ。どう言う事なのかというと、コアを中心に内側から体が形成されていくので、ある程度肉体が出来上がると骨や内臓が丸見えの状態になるのだ。

 リーリアは体の半分程が出来上がってきたエクレアを愛おしそうに見つめていた。エクレアがどんな状態であったとしても、自分が誰よりも愛する妖精である事には変わりがない。エクレアの姉妹たちも、サーヤとその妖精たちも出来かけのエクレアを興味深そうに見ていた。

「へぇ~、妖精ってこうやって出来るんだ」

 サーヤはまったく気味悪がったりもせずに感心していた。どんな見た目でもそれが妖精ならば、サーヤにとっては愛すべき対象なのであった。

 シルメラは何とも言えない気持ちでエクレアを見つめていた。ランプの炎を受けて光るその蜂蜜色の瞳には、シャトヤンシーと一緒に喜びと悲しみを表白する潤みがある。

「どんなフェアリーが生れてくるんだろうな、前みたいに生意気じゃないといいけどな」

 シルメラはエクレアが死んだと聞いた時、自分の予想しない悲しみが押し寄せた。いつも喧嘩をしていたエクレアがいなくなったという事実は、ある意味では妹のテスラを亡くした時よりも衝撃的であった。実際、テスラが死んだときは泣かなかったが、エクレアが死んだときはサーヤの見えない所で涙を流していた。そのエクレアが甦る。そこは本当に嬉しいのだが、また喧嘩を吹っかけられるかもしれないと思うと素直に喜べない部分もあった。

 クラインが水槽に連結された機器についているダイヤルのようなものを回しながら言った。

「見た目は変わるだろうけど中身は同じだよ」

「性格は変わらないってことなのか?」

「性格は少しは変わるかもしれないな。中身は同じというのは命が同じという意味だ。口で言い表すのは難しいのだが、精神の奥底(おうてい)の部分は変わらないとでも言っておこう」

「なんだか良く分からないけど、生意気な所は変わらない気がするな」

 リーリアがエクレアの生れようとしている卵形の水槽をなでた、それはまるで母親が生れたばかりの赤ん坊を気遣うような優しい手つきだった。

「早く貴方に会いたいわ、会ってどうしても言いたいことがあるの」

 それからリーリアは片時も離れずにエクレアを見続けていた。その場でティアリーの魔法の治療を受け、食事はサーヤが研究室まで持ってきてくれた。そして時は移り夜になる頃にはエクレアは新たな妖精としての姿になっていた。一糸まとわぬ小さな少女の姿は以前のエクレアとは違っていた。カールのかかっていた栗色の髪は、艶のあるショートの黒髪に変わっている。背中の翅は以前と変わらなず蝶型で黒をベースとした色の中に七つの煌めきを持っていた。

 サーヤは水槽の中の少女を見て言った。

「なんか、前のエクレアより一回り小さくない?」

「生まれたばっかりだからよ。一、二年で成長して元の大きさに戻るよ」

 とレディメリーが説明した。一般的なフェアリーはごく短期間だが幼少期が存在する。しかし、フェアリーワーカー等の量産されるフェアリーは特殊で、生まれた時から大きさが変わらないので通常のフェアリーよりも一回り小さいのだ。ワーカーのウィンディを基礎にして生まれたガーディアン・ティンクたちも同様である。

「よし、もう大丈夫だ。リーリア、エクレアを呼んでごらん、きっと反応するよ」

 クラインが言った。ついにこの時が来た。リーリアは再びエクレアに会える喜びと、本当に目の前のフェアリーがエクレアなのかという懐疑の狭間で水槽に顔を近づけた。

「エクレア、目を覚まして。わたしよ、リーリアよ」

 すると水槽の中の少女がゆっくりと目を開いた。瞳の瞳孔の中に七色の光が宿っていた。少女がリーリアを見上げて瞳孔の角度が変わると、ブラックオパールと同等に複雑に色合いが変わる。

「エクレア、わたしが分かる?」

 リーリアが言っても、エクレアは水槽の中できょとんとしてかつての主を見つめていた。リーリアは少し心配になってきた。そんな持ちを分かっているかのようにクラインは言った。

「言葉では理解できないよ。今のエクレアは新しい体をもって生まれてきた。脳も新しく変わっているから記憶はない。でも感覚でリーリアの事が分かるはずだ。抱いてごらんよ」

 クラインが水槽に連結された装置のボタンを押すと、水槽の中の液体が瞬く間に引いていく。クラインはリーリアに白いタオルを渡した。

「これで体を拭いてあげて」

 リーリアは水槽の蓋を開けて、生まれたばかりの妖精を抱き上げる。エクレアはただじっと7色の輝く瞳でリーリアの事を見つめていた。リーリアが柔らかい布でエクレアを包み濡れた髪を拭いてやると、エクレアが小さな手を伸ばしリーリアの頬に触れて笑った。赤ん坊と変わらない無垢で素直な笑みだ。それを見たリーリアは自然と涙がこみ上げた。

「エクレア、ずっと言いたかったの。わたしを守ってくれてありがとう。あなたのお蔭で、わたしはまだ生き続ける事ができている」

「リー……リア……」

「え? どうしてわたしの名前を?」

「水槽の中で我々の言葉を聞いて学習したんだろう。今のエクレアは言葉も知識もないが、恐らく感覚では分かっている、リーリアが自分にとって大切な人だとね」

 クラインが言うと、リーリアはエクレアを抱きしめて、互いの頬を寄せ合った。

「はうぅ」

 エクレアは頬を摺り寄せるリーリアに対して、とても心地よさそうに目を閉じていた。

 リーリアはこうして肌をふれあっていると、とても懐かしい感覚と、無上の愛が込み上げてくる。

「……分かる。この子はエクレアよ、間違いないわ。見た目が変わっても、以前の記憶がなくても、誰が何と言おうとこの子はエクレアなのだわ」

「君とエクレアは心が通じ合っていたから分かるんだ。例え死んだとしても命は変わらない。恐らく肉体の記憶は無くなっても、命の記憶は消えないんだ。命の記憶は感覚や感性といったものによって甦る。リーリアとエクレアの心はもう繋がっているよ、また以前のように家族となる事ができるだろう」

 クラインはそう言った後に、夜通し作業し続けた後の激しい疲労がやってきて、その辺の椅子に座って目を閉じた。彼は自分の成すべき事はもうないと思い、最後の仕事を終えた感慨と共に睡魔に襲われてしばしの眠りに付いた。

 リーリアとエクレアに、サーヤと他のフェアリーたちも近づいて来る。

「リーリア、良かったね」

 サーヤは二人の再会に感動して涙ぐんでいた。一方、フェアリー達の様子は少し違った。まず、レディメリーがエクレアをまじまじと見つめながら言った。

「これがエクレア姉様なの? う~ん、生まれたばかりだから姉様なんて言うのは変ね。そうしたら、わたしが一番上のお姉さんって事よね!」

「そうだよね、エクレア姉様は姉様じゃなくて、末の妹になるから、わたしの方が偉いんだ!」

「おーっほっほっほ! わたしの方がもっと偉いわ! 立場逆転ね、何だか楽しくなってきたわ」

 今までエクレアは妹たちに対してよほど威張っていたと見えて、レディメリーとティアリーは何やら悪そうな笑みを浮べていた。

「じゃあ二人でしっかり躾けましょ、素直で従順で可愛い妹になるようにね!」

 レディメリーが言う事に、ティアリーは何度も頷いていた。そんな姉たちにエクレアは嬉しそうな笑顔を見せた。今度はシルメラが近づくと、途端にエクレアは笑顔を消して警戒した。

「見た目は違うけど、生意気そうな目は変わってないな」

 シルメラがリーリアに抱かれるエクレアを覗き込んでみていると、いきなりエクレアの平手打ちが飛んできた。大した威力ではないが、ぴしゃりと良い音がした。

「いてっ!? なんだこいつ、いきなり殴って来たぞ!?」

 それを見たリーリアとサーヤは思わず声を上げて笑っていた。サーヤ可笑しくて目じりに涙を浮かべながら言った。

「きっとクライン先生が言っていた命の記憶だよ。シルメラと仲が悪いっていうのが感覚で分かるんでしょ」

「まじかよ、そんな記憶忘れろよ……」

 それからシルメラは、うんざりしながらエクレアの姉妹たちに向かって言った。

「おいお前達、こいつをしっかり躾けてくれよ。もう喧嘩を売られて無駄な体力を使うのは嫌だからな」

 それからはみんなでリーリアとエクレアの周りに集まって、エクレアに言葉を覚えさせたり、とりとめのない話で笑ったりしていた。悲しい事ばかりのシルフィア・シューレの中で、エクレアが生まれ変わった事は喜びに満ちた出来事となった。

 その日の夜中、クラインは誰にも見つからないように学院を出て行こうとしていた。

 クラインが校庭の中ごろまで歩いたところで、レディメリーが後をおってやってくる。

「レディメリー、どうしてわたしに付いて来るんだ? 君はエクレアの側にいてあげるべきだ」

「エクレアはティアリーが付いていてくれるから大丈夫だよ。それよりもクラインの方がずっと心配だよ」

「わたしに付いて来ても良い事などないよ。もう君と契約はできない」

「それでも! それでも付いて行くわ! わたしにとってクラインは大切な家族だもん!」

「……レディメリーすまない。わたしも君の事は大切に思っているよ。だからこそ、新しいマスターを見つけて幸せになってほしいんだ」

「そんな事いったって無駄なんだから。わたしはずっとクラインに付いて行くわ!」

「仕方のない子だ……」

 クラインは微笑を浮べた。笑っているのに、彼の中には悲しみしかない。自分に付いてくるレディメリーが不憫でならなかった。

 クラインとレディメリーは校門から外に出ると、その先に広がる闇の中に消えていく。

「クライン、これからどこにいくの?」

「行く場所などないよ。当てのない旅を続けるだけさ」

 闇の中にクラインの声が寂しげな余韻を残した。彼らが去った後には、近くの海辺から聞こえてくる波の音だけが残されていた。

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