地獄の季節‐2
「おはようメープル、元気そうだね」
最近のサーヤの毎朝の日課は、ガーディアン・ティンク達の様子を見る事だった。クラインが希望を託した妖精たちを、サーヤが気にしないはずはなかった。
「ルナルナとリリーもおはよう」
三人の妖精たちは、サーヤが来ると凄く嬉しそうな顔をする。まるで母親と久しぶりに再会した幼子のような感がある。創造主であるクラインがいなくなった今、妖精たちの心はサーヤの虜になっていた。
彼女等は、最初はサーヤが来て嬉しそうなのだが、すぐに不満をさらけ出し、不平を漏らすように口を動かし始める。卵形の水槽の中で羊水に漬かっているので声が外に届く事はないが、サーヤには妖精たちが何を求めているのか手に取るように分かる。
「お外に出たいよね。でも、今は危ない事が沢山あるから、もう少しだけ待ってね。落ち着いたら一緒に遊ぼうね」
サーヤがそう言うと、妖精たちは諦めて口を閉ざすのだった。ここに来る時、サーヤはウィンディを連れてこないようにしている。サーヤに付いてこようとするウィンディを説得するのは殆ど不可能で、いつもシルメラに頼んでウィンディの相手をしてもらい、その隙に妖精たちに会いに来ている。ウィンディを連れてくると、水槽の妖精たちがサーヤと一緒にいるウィンディを羨ましがるのだ。サーヤはそれが可哀そうでたまらないのであった。
その頃、ウィンディはシルメラと一緒に、自分で描いた青い妖精の顔の落書きを消していた。
「くそ、しつこい落書きだな」
「むぅ、おでこのが消えないの」
「お前、油性のインク使っただろ」
「ゆせい?」
ウィンディはシルメラの事を不思議そうに見ていた。つまり、ウィンディが持ってきた羽ペンにたまたま油性のインクが付いていたという事だった。
二人で四苦八苦して、両方の頬の落書きは何とか消すことができたが、額の落書きだけはいくら頑張って拭いても薄らと残ってしまっていた。こればかりはどうにもならなかった。
ユーディアブルグにあるシャイアの屋敷では、ずっと家を空けていたシャイアが急に帰ってきて慌しくなっていた。まず、屋敷で働いているフェアリー達が仕事を放ってシャイアとコッペリアの周りに集まってきて、ちょっとした騒ぎになった。
「奥様、コッペリア、お帰りなさい!」
「お帰りなさいませ!」
料理係のアルと掃除係のライムが真っ先に飛んできて言った。それから他のフェアリー達も飛んできて次々にあいさつしていく。
「コッペリアが帰って来るって分かっていたら、ご馳走を作って待っていたのに」
アルが言うと、コッペリアは大当たりの宝くじを無くしたくらいの無念さを露わにしてた。
「そいつはしくったね、知らせておくんだった」
仕事を放棄したフェアリー達を追いかける形でメイドたちも集まってくる。最初にシャイアの前に来たのはアンナだった。
「シャイア様、帰ってこられたのですね!? プラントで大きな事故があったと聞いて心配していました。お怪我などはございませんか?」
「大丈夫よアンナ。少し疲れているの、ゆっくり休みたいわ。部屋に紅茶を運んでちょうだい、あとお菓子を……」
シャイアは一瞬コッペリアに目配せをした後に言った。
「お菓子は山盛りでね」
「わかっています」
アンナは主が帰ってきた事が心から嬉しいと言う笑顔と共に言った。シャイアは早々に屋敷の中に入って休もうと、早足で入り口に向かう。そして、使用人の一人が先回りして開けた扉の前に立ち止まって言った。
「そうそう、お客様が来るわ、近いうちにねぇ」
シャイアは左右に整列しているメイドたちに怪しげな笑みを浮べつつ言った。心の底で狂気と歓喜を交錯させた、美しくも魔を思わせる笑みであった。
シャイアの言った通り、三日後に来客があった。しかし、客を迎えたアンナは、シャイアを訪ねてきたその男に戸惑いを隠せなかった。普通なら門前払いするところだが、シャイアが事前に来客をほのめかしていた事があったので、アンナは一応シャイアに男が来たことを伝えに来た。
「シャイア様、男の方が訪ねてきました」
「そう、わたしが言った通りだったでしょう」
「あの、シャイア様が仰った方とは違うと思います。どうやってここまで来たのか分かりませんけど、酷い恰好です」
「その男で間違いないわ。カーラインと名乗っていたでしょう?」
「はい、そう名乗っていました」
「地下室よ」
シャイアの言葉に、アンナは怪訝な顔をした。
「かつてこの屋敷の主だった愚かな男が母親を閉じ込めていた地下室よ。その男を連れて来なさい、いいわね」
シャイアの有無を言わさぬ態度に、アンナは背骨の芯から悪寒を覚え、恐怖に心を震わせた。彼女だけはシャイアの底に眠る狂気と純粋さを理解している。男は狂気の生贄になるのだ、アンナにはそれが分かった。
「かしこまりました、カーライン様を地下室にお連れします」
アンナは自分でも恐ろしくなるほどに心を落ち着けて言った。シャイアについて行くと決めたその時から、彼女も狂気に魅入られていたのかもしれない。
普通の人間ならば、地下室などに案内されたら少しは怪しいと思うだろうが、今のカーラインは自分が救われたい、自分を救えるのはシャイアしかいない、そんな気持ちでめい一杯で、他に何かを考える余裕などなかった。とにかくシャイアに会って助けを請う、それだけしか考えていなかった。
シャイアは地下室を、気分を変えて仕事をしたい時に使っていたので、仕事机から調度品、床のカーペットまで綺麗に整っていた。地下室の印象とはおよそかけ離れた様子になっていたが、地下の冷たく重々しい空気だけは変えようがなかった。そこへアンナがカーラインを案内してやってくる。シャイアは黒いドレスに身を包んで椅子に座り、顔には微笑を浮べ、足を組んで悠然と構えていた。コッペリアはと言うと、何食わぬ顔で机の上で足を延ばして座り、人形のようにじっとしていた。
カーラインが部屋に入ると、アンナは気づかれないように出て鉄扉を閉めた。彼女の行動は全てにおいてシャイアの思慮に叶っている。シャイアにとって、これ以上ない優秀なメイドである。
「おお、シャイア! どうして急にいなくなってしまったんだい? 散々探し回ったよ!」
かつてフェアリープラントの経営者であった男の姿はアンナが言った以上に酷いものであった。着ている服はシルク製の上等なものなのだが、そのせいで落魄ぶりが余計に目立っている。服は擦り切れ、ズボンは泥まみれ、ここに来るまでの辛苦が伺えた。シャイアはそんな男の姿が愉快でたまらなかった。
「まあ、酷い恰好ねぇ」
「わしが今までどんなに苦労してここまで来たのか分かってくれるだろう? 輝石炉が無くなってしまった、どうしてこんな事になってしまったのだ? 君なら何か知っているはずだ!」
「ふぅん、なるほど、輝石炉の破壊をわたしのせいにして恩を売りたいのね、小賢し」
「ち、違う!? そんなんじゃない!? ただわしは真実を知りたいんだ、お願いだから勘違いしないでおくれ……」
カーラインはまるで女王のご機嫌を伺うような卑屈な態度であった。それは、シャイア以外に自分を救える者がいなかったからだ。今まで教会や王家と繋がっていられたのは、フェアリーを生産する事ができたからだ。輝石炉がなくなりそれが不可能となった今、権力が彼を見放すのは確実であった。シャイアの目の前にいるのは、富も栄誉も失った矮小な老人に過ぎなかった。
カーラインはシャイアの前に跪き、命乞いにも等しい姿で懇願した。
「お願いだ助けておくれ! わしには何もなくなってしまったが、君にはこの素晴らしい街がある、富も栄誉もある! 男一人を助けるくらい簡単だろう?」
シャイアは失笑した。頭を擦り付けるような調子で必死に懇願するカーラインの無様さに、自然と笑いが込み上げてきた。本当はもっと大笑いしてやりたかったが、この先の楽しみの為にそれは抑えた。
シャイアは椅子から立ち、カーラインの前で片膝を付いて姿勢を低くすると、老人の顔を両手で柔らかく包み込み、顔を近づけた。シャイアの滑らかな手の感触と同時に人間離れした美しさの顔が間近へと迫る、それだけでカーラインは天にも昇るような気持ちになった。
「今のは冗談よ、そんな心配そうな顔をしないで。わたしなら一人の老人を助けるくらい訳ないわ。安心して余生を過ごせるようにしてあげる」
カーラインはシャイアの官能的な吐息に心酔していた。
「おお……シャイア……」
「なぁんちゃって」
突然、カーラインの前にある美しい顔が狂気的な笑顔で歪んだ。カーラインは心を底から凍らせる本能が知らせる恐ろしさに震え、同時に笑みを刻んだ余りにも幽玄なシャイアの姿に嬌然して言葉を失った。哀れな老人は全く違う二つの感情に押し潰されてしまった。
シャイアは立ち上がり、そんな老人を見下した。
「世界の終わりが見られなかったのはちょっと残念だったけれど、そのお蔭で貴方はわたしの望む姿になって現れてくれたわ」
カーラインは口を開けて呆然としてシャイアを見上げていた。彼には何が何だか分からなかった。
「何て間抜けで無様な姿なの、今の貴方、本当に最高よぉ」
そしてシャイアの笑い声が地下室に響き渡った。普通の女なら下品に見えるであろう、抱腹するような大笑いする姿にも、シャイアだとどこか神秘的な雰囲気すらあった。カーラインは思わずその姿に見とれてしまっていた。
シャイアはひとしきり笑うと、急に真顔になり鋭い目でカーラインを見据え、これ以上ない憎しみを込めた形相になっていた。
「貴方なんて殺そうと思えばいつでも殺せた! でもそれじゃあわたしの気が済まない! 何もかも奪い取って、堕落させて、絶望のどん底に突き落としてから、至高の苦痛を与えて殺そうと決めていた!」
ここまで来てようやくカーラインは自分の命が危ないと感じ始める。
「わたしの本当の名前はシャイア・カレーニャ、聞き覚えがあるはずよ」
「……カレーニャ、それではお前はレアードの……」
カーラインはシャイアと目が合って声が出なくなった。微笑交じりのシャイアの姿は悪魔そのものであった。カーラインは恐れつつも、心の奥底で憎悪に身を委ねたシャイアの美しさに感動した。今のシャイアにはこれから来るであろう死を忘れさせるほどの美の衝撃があった。
「お父様の事を覚えていてくれて良かったわ。もし忘れてしまっていたら、貴方を殺す楽しみが半減してしまうもの」
カーラインは今こそ自分の確実な死を予感した。彼は素早く懐に手を入れて、拳銃を出して銃口をシャイアに向けた。拳銃を持つ彼の手は激しく震えていた。シャイアは早く撃てと言わんばかりに悠然と構えている。カーラインは自分の命が危ないと分かっていても撃てなかった。まるで本物の女神に銃を向けているような感覚で、殺されそうになっている自分の方が不遜であるという思いすら抱いた。
シャイアの後方の机に座っていたコッペリアの赤い双眸が見開かれる。それとほとんど同時にカーラインは拳銃を構える右手に凄まじい衝撃を受け、銃と一緒に親指が吹き飛んだ。
「ぐああぁーーーーーーっ!!?」
カーラインの生涯の中で最大の苦痛と悲鳴であった。彼は親指が無くなった傷口を左手で押さえながらシャイアの前で転げ回った。
「バカだねぇ、余計なことしなきゃ無傷でいられたのにな」
シャイアの後ろでコッペリアが言った。今のこの状況で、彼女の言った事は何やら妙であった。シャイアはそれを気にもしなかった。目の前に転がる男にどんな苦痛を与えて殺してやろうか、今のシャイアにはそれしかない。カーラインはそんなシャイアに対して、必死に命乞いを始めた。
「助けて! 助けてくれ!! どうか命だけは!! 仕方なかったんだ、レアードは王国議会でフェアリーに人権を与える法律を通そうとしていた! そんな法律が出来たらフェアリープラントはお終いだった! だから、ああするしか方法がなかったんだ! わたしだって彼を殺したくて殺したわけじゃないんだ、分かってくれ……」
涙ながらに訴えるカーラインを、シャイアは恐ろしく冷めた目で見おろしていた。
「わたしに必要なのは、貴方がお父様を殺したと言う事実だけ、それ以外の事なんてどうでもいいわ」
シャイアは少し表情を和らげていた。カーラインは自分の訴えが通じたのかもしれないと、淡い希望を抱いた。
「ふふっ、貴方が部下を惨殺された時の顔ったら、たまらなく可笑しかったわねぇ。わたしの言う事に踊らされてシルフィア・シューレに攻撃まで仕掛けて、そのせいで自分の立場を危うくした。愚かしいにも程があるわ、貴方の部下を殺したのは、わたしとコッペリアなのにねぇ」
聞いた相手の気を狂わせるような、シャイアの艶やかな笑い声が響く。カーラインにとっては先ほどの大笑いよりもずっと衝撃的であった。全てを理解した彼は涙を流した。言葉など何も見つからなかった、ただ子供のように泣きじゃくる事しかできなかった。
「いいわぁ、わたしが望んだ通りの姿よ。今の貴方の何もかもが素晴らしいわ。もう十分、そろそろ死になさい」
「う、うわあぁーーーーっ!!?」
カーラインはシャイアから死を告げられると、突然襲ってきた生への執着に取りつかれ、シャイアに背を向けて出口に向かって走り出した。すると、鮮やかな色彩のものが彼の前にいきなり現れ、それは次々に彼の足元に突き刺さり、格子状になって行く手を阻んだ。カーラインは後ろを振り向いて戦慄した。それは伸長したコッペリアの翅であった。
「無駄よ、ただの人間がコッペリアから逃げる事なんて出来ないわ。貴方はここで死ぬのよ」
カーラインはその場で腰が砕けて座り込み、そして恐ろしさのあまり失禁した。
「さぁて、どうやって殺してあげようかしら? そうねぇ、まずは逃げられないように足からにしましょう。ひと思いになんて殺してあげないわ、まずは足の指を全部切り落として、次は手の指、少しずつ色んな場所を切り落としていって、じっくりと痛ぶり殺してあげる」
「い、いやだ、いやだぁ!!! お願いです助けて下さい!! 命だけは、命だけは!! 助けて下さい! 助けて下さい! お願いですから、お助け下さいぃぃ!!」
カーラインは両手を組んでひれ伏し、泣きながら命乞いをした。それが今の彼が生き残る為に出来る最善の行為であった。そんなどうしようもなく哀れな姿の男に対し、シャイアは一変の情もなかった。
「コッペリア、その男の足の指を靴ごと落としてしまいなさい」
カーラインは絶望し、気がふれたように叫びながら起き上がろうとする。しかし、足が震えて言う事をきかず、無様に地面に這いつくばった。コッペリアは絶望に魅入られた男を無言で見おろしていた。
「何をしているの? はやくしなさい」
「下らないよ、シャイア」
「何ですって?」
「こいつは死すべき運命ではないし、殺す価値もない。こんなつまらない人間を殺して、お前が罪を背負うなんて馬鹿げているよ」
「コッペリア、ふざけないで!! ここまで来て裏切るつもり!!?」
「こいつは殺さない方が良い、お前にとってその方が良いんだ。わたしには分かるんだよ」
「よくもぬけぬけとそんな事を!? ようやくここまで来たのに! もう少しでお父様の仇が討てるのに! ここで貴方に裏切られるなんて……」
シャイアの青い瞳から涙が溢れて零れ落ちた。
「貴方だけは信じていたのに……」
コッペリアにはマスターであるシャイアの悲しみが直に伝わっていた。だからコッペリアは心を深く痛めた。
「シャイア、わたしを信じておくれ。今までだってお前の為に尽くしてきたじゃないか。お前の為に望まない殺しだってやってきた。死すべき運命でない者を殺すのは苦痛なんだよ。それでも殺したのは、わたしにはお前しかいないからだよ」
「うるさい、黙りなさい!! もういいわ、貴方なんかに頼まない! 自分の手でお父様の仇を討つ!」
シャイアは先ほどコッペリアが吹き飛ばした拳銃を拾うと、それをしっかり握って父親の仇に銃を向けた。カーラインはやめてくれと言うように、シャイアに向かって片手をあげた。
「お父様の仇っ!!!」
鼓膜を突き破るような銃声が地下室を震わせた。シャイアの撃った弾はカーラインに命中したものの、耳の肉を少々そぎ落としただけだった。カーラインは耳を押さえて大袈裟に痛がり、何とか立ち上がると、悲鳴をあげながら地下室の鉄扉を開けて逃げ出した。
シャイアは銃を撃った時に手を痛めて、拳銃を落とした。そしてその場に座り込み、両手で顔を覆って声を上げて泣き始める。シャイアは父の仇が取れなかった事よりも、コッペリアに裏切られた事が悲しかった。
コッペリアは悲しげな顔でシャイアに近づいて言った。
「シャイア、これで良かったんだよ」
そう言うコッペリアを、シャイアは顔を上げて睨みつける。涙に濡れた表情には、憎しみの炎が燃え上がっていた。それを見たコッペリアは言い様のない恐れを抱いた。
シャイアは不意に立ち上がると、机の上にあった花瓶を掴みコッペリアに向かって思い切り投げつけた。コッペリアは反射的にそれをかわし、彼女の後ろの壁に花瓶は叩きつけられて粉々に砕ける。
「もう貴方なんてわたしのフェアリーじゃない!! 出て失せなさい、もう顔も見たくない!!」
「シャイア……」
コッペリアの赤い瞳が涙で潤むと、シャイアの中で哀れみが憎しみを凌駕しそうになった。シャイアはコッペリアを見ないように顔を背けてから言った。
「わたしの言った事が聞こえなかったの」
「……わかったよ」
コッペリアは全てを諦めて、シャイアの前から消える事にした。
「シャイア、最後の頼みだよ。わたしにはまだやるべき事がある。けど、サーヤがいたらそれは無理なんだ。だからサーヤがわたしの邪魔をしないように抑えておくれ。これはお前にしか出来ない事なんだよ」
それだけ言い残すと、コッペリアはシャイアの前から素早く飛び去った。屋敷から外にでたコッペリアは、上空に止まってシャイアと共に暮らした家を見つめた。そうすると悲しみが抑えられなくなって、ピジョンブラッドの瞳から涙が零れ落ちた。