崩壊‐2
エインフェリアの完成により、クラインはカーラインとの約束は果たした。だが、まだレディメリーは解放されなかった。
クラインはシャイアに呼ばれて、プラント内にある宿泊施設に赴いた。そこは職員や研究員が泊まる所なので、設備は整っているが、利便性だけで客を迎えるような華やかさはまったくない。その中でカーラインが自分専用に作った一等の部屋がシャイアにはあてがわれていた。当然、カーラインの方からシャイアに提供したものだった。
クラインが部屋の扉をノックすると、中から声が聞こえた。
「どうぞ、お入りになって」
シャイアの艶やかに媚を帯びた声がクラインの心に触る。彼は中に入ってはいけないと強く思ったが、心とは裏腹に扉を開けていた。入り口からまっすぐ奥にある机の前で、黒いドレス姿のシャイアが椅子に座って足を組んでいた。コッペリアはと言うとシャイアの足元に立っている。クラインはシャイアの凝視するのが罪と思ってしまう程の美しさに撃たれて、思わず目を逸らしていた。シャイアは柔らかく組んだ両手を右頬に添えて、嬌美な笑みを浮べる。
「どうなさったの? 入っていらして、お話ししたいことがあるの」
クラインは後ろ手にドアを閉める。クラインの胸は彼の意志とは裏腹に高鳴った。彼は目の前の女が危険で恐ろしい存在であることを良く知っている。それでも気持ちを抑えられなかった。これは男が近しい女に抱くような欲望などとは程遠い。シャイアの魅力に囚われた人間は、もはや逃れることは出来ないのだ。それは魔力であり媚薬である。それが何かと言えば、持って生まれた魔性の力か、女王の資質なのか。シャイアには普通の人間には及びもつかない何かがあった。
閉めた扉の前で立ち尽くしていたクラインは、甘く香るほのかな香水の匂いを感じてはっとなった。その瞬間に、シャイアの美しい顔が目の前にあったので息が止まった。
「いつまでもそんなところに立っていて、どうしちゃったの?」
このまま口づけされるのではないかと思うくらいに、シャイアはクラインに近づいていた。シャイアが言葉を発する時にかかる甘やかな吐息と薄ピンク色の唇の動きに、クラインは嬌然とした。
シャイアはクラインから目を離さないようにして一歩下がると言った。
「あなたにはもう一つしてもらいたい仕事があるの。さあ、こちらにいらして」
クラインは言われるままにシャイアの後についていく。シャイアは机の上に置いてあった真っ赤な宝石箱を取ると、クラインにそれを手渡した。
「中を見てちょうだい」
クラインが宝石箱をゆっくりあけると、その中から放たれる燃えるような鮮烈な輝きを見て、シャイアに酔わされて天に上ったようになっていた意志が現実に引き戻された。
「この宝石は何だ? ルビーなのか? こんな輝きは見たことがない」
「乙女の血、わたしが名付けたのよ。オレンジサファイアにもなり、ピジョンブラッドにもなる奇跡の宝石よ。その大きさなら、フェアリーのコアになるでしょう」
シャイアが言うと、クラインは宝石箱を閉じて、険しい表情でまっすぐに彼女を見つめた。
「わたしの言いたいことが分かったみたいね。乙女の血でフェアリーを創るのよ。拒むことは許されないわ。それは分かっているわよね?」
「……これでどんなフェアリーを創れと言うんだい?」
「そうねぇ。あなたが前に創っていたフェアリーと同じものがいいわ。確か、ガーディアン・ティンクだったかしら?」
それを聞いたクラインは、シャイアに魅入られてしまった自身を呪った。シャイアの発想は余りにも恐ろしいものであった。
「……無理だ。この宝石では力が強すぎる。ガーディアン・ティンクはコアに大したエネルギーがなくても、マスターとの絆が強ければ凄まじい力を持つ。こんな宝石をコアにしてガーディアン・ティンクを創れば、力が抑えきれずに暴走するだろう」
「全く同じものを創る必要はないわ。あなたが手を加えれば、もっと素晴らしいフェアリーだって生み出せるでしょう。雛形には、このコッペリアを提供するわ」
「何だと!!?」
クラインは更に戦慄して、シャイアの足元に立っている黒妖精コッペリアを見つめた。
「人間にいじくり回されるなんてごめんだね」
コッペリアが威嚇するようにクラインを睨むと、シャイアは怒りを含んでコッペリアに言った。
「駄目よ。言う事を聞きなさい」
「嫌だね」
「言う事をききなさい! 約束を忘れたの!?」
「……仕方ないねぇ、我慢するよ」
コッペリアは心の底から嫌そうな顔をしていた。
「それでいいわ」
シャイアが子供に叱るように怒ったので、クラインは驚くと同時に、シャイアの人間的な部分を垣間見て、その魅力にさらにはまっていった。
「わたしにまだ悪魔の所業をさせようと言うのかい……」
「あなたのフェアリーを助けたければ、従うしかないわ」
「コッペリアとその宝石から、どんな恐ろしいフェアリーが生まれるのか想像もつかない。あなたは世界を滅ぼそうとでも言うのか?」
シャイアは下らないと言うように鼻で笑った。
「この世界がどうなろうと、知ったことではないわ。わたしはただ、見てみたいのよ。この宝石からどんなフェアリーが生まれるのかね」
「あなたはどうかしている……」
シャイアはまるで、どうかしていると言われたのが嬉しいかのように、驕慢な笑みを漏らした。
「うまく出来たら、ご褒美にキスをしてあげるわ」
「わたしを馬鹿にしているのか……」
クラインはそう言いながら、期待を抱いてしまっている自分が恐ろしくなった。
「馬鹿に何てしていないわ、本気よ」
シャイアは相手の視線を逃がさずに近づいた。もはやクラインは、罠に嵌った獲物と言ってもよかった。
「頑張ってね、クラインさん」
その後でシャイアの艶やかな笑いが部屋の中に広がった。クラインは、シャイアが黒妖精コッペリアの主になれた理由を今こそ理解した。そして、自分がシャイアに恋焦がれていることも、認めないわけにはいかなかった。
シルフィア・シューレでは、クラインがいなくなって生徒たちが疑いを持ち始めていた。院長のフィヨルドは生徒たちを心配させないように、長期の出張ということにしていたが、この異常事態のさなか一ヶ月も姿を消したままでは、生徒たちがクラインが失踪したと思うのも無理はなかった。
「クライン先生が姿を消してから一月になるが、警察からは何の音沙汰もない……」
院長のフィヨルドは、机の前で組んだ両手を額に当てて考え込んでいた。セリアリスはニルヴァーナと一緒に机の対面にあるソファーに座ってる。
「警察はまともに調べていないと思います。彼らもプラントと繋がっていると思いますから」
「やはりクライン先生の失踪には、フェアリープラントが関連しているのだろうか……」
「間違いないと思います。ようやく完成させたガーディアン・ティンクを置いて出ていくとは考えられません。もしかしたら、攫われたのかも」
セリアリスが言うと、フィヨルドが顔を上げた。
「まさか、レディメリーが一緒なのだから、それはないだろう」
「レディメリーの力を上回るフェアリーがいれば可能です」
「そんなフェアリーは数えるほどしかいないな……」
「そう仮定すれば、おのずと犯人が見えてきます。フェアリープラントに関係していて、強力なフェアリーを持つ妖精使いです」
「まともな妖精使いがプラントと関わり合いになるとは思えないがね」
「わたしたちの知らないところに、そんな妖精使いがいると考えるしかないわね」
それから、セリアリスはニルヴァーナの頭をなでながら言った。
「今は、わたしたちの戦いを始めましょう」
「そうだな。フェアリープラントの暴挙を許すわけにはいかない。生徒たちも、真実を知るべきだ」
フィヨルドは立ち上がってセリアリスに近づくと、手を差し出した。
「行こう、セリアリス」
「はい」
セリアリスはフィヨルドの手を取る。彼女の何も見る事の出来ない光無き瞳の奥には、温かな情愛が隠されていた。
その日の朝、シルフィアシューレの生徒たちが校庭に集められた。季節は秋に差し掛かっていて、校庭の木々の葉は少しず色づき始めている。すぐ近くの海から上がってくる風が心地よく、清々しい潮の香りが漂っていた。
校庭に集まった全生徒の数はたったの37人、教師はフィヨルドとセリアリスの二人だけになっていた。少し前のシルフィア・シューレには数百人の生徒がいた。プラントとの関係が悪化するや否や、貴族や豪商など、金にものを言わせて学園に入った生徒は悉く離れていき、教師に至っては命の危険すらあるので、辞めていくのは仕方ない事だった。だが、残った生徒たちはプラントと戦うと決めただけに、誰もが強い意志を感じさせる凛々しい面立ちをしていた。
フィヨルドとセリアリスは、決して生徒たちより高い位置から話しかけることはしなかった。生徒と教師という関係は授業以外には必要ない。フィヨルドは皆が同じ人間であるということを何よりも尊重していた。だから、校庭に集まった生徒たちにフィヨルドとセリアリスが話しかける様子は、ざっくばらんな懇談会をしているようにも見えたが、これから生徒たちに知らされる事実は、あまりにも衝撃が大きかった。
フィヨルドは集まった生徒たちに向かって、真剣な面持ちで言った。
「諸君、よく集まってくれた。真の妖精使いである君たちは知らなければならない。これから見る者を良くその目に焼き付けておくのだ。これがフェアリープラントの罪だ!」
ニルヴァーナが降りてくると、女生徒の間から悲鳴があがる。全ての生徒は、ニルヴァーナが抱きかかえている異形の姿に戦慄した。
「目を逸らしてはしけない! よく見るのだ!」
フィヨルドの声が校庭に響き渡る。両手で顔を覆ったり、異形から視線を逸らした生徒たちは、恐れながらも顔を上げて、突如として起こった試練に立ち向かった。
「セリアリス先生が夜中に見回りをしていた時に、この異形の妖精に襲われた。前院長である我が父マレシュトロフを暗殺したのは、間違いなくこの妖精だ。そして、これを創ったのはフェアリー・プラントである事も確実だ。証拠はないが、わたしはそれを確信している!」
フィヨルドが心に燃え盛る怒りを持って言うと、生徒たちの異形を見る目に恐怖の色が消えていく。
「生命の尊厳を踏みにじるプラントを許してはならない! 我々は最後まで戦い抜く! 我々がエリアノの目指した妖精と人間が築く平和を取り戻すのだ!!」
たったこれしきの人数で、人間と妖精の平和を手に入れるなど、常人からすればお笑い草だ。だが、シルフィア・シューレに残った生徒の全てが、フィヨルドと心を同じくして、妖精と人間の平和の為に戦うと心に決めた。誰一人として、それが不可能だなどと考えはしなかった。