サーヤの血‐8
リーリアは王国議員を一人ずつ訪問して説得していた。これもまた、サーヤと同じく地道な戦いだった。それだけが人間と妖精の世界を変えられると、リーリアは信じていた。
「全てのフェアリーに人権を与え、フェアリーの犯した罪はマスターの罪となるか。万が一にもこんな非現実的な法は通らんね。諦めなさい、リーリア嬢」
「非現実的とはおかしな事を言いますわね。エリアノの時代にはフェアリーと人間は対等の存在でした。非現実的なのは、今のこの状況なのです!」
リーリアはシルフリアの貴族、アインセル公に熱弁を振るった。アインセルはたかが少女と高をくくっていただけに、リーリアの激しく燃え上がる情熱に圧倒された。
「フェアリーと人間の関係は、もうじき完全に崩れ去ろうとしています。それを変えるのは、今をおいて他にはありません! もう己の保身や利益を考えている時ではないのです! 今すぐにフェアリーと人間の関係を修復しなければ、フラウディアは滅びます!」
「滅びるとはどういう事かね? まったく夢現のようにしか聞こえんがね……」
「人が人の心を失うとき、そこにある国土は滅びの一途を辿るのです。それは人間の歴史が証明している事なのですわ。フラウディアでは人間と同じ血の通った、姿は人間そのもののフェアリーを、道具として扱っています。その歴史はもう数十年にも及び、その影響で人々の心は急速に荒んでいきました。そして、命に対する感覚が完全に麻痺した人間が多く出現しています。もうフラウディアは限界まで来ているのです。フラウディアの指導者達は、まずその事を認識しなければいけないのですわ」
アインセル公は両目を閉じて低く呻いた。
「わかった。その事については考えてみよう。しかし、リーリア嬢よ。フェアリー・プラント社がある限り、あなたのしようとしている事は難しい。妖精に人権が認められれば、フェアリー・プラント社の事業は完全に崩壊しますからな。彼らは賛成派の王国議員を殺してでも法案の成立を阻止しようとするだろう。誰だって命は惜しい」
「分かっています。だからこそ、皆で力を合わせて立ち向かっていかなければならないのです」
「わたしからは特に何も言えんがね。気をつけた方がいい」
「大丈夫ですわ、ご心配なく」
リーリアはこんな調子で、一二六人いる王国議員の一人一人と会話を重ねいくつもりだった。
サーヤが広告を配り始めてから三日目に、サーヤと同じくらいの歳の少女が来て、手伝いたいと言った。おそらく貧民街から来たのであろうか、粗末な衣服を着ていて、金髪でポニーテルの可愛らしい少女だった。
次の日からはセリアリスとフィヨルドもサーヤの活動に加わり、その翌日にはまた一人、フェアリーワーカーを大切にしている貧民街の女の子が加わった。さらに翌日には噂を聞いたシルフィア・シューレの生徒達が多数加わり、日を追うごとにサーヤの活動は加速していった。
一方シャイアは、常に傍観者として、サーヤのする事を遠くから見守っていた。そして、その日、ようやくサーヤたちが公告を配り終えた時だった。シェルリの次に加わったポニーテールの少女が、妙な笑いを浮かべているのをシャイアは見て取った。シャイアは眉を潜めてその少女を注視したが、次の瞬間には少女は穏やかな顔でサーヤと話をしていた。ただそれだけの事で、シャイアは大して気にもせず、すぐに忘れてしまった。
不思議なことに、サーヤが街で広告を配っていると、野良になったフェアリーワーカーも集まってきた。そのフェアリーたちはサーヤを手伝う人々が引き取っていき、さらに不思議な事に意思を持たないはずのフェアリーたちは、心を開いてしゃべり始めるのだった。集まってきたフェアリー達は人を呼び、集まった人々とと、もらわれていったフェアリーたちがサーヤの手伝いをする。サーヤの周りに人がどんどん増えていき、全てがサーヤを中心にして回り始めた。
シャイアはいつも同じ場所に馬車を止め、しばらくサーヤの姿を眺めてから帰るのが日課になっていた。この日もやはりいつもと同じ場所に馬車を止めていた。最初は長くは続かないと言って悪態をついていたシャイアだが、サーヤの活動が大きくなっている今となっては、黙ってサーヤの事を見ていて、何を考えているのかは分からなかった。
「フェアリーは人間と共に生きていく存在だけど、道具ではありません。フェアリーは人間の家族です。子供とか兄弟みたいに愛していかなければいけないの。今のフラウディアのフェアリーを取り巻く環境の殆どが狂っているわ。皆で協力して、変えていかなければいけないわ」
サーヤが集まった人々に素直な思いを語っていると、人だかりの中から異を唱える男の声が聞こえてくる。格好からすると、エリアノ教会の神父のようだった。
「それはエリアノ教会の教義とだいぶ違っている。エリアノは人間の為にフェアリーを創造なされた。そう、神が人間を創ったようにね。人間が神と同等では有り得ないように、フェアリーが人間と同等であることは許されない。フェアリーは何があっても人間の奴隷でありつづけなければならないのだ。エリアノがそのようにフェアリーを創ったのが何よりもの証拠だ」
「違うわ! エリアノは人間を愛していた! エリアノは皆に幸せになってほしかった! だから、フェアリーを創ったのよ、皆がもっともっと幸せになれるようにって思って! フェアリーは人間の心の支えになるものべきものよ!」
サーヤの青緑の瞳から射抜くような視線が神父に向けられる。たかが一五、六の小娘に睨まれて、神父は心底に理由の分からない畏怖を植えつけられた。
「フェアリーが人間に束縛されるのは、エリアノが人間をどこまでも信じていたからよ。それともう一つ、理由がある。わたしには分かる」
論争を見守っていた周りに集まる人間とフェアリー達が、これから何か恐ろしい事でも起こるかのような、異様な緊張に包まれた。まるで世界がここだけ変わったかのような静寂さの中でサーヤは言った。
「暴走を防ぐ為よ。フェアリーは人間よりもずっと強い力を持ってる。もしフェアリーが人間と同じように自由だったら、シルフリアの人間はとっくにフェアリーに滅ぼされて、フェアリーだけの理想郷が出来上がっていたはずよ。だから、フェアリーは人間に寄り添って生きていくように創られた。それに付け込んで、道具として、奴隷としてフェアリーを使うなんて、最低よ!!」
「そ、それは教会および妖精王庁まで最低だと言っているのと同等だ。君は本当に恐ろしい事を言っている!」
「フェアリーは人間と同じよ。泣いたり笑ったりするし、赤い血だって流れてる。それを、宗教者が奴隷として扱えだなんて、貴方たちの方こそ恐ろしいわ」
「人間とフェアリーを同一視するな!」
「人間と同じだから、人間と一緒に素晴らしい世界が作れるんだよ! 何でそれが分からないのよ! エリアノはずっとそれを夢見ていたんだ。フェアリーを創っている時だって、きっと皆の喜ぶ顔を思い描いていたよ。フェアリーが一緒にお掃除してくれたり、一緒に食事をしたり、一緒に畑仕事をしたり、そういうちょっとした事の中に本当の幸せがある。フェアリーが、ただそこにいてくれるだけで、皆が笑顔になる。それが本当のフェアリーの姿だよ。それなのに、酷いよ………」
サーヤの瞳から涙が溢れて零れた。フラウディアにいる多くの不幸なフェアリー達の事を考えると、悲しみを抑えることが出来なくなった。
「この世界の全てが、エリアノを裏切った。エリアノは殺され、フェアリーは自由を奪われ、いい気になって自分の利益の為だけにフェアリーをこき使った人間達の心は荒みきっている。私達は今、完全に壊れてしまった世界に住んでいるの」
「エリアノが殺されただと? エリアノは側近にフェアリーと一切の事を任せて隠居したのだよ」
「隠居して以来、エリアノの姿を見た人はいなかった。当たり前よね、だって本当は殺されていたんだから」
「何を根拠にそんな事を言う……」
「根拠なんてない。でも、わかるよ。妖精王庁も、教会も、そして王国にとっても、エリアノの望んだ平和な世界には、何の利益も魅力なかった。だから、エリアノを殺して神様に仕立て上げて、利益の為に利用したのよ。彼らにとっては、人間の家族としてのフェアリーよりも、道具としてのフェアリーの方がずっと価値があった」
「我々を侮辱するのか」
「宗教が腐ってる国って言うのはね、心が腐った人間と同じよ。黙っていれば滅びてゆくだけ。シルフリアはこのままじゃ滅びるわ。だから、エリアノが望んだ世界を取り戻すの。フェアリーと人間が手を取り合って、みんなで協力していけば、必ず出来るよ。それをやるのは今しかない、もう時間がないの」
「貴様、不敬罪で妖精王庁に訴えるぞ! そうすれば、お前はお終いだ!」
「勝手にすれば、わたしは自分の出来る事をするだけよ。フェアリーの為に、この命ある限りどこまでも前に歩いて行くんだ!!」
サーヤの一歩も引かない態度に神父はたじろぎ、周りからは割れんばかりの拍手が起こった。
その時、いつもサーヤの手伝いをしてくれていた金髪でポニーテールの少女がサーヤに近づいていた。少女は笑みを浮かべていたが、それに気付いたのは遠くから見ていたシャイアだけだった。
「…………」
シャイアは遠目からその少女を見ているだけでも、言い知れぬ不気味さを感じた。少女の浮かべている笑みが何を意味しているものなのか、シャイアだからこそ、それを察する事が出来た。
――あれは、わたしと同じ、悪魔に魅入られた者の目、わたしは最初から分かっていた、分かっていたはずなのに!
シャイアは突然馬車から飛び出した。
「サーヤ、逃げなさい!!」
遠くから聞こえてきた声に、サーヤは振り向く。
「シャイアさん?」
サーヤの側まできた少女が、サーヤの耳元で囁くように言った。
「サーヤさん、駄目じゃないですか」
「え?」
「神に仇を成す事など許されません。これは天罰です」
「何を言って……」
少女が手に持っている何かが強い輝きを放った。それはサーヤの腹部に突き立てられ、深く吸い込まれた。
「うっ、な…に……?」
サーヤは唐突に腹の中央から深いところまで強烈な熱を感じて、同時に全身から力が抜けていった。少女が血塗れのナイフを引き出すと、サーヤの腹部から大量の血が流れ落ち、地面に赤い染みを作った。その瞬間に、辺りから悲鳴が起こり、サーヤはその場に崩れ落ちた。
「サーヤっ!!?」
シルメラの呼ぶ声と、少女がナイフを振り上げる動作が重なる。
「神に逆らう者に死を!」
「てめぇーっ!!!」
少女がナイフをサーヤの背中に向かって突き下ろす前に、シルメラのとび蹴りが炸裂した。胸に衝撃を受けた少女は、悲鳴を上げて大きく後方に吹き飛び、背中から落下する。
「許さねぇ、許さねぇぞ!!!」
シルメラは我を忘れて、逃げ出した少女の後を追った。コッペリアも上空から少女の姿を追いかけていた。
「ニルヴァーナ、あなたも行って」
セリアリスが言うと、ニルヴァーナは黙って頷き、蝙蝠の翼を羽ばたかせて急上昇した。
「サーヤ、サーヤ、サーヤっ!!」
「しかりして、サーヤ!! やだ、血が一杯出てるよ!!?」
ウィンディとシェルリは混乱しながらサーヤの名を呼んでいた。サーヤの腹の傷から流れ出た血がサーヤの周りに広がっていく。その分だけ、サーヤの命の炎は小さくなっていった。
「どきなさい!」
走ってきたシャイアが割り込んできて、シェルリを押しのけてサーヤを抱き起こす。すると、サーヤは薄く目を開けて言った。
「あ、シャイアさん。お礼、言わなきゃって思ってたの……」
「え?」
「一番大切な事、教えてくれて、ありがとう……本当に……感謝してる………」
「わたしはあなたを潰そうと……」
サーヤは気を失った。するとシャイアは、周りで悲愴にくれている人々に高圧的に言った。
「悲しんでいる暇があったら、傷の手当を出来るものを持ってきなさい!! 早く!!」
「大丈夫だ、医者を連れてきた」
院長のフィヨルドがいち早く行動し、近くの診療所から医者を引っ張ってきていた。
「お金ならいくらでも払うから、必ずこの子を助けなさい」
「まずは傷を見てみなければ」
年老いた白衣姿の医者は、サーヤの服を捲り上げて傷口を露にすると眉をひそめた。
「これは酷い……」
医者は医療器具の入った鞄を開けて、応急処置を始めた。シャイアは自分がサーヤの心配をしている事に気付いて、無償に腹が立ったが、静かに様子を見守っていた。
サーヤを殺そうとした少女は、シルメラに追われて街の路地に入り込んでいた。
「まて!」
少女がT字の路地を左に曲がろうとしたとき、そこにコッペリアがいるのが目に入った。慌てて後ろを振り返ると、そちら側にはニルヴァーナが降りてきた。元来たほうの道はシルメラが塞いでいる。黒妖精の姉妹によって、少女の逃げ道は完全に絶たれていた。
「観念しな」
「くっ」
少女はナイフを振り上げて、コッペリアに向かってくる。ナイフを持つ少女の手を、コッペリアは素早く掴み取って捻り上げ、少女がナイフを手放すと、蹴りを入れて吹っ飛ばした。
「きゃっ!」
「お前が何者か、教えてもらおうか。答えないならバラバラにするよ」
「ふふっ、悪魔どもめ! わたしはエリアノの加護を受けている! エリアノがわたしを導いてくれる! 妖精王庁よ永遠なれ!!」
少女は叫んでから、歯をぎゅっと噛み締めた。すると、いきなり傷ついた獣のように不気味な叫び声を上げ、凄まじい苦痛の中でのた打ち回った。それはほんの一瞬の事で、少女は血を吐いて、あっという間に事切れて動かなくなった。
「……歯に毒を…………」
「わたし達に向かって悪魔どもだとさ。お母様を信奉しているのに、黒妖精の姿も知らないとはねぇ」
「あっ、サーヤ!」
シルメラは正気に戻り、高速でサーヤのいる方へ戻っていく。コッペリアとニルヴァーナもその後を追った。