夢幻戦役-1
シャイアはクレンシアを離れ、シルフリアの近郊に小さな屋敷を借りた。
シャイアも、そしてアンナも、今までの事で疲れきっているのか、何をするわけでもなく穏やかな時を過ごしていた。
コッペリアは、居間のテーブルに降りて、アンナの連れていたフェアリーと向き合った。
このフェアリーは男の子で、名前はアルと言う。アンナが屋敷から逃げ出すときに、廊下をふらふら飛んでいたので連れてきたのだ。
アルはそれといって特徴のないフェアリーだった。背中に四枚ある透明の翅は蜻蛉のようで、黒髪の上にとんがり帽子を被り、くりっとしたインディコライトの瞳が愛らしい。ただ、瞳はいつも虚ろで、アンナの命令がなければ決して動かなかった。
コッペリアがアルの額を押すと、何の抵抗もせずに尻餅をついた。
「なんだいこいつは、まるで意思がないじゃないか」
「アルはワーカーですから」
側で見ていたアンナが言うと、コッペリアは訝しい顔をした。
「ワーカー?」
「知らないの?」
「ああ、知らないね。教えておくれ」
「えっと、正確にはフェアリーワーカーって言うんですけど、何種類かの命令だけを実行するフェアリー・・・とでも言えばいいかな」
「ある種の命令だけを実行する意思のないフェアリーよ。命令に従うだけで、喋る事もできないわ。まあ、扱い安い奴隷というところね」
そう言うシャイアは、ゆったりとしたソファーに座って何かの書類に目を通していた。
アンナは、シャイアのティーカップに紅茶がない事に気付くと、ティーポットを持ってお茶を注いだ。シャイアは礼も言わず、当たり前のように紅茶を口に運ぶ。
「アルはお料理専門のフェアリーなんです。命令すれば大抵のものは作ってしまうんですよ」
コッペリアは、アルの姿を見下ろし、彷彿と湧き上がる怒りで体を震わせた。ただならぬ気配に、シャイアは書類読むのを止めた。
「どうしたの?」
「お母様は、フェアリーは人間と同等の存在だと言っていた。人間と共に歩み、手を取り合い、素晴らしき世界を築いて行く為の、人間と同等の存在だと言っていたんだ。こんなフェアリーがいていいはずがない・・・」
「現実はそんなものではないわよ。フェアリーは人間にとって、便利な道具であり、自身を高める装飾品の一つであり、そして何よりもあらゆる欲求のはけ口となっているわ」
「嘘だ! そんな事があってたまるか!」
小さな躯体から、屋敷を揺るがすような叫びが上がった。それにはシャイアもアンナも言葉を失った。
意思を持たないはずのアルも僅かに反応して、濁った目をコッペリアに向ける。
コッペリアは、膝を突いてアルと目線を合わせると、彼のふっくらとした頬を掌で包み込んで目を閉じた。
「これじゃあただの人形だ。生きているとは言えない、フェアリーとは呼べない。今助けてやるからな」
コッペリアはそのまま動かない。シャイアとアンナは、何が起こるのか息を殺して見守った。
「心が強制的に閉ざされているのかい。人間は本当に酷い事をする・・・」
コッペリアの六枚の翅が開き、全身が淡い光に包まれる。その光がアルに移ると、次第にアルの瞳に意思が宿り、英知の光が増していった。やがて二人のフェアリーを包んでいた光が消え去ると、コッペリアは立ち上がった。
そして、奇跡が起こった。アルが突然飛び上がり、空中で三回転しながらアンナの目の前まで来て、アンナの目と鼻の先で最敬礼した。
「こんにちはアンナ、僕のご主人様」
「アルが、喋った・・・」
信じられない出来事に、アンナは半ば呆然とした。一般的には、ワーカーが意思を持つ事は絶対に有り得ないと言われていた。
「僕はアンナの事がずっと好きだったよ。アンナは僕が何も分からないって知っていても、色々お話をしてくれたよね。僕の事大切にしてくれたよね。人間達が僕を苛めた時も庇ってくれた。僕は何も喋れなかったけど、心のずっとずっと奥では感謝していたんだ」
「ああ、アル!」
アンナはアルを抱きしめて涙を零した。アンナは、何も喋れずこき使われてばかりいるアルが不憫で、いつも世話を焼いていたのだ。アルに何を言っても答は返ってこなかったが、それでもアルの事が可愛くて、訳もなくアルを苛める料理長に楯突いて殴られた事もあった。アルが喋る事ができたら、自分の言っている事が理解できたらいいのにと、数え切れないほど考えた。そして、それが現実となった時、押し寄せる嬉しさと感動は、口でどうこう言えるものではなかった。
シャイアは信じられない光景を目の当たりにしても、さほど驚いてはいなかった。コッペリアが特別なフェアリーだという事を知っていたからだ。
「何をしたの?」
「お母様から頂いた能力を使ったのさ。普通、自我を失ったフェアリーは、ただの操り人形となり、二度と元には戻れない。だが、わたしには失った自我を引き戻す力が与えられているのさ。アルは、アンナに大切にされていたからよかったのさ」
「良かった?」
「これがもし、人間に酷い扱いを受けているフェアリーならば、自我を取り戻した時から人間を憎み、その命が尽きるまで人間を襲い続ける」
「なるほどね、それは恐ろしい能力だわ」
「そうかね。これはわたしが持つ力の中で、唯一つ平和的な力だと思っているんだけどね」
「それはどうかしら。わたしはエリアノの読みの深さに敬意を表するわ」
「何だって?」
シャイアは笑っていた。まるであらゆるものを知り尽くしたかのような、高慢で嫌らしい笑みだ。コッペリアは自分が弄ばれているような感覚を得て、不快な顔をした。シャイアは明らかに何かを知っている。それが何なのかコッペリアには分からなかった。
「アンナ、いつまでも抱き合ってないで仕事をなさい。辻馬車を呼んで」
「は、はい、お嬢様」
「馬車なら僕が呼んできます」
アルは何も言われないうちに窓から出て行った。
「シルフリアに行けば、全てが分かるわ」
「・・・・・・」
楽しげに微笑するシャイアに、コッペリアは言い知れぬ不安を覚えた。