サーヤの血‐1
「マクスが殺された…………」
カーライン・コンダルタは、フェアリープラント社のビルの最上階の社長室で、得体の知れないものへの恐怖に身を沈めていた。
「警察の話では、その死に方も普通ではなく、四肢を切断された挙句に腹を裂かれていたそうです」
黒服の部下の話に、カーラインは思わず身震いした。
「奴は少なくともフラウディアでは最強の殺し屋だぞ。それをそんな風にして殺すとは、これは人間の仕業ではない。おそらくフェアリーにやられたんだ」
カーラインは頭を抱えて考え込んだ。彼は過去にマクスに依頼して邪魔者を何人も消していたが、マクスの死が自分と関係しているとは思いたくなかった。マクスは殺しを日常としていたのだから、復讐したい人間などいくらでもいるはずだ。その中でカーラインが依頼して殺した人間は僅かにすぎない。
「そうだ、もしわたしに恨みがあるのなら、わたしを直接狙ってくるはずだ。だが、マクスを殺ったフェアリーが万が一にでも襲ってきたらどうする、どうする…………」
「酷くお悩みなのね」
「!!?」
カーラインが顔を上げると、シャイアが腰に手を当てて艶かしい笑みを浮かべて見下ろしていた。彼女はカーラインが悩んでいる間に部屋に入ってきて、黒服の部下の姿はなくなっていた。
「シャイア、何時からいたんだい?」
「フェアリーが万が一にも襲ってきたらどうするって言っていたわ。何か面倒な事が起こったのね?」
「いや、面倒な事などなにもないよ。君は何も気にしなくていい。ここで聞いた事も忘れておくれ」
「あなたには、わたしとコッペリアがついていますわ。どんなフェアリーが襲ってきても、コッペリアには勝てはしませんもの。だから安心して」
「おお、おお! シャイア! わたしを守ってくれるのか!」
「当然です」
哀願するような姿のカーラインは、酷く小さくみすぼらしく見えていた。それを見下ろし天使のような微笑を浮かべるシャイアの裏側には、悪魔のような残酷さが蠢いていた。
カーラインが落ち着くのを待ってから、シャイアはここに来た目的を果たした。
「フェアリーラントのレイモンド伯爵は、表向きはリーリアの味方の振りをしていますが、内心ではフェアリープラントを酷く恐れています。少し揺すってあげれば、こちら側に傾きますわ。それと、シルフリアのカストール公爵は正義感の強い方ですが、幼い娘を溺愛していて、それを押さえれば従わせる事は出来るでしょう」
シャイアはリーリアの掌握するセイン財団の主要人物を細かく分析して、見出した最大の弱点をカーラインに教えていた。
「素晴らしいよ、シャイア」
「わたしは役に立つでしょう」
「うむ、リーリアの側にいてくれるから役に立つんだ。まったく貴方はしたたかだ」
「気付いたときには、全てが手遅れよ。あの子がどんな顔をするのか見ものだわ」
そう言った時のシャイアの目は憎しみで燃えていた。獣のようにぎらつく青い瞳を見たカーラインは胸を高鳴らせた。憎しみで身を焦がし歪んだ笑いを浮かべるシャイアの姿には、まるでリリスのような暗い艶かしさがあった。
シャイアがフェアリープラント社のビルから出て、外に控えていた馬車に乗り込むときにコッペリアが言った。
「ビルの中にお前を監視している奴が何人かいるよ。視線を感じるんだ」
「社内にはカレーニャ家の消失に関わっている人間もいるはずよ。あの時、屋敷に踏み込んできた黒服の男達は、カーラインの手駒だもの、あのビルにいたって不思議はないわ」
「お前の正体を知っている奴がいるってことかい」
「いて当然よ。そんなのは前々から予想していたわ。また、あなたの力が必要になるわね」
「そりゃあ楽しみだねぇ」
コッペリアは幼い子供のようにあどけない瞳を輝かせ、邪悪な笑みを浮かべた。
シャイアは既にカレーニャ家消失に関わった人間を調べあげ、周到に手を打っていた。
その日の夜中に、彼らは集まって相談をする予定になっていた。
黒服の男が一人で、小さな白熱灯に照らされる真夜中のビル内を歩いていた。彼は仲間たちと集まる手はずになっている十七階の会議室に向かっていた。すぐに結論を出して、あの女を消さねばならないと、彼は思っていた。
男はエレベーターに乗り十七階に着くと、早足で会議室に向かった。もう仲間達は集まって、相談を始めている頃だろうと思っていた。そして、彼は会議室の前に止まりドアを開けた。その瞬間、凄まじい悪寒を感じて息が止まりそうになった。仲間が集まっているはずの会議室は真っ暗で何も見えない。余りに急いでいたので、部屋を間違えたかと思ったが、すぐに強烈な生臭さが鼻腔に突き刺さり、同時に暗闇の中で怪しく光る赤い双眸が彼を見つめた。男は恐怖に戦きながら、入り口近くにある照明のスイッチを押した。部屋は直ぐに明るくなり、部屋にあるもの全てが明らかになった。
「う、うああああああぁっ!!?」
男は心臓を吐き出すのではないかと思うくらい、喉の奥から恐怖に震える叫びを上げた。部屋は一面血の海で、テーブルから椅子、壁まで血糊が飛び散り、彼より先に会議室に来ていた黒服の男四人全員が、四肢を切断され、腹を十字に割かれ、それぞれがもはや人間とは思えない凄まじい形相を浮かべて絶命していた。彼らは想像を絶する苦しみを与えられて殺されたのだ。
「よう、遅かったねぇ」
「あ、あ、ああ…………」
コッペリアがテーブルの上に立って、男をじっと見つめていた。そしてもう一人、漆黒のドレスの令嬢が、窓際に立ってシルフリアの街の輝きを見下ろしていた。その女が振り向くと、男は少し正気に引き戻された。
「お前は!?」
「こんばんは」
「やはりそうなのか、カレーニャの娘なのか!?」
「わたしの正体を知っている人は、必ず動き出すと思っていたわ。その時を待っていたの。あなたで最後のようね」
「こ、これは、その妖精がやったのか!?」
「他に誰がいるって言うんだい」
「最新の防音設備ってすごいわねぇ。あんなに叫んでもまったく外には聞こえないのだもの」
「悪魔め!!」
「あなたで最後だから、少し楽しませてあげるわ。鬼ごっこなんてどうかしら? コッペリアが鬼になって、あなたを追いかけるの。捕まったら殺されちゃうから、頑張って逃げてね」
「十数えてやるから、さっさと逃げな」
男は叫び声を上げながら逃げ出した。その後ろからシャイアのハイヒールが床を叩く音が追ってきた。
「た、助けて、助けて誰か!」
「助けなんか呼んでも無駄よ。このビルには誰もいないんだから」
男は全力で駆けていって、エレベーターの下階を示すボタンを必要以上に連打した。
「そんなもん待ってる暇はないよ!」
コッペリアの翅の一枚が伸びてきて、男の頬を掠めた。まるで刃物で切られたように鋭い痛みを感じると同時に、頬から血が流れ出る。
「ひいぃぃぃっ!!?」
男は余りの恐怖に足が震えて思うように動けなかったが、それでも必死に走って下の階に続く階段を駆け下りた。
「ほぉら、もっと早く逃げないと殺しちまうよ」
男の直ぐ後ろから、コッペリアの声が聞こえてくる。さらに背骨が凍りつくような悪寒を常に与えられていた。コッペリアは本当に男の真後ろにいるのだ。男はその状況に耐え切れず、発狂しながらすぐ下の階層に飛び出した。彼は息切れして、肺が破裂しそうなほどに苦しかったが、それでもなお走る。そして通路の角に差し掛かったその時、正面にいきなりコッペリアが飛び出してきた。
「あああああっ!!?」
急に止まった男は床の上を滑って倒れそうになるが、何とか逆に方向転換して走り出す。
「もう飽きた」
コッペリアがかっと輝く真紅の瞳を開くと、逃げてゆく男は後ろから衝撃を受けて前のめりに倒れた。
「ぐわっ!?」
それから必死にもがいて立ち上がろうとするが、何故か地に足がつかない。そうしてようやく気付いた。男の切断された右足が、ずっと後ろの方に転がっていた。それから人のものとは思えない悲鳴が闇の中に響き渡る。男はそんな状態になっても助かろうと必死になり、這いつくばって血溜まりを残しつつ階段の方に移動した。
「助けて、死にたくない、俺はまだ死にたくないぃっ!!!」
ようやく階段に辿り着いたと思った時、いきなり男の目の前に黒いハイヒールを履いた彫刻のように滑らかな形の足が現れた。はっと男が蒼白の顔を上げると、シャイアが微笑を浮かべて見下ろしていた。
「ぐわあああぁっ!!?」
「なぁに、そんなに怖がらないで、わたしには人を殺す力なんてないんだから、あなたの後ろにいる子みたいにはね」
それを聞いて男ががばっと振り向いて仰向けになると、歪んだ笑みを浮かべる小さな殺人者が上から見下ろしていた。
「捕まえた」
「あ、あああぁっ!! わあああああぁ!!!」
男が発狂して大きく開けた口に、伸びてきたコッペリアの翅が吸い込まれる。そして口腔から脳幹を貫き後頭部から突き出た翅の切っ先が床に刺さった。男は刃物のように硬い翅を舐めながら、涙を流して白目を向き、体中を小刻みに震わせて痙攣した。
「殺されたお父様の無念を、少しでも味わうといいわ」
やがて男は絶命した。
「死体を片付けなきゃいけないねぇ」
「必要ないわ」
「いいのかい? 明日になったら大騒ぎになっちまうよ」
「大騒ぎすればいいのよ」
「何か考えがあるんだね」
「きっと楽しい事になるわよ」
死体を残してシャイアたちが去ると、何事もなかったかのように夜は静かに過ぎていった。