破滅への序曲‐6
学園の方では穏やかな日々が続いていた。エルシドが退学になってから一ヶ月もたつと、夏も盛りになり、シルフィア・シューレでは金曜の午後の授業がなくなり、生徒達は海に入る事が出来た。
「すげー、海って広い!」
「あう!」
白い水着のサーヤと、草色の水着のウィンディが、日差しが照り返す雪化粧に劣らない白さの砂浜に出てきて、やたらと騒いでいた。
降り注ぐ夏の暑い日差しが、少女と妖精たちを輝かせていた。砂浜には沢山の生徒たちがいて、フェアリーと共に友達同士で集まって遊んでいた。
「お、沢山集まってるな」
黒いビキニ姿のシルメラが、主人の近くに降りてきて言った。サーヤはめりはりのあるプロポーションを、じっと見つめていた。
「うわ~」
「なんだ?」
「シルメラって、なんかこう、存在感が違うね」
サーヤが自分の胸を触りながら言うと、シルメラは首をかしげた。
「何を言ってるんだ?」
「ね、ね~、海いこう、海っ!」
「ああ、泳ぐぞ、ウィンディ!」
「わたしを忘れるんじゃないわよ!」
「シル姉さま、わたしも一緒にいく~」
エクレアとテスラも後に続いていく。フェアリーたちは心から遊びを楽しんでいた。
「綺麗な海」
「学校の砂浜は人が立ち入らないからね」
続いて桃色の水着のシェルリと、下着の方にフリルの帯が付いた赤いビキニのリーリアが現れた。
「へぇ~」
「なに?」
「リーリアも結構存在感あるね、着やせするタイプなんだ」
「あまり見つめないでちょうだい、恥かしいわ……」
「リーリアって肌も白くてすべすべだし、お人形さんみたいに綺麗だよね」
「シェルリまで、からかわないでほしいわ」
「本当の事だよ」
恥らうリーリアを、他の二人は面白そうにして見ていたが、やがてサーヤが言った。
「わたし達も泳ごう」
三人の少女達は、青い海の水平線の見える方に、お喋りしながら歩いていった。それはサーヤにとって、夢のように楽しい時間だった。
今日は妖精祭のある日だった。今は女神として祭られているエリアノを称える、教会にとっては神聖なる一日だ。シルフリアでは大通りの端から端まで出店がひしめき、そこいらに集まる人々で賑わっていた。サーヤたちもいつもの三人でフェアリーたちを連れて、大通りを歩いていた。
「サーヤ、あれ、あれ食べる」
「えー、またぁ、もうきりがないよ」
ウィンディは初めて見る出店の様々な食べ物に目を輝かせ、何でもかんでも食べたいとせがんだ。サーヤは他のフェアリーたちがいる手前、ウィンディの願いを聞くのは憚られた。サーヤには食欲旺盛なフェアリーたちに食べさせるような資金力はない。幸いな事に、進んでリーリアが振舞ってくれたので助かった。
ウィンディは調子に乗って次々に注文し、終いにはサーヤが怒り出した。
「もう、いい加減にしなさいよ!」
「あうぅ……」
ウィンディが泣きそうな顔をすると、サーヤは心が折れそうになったが、辛うじて怒気を保った。
「そんな顔したって駄目っ!」
「別にいいじゃないの。お祭りなんだから、飲めや食えやの大騒ぎよ」
エクレアが大きなスモークチキンをほうばりながら言うと、サーヤは苦笑いした。
「お金を出しているのがリーリアっていうのが問題なの。人様のお世話になるんだから、もっと遠慮しなくちゃいけないわ。シルメラなんて、あれこれ食べたいなんて、一言もいわないでしょ」
「ウィンディはまだ生まれたばかりの赤ちゃんみたいなものだから、仕方がないさ」
「シルメラはお姉さんなんだから、こういう時はウィンディを叱ってあげなきゃ駄目なんだよ」
「え、ウィンディを叱るのか……?」
シルメラはウィンディの顔を見ると、つぶらな紫の瞳に打たれて、思わず笑いを浮かべていた。サーヤはそれを見て、駄目だこりゃと思った。
「シル姉様は優しいから、ウィンディを叱るなんて無理だよ~」
「そうみたいね……」
テスラのいう事に、サーヤは力なく応えた。
「今日くらい良いじゃない。お祭りなのだから、好きなものを好きなだけ食べさせてあげるわ」
「リーリア、ごめんね」
「謝る必要はないわ」
シェルリはさっきからずっとシルフリアの入り口の方を見ていた。
「あ、来るわ!」
「何が?」
サーヤが気になってシェルリと同じ夜空を見上げると、遠くの方で白鳥の翼のようにも見える大きな白い光が輝いた。
「あれは?」
「法王様の御成りよ。道を開けないと」
夜空に輝く白の翼がはっきり見えてくると、人々は大急ぎで左右に分かれて、辺りは急に静まり返った。
「ああっ!?」
突然、翅の輝きで夜空を切り裂くフェアリーたちが現れ、サーヤは感動のあまり吐息をもらした。翼のように見えたのは、先頭を飛ぶフェアリーの翅だった。その輝きは独特で、光そのものと言ってもいいほど、激しい輝きを放っていた。その後に続く三体のフェアリーたちも、赤、青、桃色と、形状のまったく同じ色違いの翅から光の破片を散らして、人々の頭上を通り過ぎていく。彼女らは背中に一輪の花模様が入った色違いのショートマントをなびかせ、表情は一様に硬く、体の大きさに似合わない威厳を漂わせていた。
「何て綺麗なフェアリーたちなの、お話してみたいなぁ」
「あれは法王を守護する、トゥインクル・レスティアシリーズのフェアリーよ。ダイヤモンドのコアを持ち、その力は黒妖精に匹敵するわ」
「お友達になれるって雰囲気じゃなかったね」
シェルリが言った後に、リーリアの横にいたエクレアが、侮蔑に耐えないという感じで、ついと横を向いた。
「何かお高くとまってて嫌な感じだったわね」
「お前が言うか」
「何よ!」
エクレアがシルメラをきっと睨み、また二人の喧嘩が始まるのかというときに、人々がどよめいてフェアリーたちの関心はそちらの方に引き寄せられた。
「おお、法王様!」
人々は口々に法王の名を呼び、手を組んで祈り始めた。中にはひざまづく者もいた。
巨大な台座が数等の馬に引かれて、大通りの中央をやってくる。台座には法衣を身に着けた髪の毛のない老人がいて、その隣の紫銀の髪の十二・三歳くらいの少女が、不安そうに辺りを見回し、隣に座る神官らしい十四・五の少女に話しかけていた。その周りを守るのは神殿騎士団を統括する、四人の守護騎士たちで、全員がうら若き乙女だった。それぞれ武具や鎧の他に、ダイヤモンドのアクセサリーを身につけていた。彼女らがトゥインクル・レスティアのマスターだということは疑いようもなかった。
なんだかよく分からない顔をしているサーヤに、シェルリが説明してくれた。
「法王様の隣にいるのが、孫娘のリータ様だよ」
「どうしてあんなに不安そうにしてるのかな」
「リータ様は、最近ご両親を事故で亡くされているの。そのせいだと思うわ」
「まだ小さいのに可愛そうだね……」
リーリアは行列が通り過ぎていくときに、侮蔑を込めて言った。
「シルフリア城にエリアノの像があって、そこで聖夜の儀式を行うのよ。エリアノの魂を呼び寄せ、妖精と人間の調和を誓うの。今となっては、まったく滑稽で意味のない儀式なのだわ」
「ちょ、ちょっとリーリア、聞こえちゃうよ!?」
シェルリは驚いて冷たい汗をかき、今まさに目の前を通っていた守護騎士の一人を見た。黒いマントに大剣を背にするブロンドの女が、怪訝そうな碧眼を向けていた。その胸のところには、トライアングルカットのピンクダイヤモンドのペンダントが輝いていた。リーリアはその女を、何か文句があるかと言うように、平然と見返した。
「妖精王庁は、エリアノの精神を受け継ぎ、その教えを人々に伝える為に生まれたのよ。人と妖精の為に尽力する責任があるわ。しかし、彼らは権力の前に屈した。今では王国の犬でしかないわ」
シェルリは青い顔をして、神殿騎士団の行列とリーリアを交互に見ていた。サーヤには、あの凛々しい守護騎士たちが、何者かに屈するなど信じられなかった。
その夜、院長のマレシュトロフは、秘書のセリアリスと一緒に、遠くの方から聞こえる祭りの音に耳を傾けながら仕事をしていた。開け放った窓から海からやってくる冷たい風が入り、祭りの音と共に何とも心地よかった。
ニルヴァーナは常に窓際に立って、外の気配に注意していた。何があっても院長を守るようにという主人の命令を、忠実に実行しているのだ。
「セリアリス、もういいからニルヴァーナと一緒に息抜きしなさい。今日はせっかくの妖精祭なのだからね」
「いえ、わたしは院長の側にいます」
「あれから一ヶ月経っても、プラントからは何も言ってこない。わたしたちは少し考えすぎていたのかもしれない。もう心配はないだろう」
「彼らは院長が考えているほど甘くはありません。そんな事を言っていると、命を取られますよ」
相変わらず臆面もないセリアリスの直球をくらって、院長は苦笑いしたが、それでもなお食い下がった。院長は親身になってくれるセリアリスに深く感謝していて、この日くらいは休息を与えてやりたかったのだ。最後はセリアリスの方が折れて、では少しだけとニルヴァーナと一緒に祭りに出かけていった。
仕事がひと段落すると、マレシュトロフは開け放った窓から夜空を見上げた。上空には満月が輝き、学校の庭園に薄い光が降っていた。
「いい夜だ。あの満月の輝きは、シルフィア・シューレの前途への祝福のように思えるな」
遠くから聞こえる祭りのざわめきと、美しい満月と、肌を優しく撫でる海風とが折り重なり、マレシュトロフは心が満ち足りたような気分になって、深呼吸した。その時、どこかでガラスの割れるような音が聞こえてきた。
学園の地下の研究施設で、クラインは完成に近づいている三体のフェアリーたちを見つめていた。少女の姿をしたフェアリーたちは、羊水の満たされた卵型のガラスケースの中で、胎児のように丸くなっていた。その中の一体が不意に目を開けて、指差した。
「どうした、ルナルナ?」
乳白色にピンクを加えたような瞳の色のフェアリーは、ただ指差すだけだった。羊水の中では喋ることは出来ない。何かが来ると、教えている事だけは確かだった。その時、クラインは妙な胸騒ぎがした。彼は三体のフェアリーから少し離れているレディメリーの水槽を一瞥する。まだ傷が癒えるのには時間がかかる。今は愛する従者に頼る事は出来なかった。
マレシュトロフは、ランプを片手に暗い廊下を歩いていた。すると、また何処かでガラスの割れる音がした。今度の音はかなり近かった。
「こんな時分に誰かいるのか……?」
マレシュトロフは急に寒気がして足が止まった。これ以上先へ行ってはいけない気がした。
――夜に学校の窓ガラスを割るなど、明らかに異常だ。これは人間の仕業ではないぞ…………。
マレシュトロフが警察に訴えようと思い、踵を返したその瞬間、近くの窓が割れて鋭い音を立て、何かが廊下に飛び込んできた。
「何だ!!?」
院長が反射的に飛び込んできた者を照らして見ると、そのあまりにも異様な姿に絶句した。背中にある4枚の翅からフェアリーだという事は分かるが、あまりにも過多なエネルギーを与えられている為に、その顔は鬼にも勝る形相で、鋼鉄の鎧に包まれている右腕は異常に肥大して、人間よりも遥かに大きな手をしていた。そのフェアリーはマレシュトロフの姿を認めると、空ろな瞳を歪めて、この世のものとは思えない気味の悪い笑みを浮かべる。
「馬鹿な、これがフェアリーだと言うのか!!?」
震える声が上がるのと同時に、異形のフェアリーは空を駆け、院長の横を通り過ぎる。その瞬間に院長は凄まじい衝撃を受けて、くるりとバレリーナのように綺麗に一回転して倒れた。
「な、な……」
マレシュトロフの持っていたランプが床に落ちて火が燃え移り、辺りがぐっと明るく照らし出される。異形のフェアリーは、肥大化した右手に血の滴る異様なものを持っていた。
「そ、それは!?」
その時に、マレシュトロフはようやく自分の右腕の肘から下がもぎ取られていた事に気付いた。途端に大量の血が流れ出し、床を染めていく。異形の妖精は持っていた物を、かつての持ち主の足元に投げ捨て、それは音を立てて床に転がった。
「何という事だ……」
マレシュトロフは立ち上がり、大量の出血で朦朧としながらも、しっかりと目の前の異形を見つめた。死が近いせいなのか、不思議に右腕の傷口に痛みはなく、ただ非常な熱と痺れを感じるだけだった。
「人間は、何と恐ろしい事をするのだ。こんな、こんな、フェアリーを創るなど…………」
マレシュトロフは異形の妖精の中に、人間と妖精の世界の絶望を見た。迫り来る死すら超越する悲しみに、マレシュトロフは涙を流した。その時、フェアリーが巨大な掌を見せた。その中に描かれる魔法陣が金色の輝きを放つ。瞬間、怪物と化したフェアリーの形相が急接近し、マレシュトロフは巨大な手に顔面を掴まれて視界が金色に染まった。途端に魔法陣の輝きが増し、顔面と手の接触部から光が漏れ出し、異様に生々しい音と共にマレシュトロフの上頭部が砕け散り、辺りの壁や窓ガラスに大量の血と肉片が塗りつけられた。
クラインが来たときには、辺りは闇に包まれていた。どこからか入ってくる風が、何かを焦がしたような匂いと、吐き気を催すような生臭さを運んできた。
「む、何だこの臭いは……」
ランプの光はすぐ目の前だけを照らし、先の方には暗黒しか見えない。クラインが臭気の元に向かって歩いていくと、つま先に何かが当たって、先に丸い物が転がった。ランプをかざしてよく見てみると、クラインは短く絶叫して背中に冷や水を浴びせられたよう感じた。血溜まりの中に転がる眼球が、こちらをじっと見ていた。クラインは全身に怖気が走り、恐る恐る先のほうをランプで照らしてみた。そして、かつて院長だったものが、血の海の中で横たわっているのを見た。頭は完全に消し飛んでいて、下顎だけが残っていた。骨と肉が見えて煮崩れたような傷口からは未だに新鮮な血が流れ出し、固まった舌と下顎の白い歯がランプの光を受けて異様に際立っていた。
院長が亡くなった。突然の悲劇でシルフィア・シューレは混乱した。朝早くから警察まで来ていて、異常に慌しかった。クラインは研究を中断されて、長い時間、事情聴取を受けていた。
副院長のセリアリスは、院長が亡くなっても顔色一つ変えずに、淡々と舵取りをして、何とか授業が始められるまでに事態を落ち着かせた。授業をしている時の様子にも、変わったところはなかった。そのいつもと変わらない姿は、生徒たちの不安を幾分か取り除いてくれた。
院長の死因については、厳重に隠蔽してあったにもかかわらず、当たり前のようにおぞましい真実が生徒たちの間に流れていた。院長の死因は、生徒だけではなく、シルフリアに住む多くの人々に衝撃を与えた。明らかにシルフィア・シューレを陥れようとする意思が働いていた。
――ついに恐れていた事が起こってしまった…………。
リーリアはセリアリスの講義を聞きながら、これから起こるであろう嵐を予感していた。彼女は院長を暗殺したのがフェアリープラントである事を確信している。
―この程度で終わるはずがないわ。奴らはあらゆる卑劣な手を使ってシルフィア・シューレを潰そうとしてくるはず。
リーリアと一緒の席に座っているサーヤもシェルリも、朝から不安な表情のままほとんど口を聞かなかった。この二人は院長が殺されたという事実を未だに受け入れる事ができないでいた。無理もないとリーリアは思った。こんな事態に冷静に対処できる人間などそうはいない。
「セリアリス先生、大丈夫かな……」
不意にサーヤが言った。目の前でいつも通りの姿で授業を進めている女性こそが、この事件で最も苦痛を受けているはずだった。
「今日はここまでにします」
セリアリスは教本を閉じると、生徒達に対して柔らかな微笑を浮かべて言った。
「みんな、院長先生の意思はわたしが引きついで、この学園を守っていきますから安心してね」
この言葉に多くの生徒達は不安を半減させる事ができた。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、セリアリスは出て行った。
院長室に戻ったセリアリスは、マレシュトロフが愛用していた机を見つめて立ち尽くした。その美しい顔には、あまりにも深い苦悩が表れていた。
「ごめんなさい……」
ニルヴァーナが主の心を敏感に感じ取って言った。セリアリスは俯くニルヴァーナをそっと抱いて、その頭を撫でてやった。
「あなたは何も悪くないわ。わたしが院長から離れてしまったから…………」
セリアリスはふらっとソファーの近くまで来ると、崩れ落ちるように座り込んで両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。ニルヴァーナは黙ってセリアリスの隣に座って寄り添った。そうすれば主が少しでも落ち着ける事を知っていたからだ。
光を無くした瞳から大粒の涙を零し続けるセリアリスを、ニルヴァーナは心配そうに見上げていた。