覚醒-3
朝靄が漂う薄闇と純白の織り成す世界。そこには靄によって幻想のようにぼやけた姿をしたものが幾つも並んでいた。風が吹きぬけ、靄が蠢くと、その中の一つが姿を現した。四角い石に人の名前と年号が刻まれている。靄の向こうには十字架の影も見えていた。寂寥としていて、まるで人が足を踏み入れることを拒むような不気味さが漂っている。そこはクレンシアという街の近郊にある墓地だった。
朝靄漂う墓地の中に動く影が一つあった。その場に似つかわしい漆黒の服を着て、黒いカチューシャまで着けている少女。それはシャイアだった。
シャイアは墓地の周りを掘り起こしている。拾った棒で土を穿っては手で掻き出すという作業を繰り返していた。
コッペリアは飛んでいて、シャイアのやる事をじっと見下ろしている。
――お母様、あなたは聡明なお方ですわ。
シャイアは黙々と穴を掘りながら、十五歳の誕生日を迎えたときに、執事のレバンスに告げられた事を思い出した。
レバンスは、母の墓石の後ろ側に相当額の金貨が埋まっていると言っていた。何故そんなものがあるのかと聞いたときのレバンスの答えは、シャイアは今でもはっきりと覚えていた。
『奥様は亡くなる前にこのように言っておられました。ご主人様はお優しすぎるお方です、いつか必ず足元を救われる時が来る。その時はお嬢様が、ご主人様をお守りになるようにと。墓所に隠された財産は、奥様がお嬢様の為に残されたものです。十五歳の誕生日が来たら教えるようにと仰せつかっておりました。この事はわたくしとお嬢様以外に知る者はございません。決して他言なさらぬよう』
年老いたレバンスの真剣な顔がまざまざと脳裏に浮かんだ。レバンスは、レアードの身に何かが起こることを薄々感じていたのかもしれない。
シャイアが渾身の力を込めて地面に棒を突き刺すと、先に硬い物が当った。するとシャイアは、一心不乱に土を手で掻いて、土に埋まっている物の全貌を暴いた。
土中から姿を現したのは、それほど大きくはない金属製の箱で、真上に錆びた取っ手が付いていた。シャイアがその取っ手を持って引っ張っても、土に嵌り込んでいるのと箱自身の重さの為にびくともしなかった。
シャイアが苦戦していると、コッペリアが降りてきて言った。
「わたしがやるよ」
コッペリアは割り込んで取っ手を握る。鉄製の取っ手が軋み、土の抵抗と箱の重さに耐えかねて悲鳴をあげる。取っ手が壊れる寸前のところで、何とコッペリアは箱を簡単に引きずり出してしまった。
シャイアは、コッペリアに秘められた力に、新ためて驚嘆した。
驚きもそこそこにして、シャイアは箱の留め金を外して蓋を開けた。瞬間、あまりにも場違いな輝きにシャイアは目を細めた。
箱の中には一枚十万ルビーに相当する金貨がぎっしり詰まっていた。ざっと計算しても臆は下らない額だろう。
その黄金の輝きは、シャイアにとって希望の光そのものだった。
―お母様、まさかこのお金が復讐の為に使われるとは思わなかったでしょうね……もう、守るべき人はいないのです。お父様はお母様と同じ場所へ行ってしまったのですから。
シャイアは希望と悲しみを背負って、母の眠る墓地を後にした。
シャイアは金貨を貸し金庫に入れてから、朝のクレンシアを歩いていた。朝市で賑わう人々の雑踏が、シャイアには懐かしかった。
カレーニャ家はクレンシアでも知られた名士だったが、それはもはや過去の事だ。シャイアが今ここにいて感じるものは、心をえぐるような悲愴と不安だった。
コッペリアはシャイアの肩に座って萎れていた。重い金貨を運んだ事で、空腹がさらに増して、魂を吐き出すような溜息ばかりついていた。さすがのシャイアも可哀想になってきたので、レストランに足を運んだ。
大衆向けの値段も手頃なレストランは、フラウディア各地にチェーン店があり、人々の人気を集めていた。奥行きのあるガラス張りの建物には、程よい感覚で木製のテーブルと椅子が配置してあり、朝からけっこうな数の客が入っている。
「あそこがいいね! あの窓際の席!」
コッペリアは料理の匂いで急速に元気を取り戻し、シャイアを尻目にさっさと席に座るとメニューを開いた。
シャイアは、コッペリアの一気に上がったテンションに苦笑いしつつ、後から椅子に座った。コッペリアは通常サイズの椅子に座ると、テーブルから頭しか出ないので、人間の子供のようにも見える。
「これと、これと、これと、これとね」
コッペリアは次々に指差していく。
「どれだけ食べるつもりなの……」
「いいだろう、腹が減って死ぬ寸前なんだよ」
「大げさねぇ」
コッペリアは何でもかんでも食べたいと言うので、シャイアはその要望に答えてやった。
次々と料理が運ばれて来ると、それは客達の注目を集めた。朝っぱらから有り得ない量の料理がテーブルに並ぶのだから仕方がない。その上それをどんどん平らげていくのは、人間よりずっと小さな体のフェアリーなのだ。
シャイアはこの街では目立ちたくなかったので良い顔をしなかったが、コッペリアはそんな事はお構いなしだ。
「何か食べ難いねぇ。椅子が低すぎるんだよ」
「あなたが小さすぎるのよ」
コッペリアはナイフとフォークを持ったまま飛び上がり、シャイアの膝の上に降りてきた。
「ちょっと、何をしているの」
「これで食べやすくなった」
コッペリアは何食わぬ顔でシャイアの膝の上に座って食事を続ける。シャイアは溜息をついて紅茶を一口飲んだ。
コッペリアがようやく満足して店を出たとき、シャイアの前にいきなりフェアリーを連れた少女が現れた。彼女はシャイアが店に入るのを見かけて、柱の影でずっと出てくるのを待っていたのだ。
「やっぱり、お嬢様……」
「あなたは…………アンナ?」
「そうです、屋敷でお嬢様にお仕えしていたアンナです」
少女があまりにも汚い格好をしているので、シャイアはそれがアンナだと分かるのに時間がかかった。
アンナは青い瞳に涙を溜めて、喜びとも悲しみともつかない光を浮かべていた。
「わたし、もしかしたら誰かが戻ってくるかもしれないと思って、ずっとこの街で待っていたんです」
「誰かが?」
アンナの言い方に、シャイアの冷たい表情が動いた。まるで、屋敷にいた者がすべて消えてしまったような言い様だ。
シャイアはアンナが何か言おうとするのを遮るように、彼女の手を引いて、目立たない路地裏まで連れて行った。その間、コッペリアは二人のやり取りよりも、アンナの肩にしがみついているフェアリーを見ていた。
「あの後、屋敷で何があったの、言いなさい」
シャイアは、アンナの肩を掴んで引き寄せて、まるで脅迫するような険しさで言った。
シャイアよりもずっと背の小さいアンナは、シャイアの顔を見上げて、瞳に溜めていた涙を零した。
「わたし、よく分からないんです。レバンスさんが、旦那様が撃たれて、お嬢様は連れ去られたと言って、それからとにかく裏口から逃げろって言って、わたし必死に逃げたんです。銃声とか悲鳴とかいっぱい聞こえてきました」
アンナはそこで堪え切れずに泣き崩れた。シャイアの足に縋るようにしがみついて、寒さに震える小動物のように弱々しい姿を晒した。
「きっと、旦那様が撃たれたとか、お嬢様が連れ去られたとか、あの時の出来事も、何かの間違いだって思っていたんです。お屋敷に戻れば、いつもどおりに皆がいて、お優しい旦那様も、お厳しいお嬢様もいて、でも怖くて怖くて、街にずっと隠れていたら、カレーニャ家がずっと遠くにいってしまったって、街の人たちが噂していたんです」
アンナの話は、涙と嗚咽のために途切れ途切れだったが、それでもシャイアは何が起こったのか分かった。
「わたし、噂が気になってお屋敷に戻りました。そした、もう、何もなくなっていたんです。お屋敷も、お庭も、お屋敷の皆も、何もかも消えて……」
錯乱して泣き続けるアンナを、シャイアは凍りついたような無表情で見下ろしていた。
「わたしたちは運がいいわ。たった二人だけ、生き残ることが出来た」
アンナの体が強張った。シャイアは、アンナに信じたくない事実を突きつけた。
「カレーニャ家は消えたんじゃないわ、消されたのよ。カレーニャに関わった人間は、一人残らず始末されてるに違いないわ」
「そんな、そんな、そんなの嘘ですっ!」
アンナは頭を抱えて、さらに乱れた。何度も何度も頭を振って、耳に余韻を残すシャイアの言葉を自分の中から追い出そうとしていた。
アンナの肩にしがみついているフェアリーが、光のない虚ろな瞳でアンナを見つめた。そして、慰めるようにアンナの頬を触ると、アンナはそれで少し落ち着きを取り戻して、頭を振り乱すのを止めた。
「立ちなさい」
シャイアはアンナの手を取って、半ば無理やりに立たせた。
「アンナ、あなたは決してわたしを裏切らない」
「ええ、ええ、お嬢様! わたしは決してお嬢様を裏切りません!」
シャイアはアンナをぎゅっと強く抱きしめた。
「わたしは必ずお父様と皆の仇を取るわ。あなたは一緒に来て、それを見届けてちょうだい。いいわね」
「はい、お嬢様……」
シャイアはアンナをきつい抱擁から開放すると、姿の見えない敵に憎悪を掻き立てた。
「このわたしから全てを奪った代償は、あらゆる恐怖、あらゆる苦痛、あらゆる絶望を持って返して頂くわ、必ず!」
アンナはびくっと震えてシャイアを見た。シャイアはもう、アンナの姿を見ていなかった。父に対する愛から生まれる憎しみが、シャイアに鬼か悪魔のような風格を与えていた。しかし、青い瞳はどこまでも深く深く澄んでいて、無垢な憎悪と悲しみが宿っている。アンナはそんなシャイアの姿が、本当に美しいと思った。
かつてカレーニャの屋敷で庭師をしていたセバスは、今では小さな農場を経営していた。
セバスが農場で馬駆けをしていると、柵の向こう側からじっと自分の姿を見つめる少女がいるのに気付いた。
セバスは少女の姿を遠くから見つめてあっと思った。急いで馬を走らせて近づくと、さらに驚愕した。
「君は、アンナじゃないのか?」
「セバス……あなたも無事だったのね」
セバスは一瞬顔を引きつらせて、不自然な間を空けた後に言った。
「ああ、僕もなんとか逃げ出せたんだよ」
「わたし達以外、みんな殺されたのよ。知ってる?」
「いや……」
セバスはそんな顔をしていいのか分からず、アンナから顔を背けた。アンナに見つめられるほど、セバスは息苦しくなった。
「君は今どうしているんだい」
まるで逃げるようにセバスは話題を変える。アンナはそれに微笑して答えた。
「わたし、どこにも行くところがなくて、偶然ここにあなたがいるって聞いたから、会いに来たの」
「そうかい、だったらここで働くといいよ。もちろん給金も払うよ」
セバスはここぞとばかりにアンナを説得しようとした。セバスは屋敷で働いてたときから、アンナに好意を抱いていたのだ。それはアンナの方でも薄々感づいていた。
アンナは何も答えずに、潤んだ瞳でセバスのこをとじっと見つめて、少女の初々しさと女の艶かしさを漂わせながら、栗色の髪を振り乱して走り去った。
「ま、待って! アンナ、どこに行くんだい!」
セバスは馬から下りて柵を乗り越え、アンナの後を追った。
アンナが近くの森に入っていくのを見ると、セバスの胸は否応なしに高鳴る。
だが、森の中で待っていたのはアンナではなかった。黒いドレスを身にまとい、見た事もないフェアリーを肩に乗せた女、その姿を見たとき、セバスはあまりの驚きと恐ろしさに声も出なかった。
「久しぶりねぇ、セバス」
「お、お、お嬢様っ!」
「どうしたのぉ? まるで悪霊でも見ているような顔をして」
シャイアはすくみ上がるセバスから目を離さないで、少しずつ近づいていく。
「今では農場の経営者なんて、お父様の暗殺でどれだけの報酬をもらったのかしら?」
シャイアは無表情、無感情でセバスに迫った。シャイアの滑らかな肢体から溢れ出す殺意が、セバスをその場に縛り付ける。セバスはついに腰が砕けて尻餅をついた。
「ち、違います。わ、わたしも、命からがらあの場から逃げ出したのです」
「あらぁ、おかしいわねぇ。あなたはわたしが捕まるのを笑って見ていたじゃない」
「そ、それは、お嬢様の事が心配で……」
「もう嘘はたくさんよ!」
シャイアが叫ぶと同時に、コッペリアの翅が開き、セバスの右手の指が吹き飛んだ。
セバスは何も理解しないまま、人差し指から薬指までが無くなっている手を見て、徐々に表情が険しくなっていった。
「うわあぁぁぁぁっ!!! 指が、僕の指ぃっ!!!」
転げ回るセバスの無様な姿を見て、シャイアは暗い微笑を作る。
「正直に言わないと、次は首が飛んじゃうかも」
「ひぃぃっ!!? お許し下さい!! お許し下さいお嬢様!!」
「お父様の暗殺を企てたのは誰なの」
「フェアリープラント社、僕ははそれだけしか知りません…………」
「本当にぃ?」
「ほ、本当です。僕だってあんな事はしたくなかった。けれど手伝わなければ殺されると脅されていたんです。どうか、お許し下さい…………」
セバスは激しい痛みに耐えながら、息も絶え絶えに、シャイアの足元で命乞いをした。
「それは嘘ね。あなたは最初からお父様の暗殺に関わっていたわ。そうでなければ今まで生きていられるはずがない。その場で懐柔されたのならば、必ず殺されているわよ」
真実を突かれたセバスは、頭を項垂れて、シャイアの裁定が穏やかである事を願うしかなかった。
[お父様を撃ったのは?」
「知りません。ただ……」
「ただ?」
「シルフリアで、最も腕のいい撃ち手だと聞きました」
「そう、わかったわ」
セバスはこれ以上ない哀れで情けない顔で、シャイアを足元から見上げる。シャイアは見下ろして微笑した。
「わたしは全てを失ったわ。それなのにあなたは、のうのうと毎日を過ごし、広々とした農場まで手に入れて、不公平だと思わない?」
「い、嫌だ、死にたくない……」
「だぁいじょうぶ、命までは取らないわ」
シャイアは肩に乗っているコッペリアに囁くように、しかしセバスには聞こえるくらいの声で言った。
「あの男の右腕を落としなさい」
「わかった」
「うわぁっ!!? 誰か助けてくれーっ!!!」
セバスは慄然と立ち上がって逃げ出した。コッペリアは離れていくセバスの背中を見ながら、真紅の瞳を見開く。それに少し遅れて、セバスは衝撃を受けて前のめりに倒れる。その時、セバスの目の前に、自分の右腕が血煙をあげながら転がってきた。そして森を突き抜ける悲鳴に次ぐ悲鳴、セバスは右腕の切断部を残された左手で押さえて、湧き水のように流れる血で服を染め、胎児のように丸まったまま苦悶した。
「痛い、痛いよぉ!!? このままじゃ死ぬ!!? 助けておくれよぉ………………」
「あなたは死にはしないわ。アンナがお医者様を呼んでいるからね。それにしても、本当に運が悪い人よねぇ、事故で右腕を失ってしまうなんて」
それは静かだが絶対的な力を持った脅しだった。セバスは余計な事を言えば必ず殺されるという事を悟らされた。
シャイアは、恐ろしさと痛みですっかり弱ったセバスを後にして、森の奥へと歩いていった。
「殺さなくていいのかい?」
「必要ないわ。あの男は、わたしに対する恐怖に震えながら暮らすのよ。一生苦しみ続けるがいいわ」
ついに死のゲームは始まり、破滅と終焉を司る駒が一つ確実に動いた。
覚醒……END