破滅への序曲‐4
サーヤは休日の土日でも休まず働いていた。屋敷で働いた分は、リーリアが給金をくれるし、何よりもじっとしているのが性に合わなかったのだ。他にもメイドが何人もいて同じ様に働いているのだが、サーヤはメイドたちの倍以上の仕事が出来た。
「ウィンディは高いところの窓を拭いてね」
「うん、わかった」
「サーヤ、わたしは何をすればいい?」
「シルメラは、わたしと一緒にモップがけしようね」
「よし、まかせろ」
サーヤがいいと言っても、フェアリーたちは仕事を手伝ってくれた。大好きな主人の為に役立つのは、フェアリーにとって幸せな事なのだ。そういう訳で、サーヤとフェアリーたちは、働きに働いた。あまりに働くので他のメイド達の立つ瀬がなくなり、リーリアがわざわざ休みを取らせた程だった。
昼下がり、サーヤとフェアリーたちが寄り添って玄関の階段に座って休んでいた。そこへエクレアが飛んできて言った。
「こら、下僕共、何をゆっくりと休んでいるの」
「リーリアにしばらく休めって言われたんだよ。もう一つ言っておくが、わたしたちはお前の下僕じゃない」
「リーリアのものはわたしのもの、リーリアの下僕はわたしの下僕よ」
「口の減らない奴め」
シルメラの悪態に、エクレアは笑いを浮かべて女王のように尊大な態度を取った。
サーヤは嬉しそうにフェアリーたちのやり取りを見ていた。可愛いフェアリーが自分の側にいるというだけで、もう幸せ一杯の気分だった。
そんな昼下がりのひと時を邪魔するように、数台の馬車が屋敷の門前に着け、そして黒いスーツに姿にサングラスをつけた、強面の男達が降りてきた。近くにいたメイドたちは敷地に入ってこようとする男達を慌てて止めに入ったが、女の力ではどうにもならなかった。メイドたちを押しのけ、黒服の男達に囲まれた少年が、サーヤの方に向かって歩いてきた。
「あいつは」
少年の正体を知ったシルメラは、怒りと嫌悪で激しい形相になった。サーヤは立ち上がり、きりっと表情を引き締めて、少年と向かい合った。
「よう、シルメラを返してもらいにきたぞ」
「帰ってよ。あなたなんかに、シルメラは絶対に渡さないわ」
「分かってないな。お前は窃盗犯なんだよ! この僕から、無理やりシルメラを奪った!」
「あなたが酷い事ばっかりするのがいけないんでしょ!」
「まあ、いいや。こっちには契約書があるんだ」
「契約書?」
「シルメラをハンターから買った時の契約書だよ」
エルシドは自分のサインが入った紙を取り出して見せた。それには契約の内容が小さな字で細かに書いてあった。
「これがある限り、シルメラは僕のものだ。お前はシルメラを僕から奪った悪人さ。法に訴えれば、お前は確実に牢獄いきだ。そうしてやってもいいんだぞ」
「いい加減にしろ!」
シルメラが飛び上がって前に出てくると、エルシドは恐怖のあまり悲鳴を上げて、黒服の男たちの中に隠れた。
「い、いくら脅したって無駄だ。高い金を出してお前を買ったのは、この僕なんだからな。どうしてもシルメラがほしければ、金を出せ! シルメラと契約の宝石を買った時と同じ金をな! それが出来なければ、シルメラを返すか、お前が罪人になるかのどっちかだ!」
ここまで言われると、サーヤは事態を飲み込んだ。考えてみれば、エルシドの言う事はもっともだった。シルメラもそれが分かっているので、実力行使に出られないでいた。
「……いくら払えばいいの?」
「シルメラが九三〇〇万ルビー、契約の宝石が四〇〇万ルビー、しめて九七〇〇万ルビーだ」
「そ、そんな……」
エルシドは勝ち誇ったように笑って言った。
「貧乏人のお前に、そんな金が払えるわけないよなぁ」
「…………お金はとてもじゃないけど払える額じゃないわ。他に方法はないの?」
「そうだな」
エルシドはサーヤの姿を嘗め回すように上から下まで見ていく。体は小柄で、豊かとは言えないが形の良い乳房や、口付けを知らない瑞々しい唇を見て、少女の裸体を想像してにやけた。サーヤはそれを見ただけで自分の身が汚されたような気がして、思わず身震いした。
「お前が僕の妾になるって言うんなら、シルメラを譲ってやってもいい」
「…………」
サーヤは絶句、フェアリーたちはサーヤの前に出てきて口々に言った。
「この外道が!!」
「最低最悪の下衆だわ!」
「バーカ、バーカッ!」
「うるさい、黙れよチビ共!」
「わかったわ」
サーヤが言うと、フェアリーたちは、目を丸くして振り向いた。
「何言ってるんだ、サーヤ!?」
「あの人にシルメラを渡すわけにはいかないもの」
「冗談じゃない! わたしの為にあんな奴の奴隷になるって言うのか! だったら、わたしが戻る!」
「それだけは絶対に駄目!!! わたしはどうなってもいい、あなたたちには幸せになってもらいたいの」
サーヤが言うと、玄関が開いてリーリアと執事のメルファスが出て来た。
「いい加減にしなさい」
リーリアは歩いてくると、怖い顔をしてサーヤの胸を指した。
「あなたに言っているのよ」
「リーリア……」
「自分を犠牲にして他人を幸せにしようとするその姿勢は、間違っているわ。だいたい、あなたがいなくなったら、誰が一番不幸になるの、あなたのフェアリー達でしょう!」
「わたし、もうどうしたらいいのか分からなくて…………」
サーヤは下を向いて泣き出した。リーリアはため息をつくと、エルシドに向かって言った。
「話は聞かせてもらったわ。お金を払えば、シルメラを譲るというのは本当ね」
「ああ、払えたらの話だけどな」
「念の為、契約書を作らせてもらうわ」
「勝手にしろよ」
メルファスが屋敷の中に入り、少し経ってから出てきて、契約書をリーリアに渡した。
「サインをして、母印を押して貰えるかしら」
「サインでも何でもしてやるよ。こんな契約書作ったところで、こいつに払えるわけはないんだからな」
エルシドは、リーリアの言う通りに契約書に羽ペンでサインを書き、母印を押した。
「ほらよ、満足したか」
「これで、この契約書は法的な力を持つわ」
「だから何だよ」
リーリアが掌を返すと、メルファスが懐から取り出した小切手とペンを渡した。リーリアは小切手にペンを走らせ、エルシドに差し出した。
「何のつもりだ?」
エルシドは小切手に書かれている数字を見て息を止めた。周りにいた黒服の男達も、それを見て騒然となった。
「これ以上騒いだら警察を呼ぶわよ。お引取り願いましょうか」
「なっ、くっ」
エルシドは反駁しようとしていたが、どうにも言葉が出てこなかった。その表情はお気に入りの玩具を取られた子供のように、稚拙で激しい憎悪で歪んでいた。
「く、くそぉ……帰るぞ!!」
そしてエルシドは、歯軋りをしながら去っていった。
「何で急に大人しく帰っちゃったの?」
「あなたは気にしなくてもいいわ」
小切手というものをまったく知らないサーヤは、エルシドが急に帰った理由が分かっていなかった。
エルシドは帰りの馬車の中で、九千七百万の数字が書かれている小切手を忌々しげに見つめ、それを持つ手は震えていた。
「何なんだ、何なんだよあいつ!! 普通出すか!? 見ず知らずの他人の為に、こんな大金を当たり前のように出すのか!? 頭がどうかしてやがる!!!」
エルシドは、例え親兄弟の為でも、こんな大金を出す事など微塵も考えられなかった。リーリアの行動は彼にとって、まったく不可解で、気味が悪かった。
「おい、お前!」
「はっ」
エルシドは隣に座っている黒服に小切手を叩きつけて言った。
「この金でシルメラよりも、もっと強いフェアリーを買って来い!」
「無茶を言わないで下さい。黒妖精以上のフェアリーなど、この世には存在しません」
「つべこべ言うな!! フラウディア中を走り回ってでも探せ!!」
「しょ、承知いたしました…………」
哀れなエルシドの部下達は、しばらくは無意味な奔走を続けなければならなかった。