シルメラ‐8
エルシドの残虐非道な仕打ちは続く。彼は他人が見ているのも気にせずに、シルメラの左翼の根元にナイフを突き立て、何の躊躇もなく黒い翼を切り取った。聞く者の鼓膜を引き裂くような哀れなフェアリーの悲鳴が天上にまで響き渡る。その後、シルメラはぐったりとして、翼の切断部から溢れ出る血で背中を染めていった。
エルシドは切り取った翼を投げ捨てると、深く傷ついたシルメラの姿に興奮し、その髪を掴んで頭を引き上げて言った。
「次はその綺麗な瞳をくりぬいてやる」
「う……うう…………」
エルシドが血濡れのナイフを振り上げる。そして思い切り振り突き下そうとした時、その右腕がまったく動かせなくなっていて驚いた。
「なに!!?」
彼のナイフを持つ手を、ウィンディが掴んでいた。
「こいつ、離せ!」
そこにサーヤが走ってきて、エルシドの顔を思いっきりぶん殴った。
「この、ろくでなしっ!!!」
「ぶげぇーっ!!?」
エルシドは奇妙な悲鳴をあげて、無様に吹っ飛んで水溜りの中に突っ込んだ。殴ったサーヤの手が痺れるほどに、強烈な一発だった。
サーヤはシルメラを抱き上げて、何度も呼びかける。すると、朦朧としいたシルメラは、意識を取り戻して言った。
「サーヤに酷い事ばかりしたから、罰が当たったんだ……」
「何言ってるの!? シルメラは悪くないでしょ!!」
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい…………」
シルメラはシラーの浮かぶ瞳に涙を溜めて言った。そのあまりにも健気な姿に、サーヤは泣かずには居られなかった。
エルシドの方は、殴られた顔を抑えて転げ回り、泥まみれになっていた。
「痛い! 痛い! 痛いぃっ! 殴りやがった、この僕を!?」
生まれて初めて殴られたエルシドの衝撃と混乱は半端ではなかった。
「ちくしょう! 馬鹿にしやがって!」
エルシドは鼻血を垂らしながら立ち上がり、ナイフをちらつかせてサーヤに近づいた。
「返せよ、そいつは僕のフェアリーだ!!」
「もう……」
サーヤの周囲から何者も超えることを許されぬような、強烈な力が噴出す。それは目には見えないものだが、エルシドは圧倒的な何かを感じて立ち竦んだ。
「いい加減にしてーーーーーーーーっ!!!」
強烈な意思の下に生まれた力がサーヤから波紋を広げる。それは瞬時にシルフリア全域を席巻し、一瞬だけシルフリア中のフェアリーたちの動きを止めた。フェアリーたちにサーヤの声が聞こえたのだ。
エルシドの帽子を飾る蜂蜜色のキャッツアイが、何の前触れもなしに輝き始める。
「な、なんだこりゃ!?」
キャッツアイが輝くのは、エルシドの意思とはまったく無関係であったし、そのあまりの光の強さは、付けている本人に心の奥底まで凍りつかせるような恐怖心を与えた。
上空から見ていたエクレアは、太陽を直視するように強い光に七色の瞳を細くして言った。
「契約が解除されているわ!! あいつがシルメラを放棄したって言うの!?」
「違うね。サーヤが契約を解除したんだよ」
言ったのはコッペリアで、エクレアは反論した。
「マスター以外の人間の意志で契約が解除されるなんて、あり得ないわ!?」
「ただ一人だけ、それが可能な人間を、お前も知っているはずだよ」
「まさか!!?」
「黒妖精のお母様だ」
身も心も縮み上がったエルシドは、女のように甲高い悲鳴をあげて、帽子のキャッツアイをむしり取って投げ捨てた。それはサーヤの足元に落ちると発光を止めて、本来の透明感のある蜂蜜色の上に猫目のような一本線の光を取り戻していた。
「それを拾いなさい」
サーヤはぎくっとして、その声の主を見た。シャイアが興ありげな微笑を浮かべていた。遠くから見ただけでもぞくっとしてしまうその人の言う事に、サーヤは無条件で従い、足元のキャッツアイを左手で拾い上げる。それから息も絶え絶えなシルメラの白い顔を見つめた。
「その子を助けたいのでしょ? だったら、奪い取らなきゃ」
そう言った後、シャイアは楽しげに笑った。どうやら彼女は、他人から物を奪い取る事に迷うサーヤと、それを呆然と立ち尽くして見ている無能で無様なエルシドの姿、その両方を余興として楽しんでいるようであった。
迷っているサーヤの前で、ウィンディがもどかしげに可愛らしい動作を交えて言った。
「サーヤ、契約、シルメラと契約」
ウィンディが迷いを断ち切ってくれた。サーヤは左手のキャッツアイを右手に持ち替えてぎゅっと握ると、空いた方の左手で、シルメラの手を包み込んだ。再びキャッツアイが激しく輝き、光がサーヤの右手の中から漏れる。
「ああ、この感じ、とても懐かしい……お母様…………」
シルメラは春の日差しを受けているような優しい温かさの中で、シラーの浮き出る瞳から涙を落とした。その時、切り落とされていた左翼が、瞬く間に元の姿を取り戻した。
それを目の当たりにすると、さすがのシャイアも少し驚いた。
「翼が再生した?」
「サーヤがフェアリーに与える力は、それほどに大きいと言う事よ。フェアリーの創造主たるエリアノには、こういった力があったと本で読んだ事はあるけれど、この目でそれを見ることが出来るなんて思わなかったわ」
サーヤをよく知るリーリアの方は冷静だった。
呆然と立っていたエルシドは、はっと我を取り戻し、再びサーヤに迫る。
「お前、何をしたんだ! シルメラは僕のフェアリーだぞ!」
サーヤは何も応えず、ただ哀れみの深い瞳でエルシドを見つめていた。
「そんな顔で僕を見るな!!」
エルシドは走り出し、サーヤの前まで来てナイフを振り上げた。だが、シルメラの双眸が白刃を見つめた瞬間、それが粉々に砕け散った。
「ぐわぁっ!!?」
ナイフが砕けた瞬間に、エルシドはそれを持っていた手に痛烈な衝撃を受けて声を上げ、その後は痺れる手を押さえて、怯えきった目でシルメラを見つめた。
「お、お前がやったのか? どうして、僕のフェアリーなのに…………」
「まだ気付かないのか、この魔抜けめ!!」
シルメラはサーヤの腕の中から離れて、エルシドの目の前で漆黒の双翼を開いた。それだけで烈風が起きて、エルシドは風圧で吹き飛ばされ、尻から落ちて呻いた。周りで見ていた妖精使いたちも、その圧倒的過ぎる力に驚嘆するしかなかった。
「たった今、わたしはサーヤのフェアリーになった。サーヤを傷つけようとする奴には、容赦しない!!」
「ひいぃっ!?」
シルメラに睨まれ、エルシドは我知らずに情けない悲鳴をあげていた。
「ふ、ふざけるな、お前を買うのにどれだけの金がかかったとおもってるんだ…………」
「そんなもの知るか!」
「うう、ちくしょう…………」
エルシドは、シルメラを奪われ、恐怖と恥辱にまみれて、幼い子供のように泣きながらその場を逃げ出した。
エルシドがいなくなるのを見計らったように、灰色の雲が割れて、光がサーヤたちを照らし出した。その様子は大自然が祝福を与えているかのようだった。
上空からずっと傍観していたコッペリアは、狂気の元に生まれた笑みを浮かべて言った。
「お母様は時を越え、姿を変え、再び妖精達の前に現れた。季節の変わり目が訪れる。妖精は寒い冬から春へと誘われ、人間共は地獄の季節へ落ちてゆく」
近くにいたエクレアは、それを見て確実に何かが起こりつつあるという確信と、言いようのない不安を掻き立てられた。
シルメラ……END