覚醒-2
夜に埋もれた森の上空は、月光だけが唯一の光だった。
黒い森の上を飛ぶ小さな体を、月の光が浮かび上がらせる。その姿は繊細であり優美であり恐ろしくもあった。
背には蝙蝠の翼、ブロンドの長髪が月光を受けてプラチナのように輝き、両目は闇の中で赤紫の光を発している。
それが森の上で急停止すると、小さな体を中心に衝撃波が広がり、森がわなないた。
時間はもう朝方だった。シャイアは急に悪寒を感じてばっと飛び起きた。自分の直ぐ近くに恐ろしい獣でもいるような殺気を感じた。
コッペリアが焚き火を挟んでシャイアの対面にちょこんと座っていた。
「お前にも分かるのかい。フェアリーの存在を感じられるという事は、妖精使いとしての資質があるって事だよ」
「何なの? 近くにすごいのがいるわ……」
「奴が来た。このわたしを狩りにねぇ」
コッペリアは、ゲームを楽しむ子供のように、ウキウキした笑顔になった。そして、六枚の黒い翅を開くと、焚き火を吹き消しそうな風圧を残して上昇した。
シャイアは風圧と舞い上がる火の粉に思わず顔を覆った。気がついたときにはコッペリアの姿はなかった。
上空ではコッペリアと漆黒のフェアリーが対峙していた。
「久しぶりだねぇ、ニルヴァーナ。お前が最初に来ると思っていたよ。姉妹の中で一番鼻がいいからねぇ」
「……覚悟……」
「お前が死ぬんだよ」
シャイアが上を見上げていると、森の上空から剣と剣を合わせて争うような、甲高い音が響いてきた。
「何が起こっているの…………」
争いの旋律が次第に近づいてくる。それがシャイアの真上まで来たかと思うと、何かの生き物が森に飛び込んできて、小枝を折りながら、体の大きさとは不釣合いな重さでシャイアの近くに落ちてきた。
シャイアはそれを見て慄然とした。人間を簡単に殺してしまうコッペリアが、黒いフェアリーに押さえつけられている。
「何やってるんだい! さっさと魔力を送りな! 負けちまうじゃないか!」
「魔力を、送る?」
コッペリアは舌打ちすると、ニルヴァーナの腹部に蹴りを入れて突き飛ばした。漆黒のフェアリーは、木に激突する寸前で、翼を開いて空中で静止した。
「こんなの見たことない……」
シャイアは唖然として言った。対になった大きな蝙蝠のような翼に、金糸のように輝く長いブロンドが心に突き刺さるように強烈な優美さを作り出し、膝のすぐ下まである長いブーツも、右側にスリットの入った短いスカートも、妖艶なボディラインを露にする半袖の上着も漆黒だった。華奢な肩から胸元までを覆い隠すケープと手首を飾るカフスも黒いが、白の刺繍で妖精の姿が一人ずつ描かれていた。コッペリアも独創的なフェアリーだが、漆黒の少女もそれに劣らない姿だ。
「コッペリア……眠って……」
ニルヴァーナは静かな声で言った。
「冗談じゃないね。わたしは目覚めたばかりなんだよ、まだまだ遊び足りない!」
コッペリアの翅が開き、全てが蛇のように長く伸びて刃物のように鋭利な切っ先がニルヴァーナに迫った。
ニルヴァーナは片翼を体の前にもってきて、翼の一振りでそれらを弾く。
コッペリアがその隙に突っ込んできて、ニルヴァーナの顔面と首を掴んでそのまま後ろの木に叩きつける。小さな体でもコッペリアの力は、屈強な人間でも振り払えないほど強靭だった。しかし、ニルヴァーナはコッペリアの手首を掴み、押さえつけている手をあっさり引き剥がす。
「くっ、そうだったねぇ。夜はお前の世界なんだ。久しぶりなんで忘れていたよ……」
コッペリアはニルヴァーナと目が合うと、さすがに少しぞっとした。その瞬間に、脇腹に強烈な蹴りを貰って茂みの中に突っ込んだ。
「コッペリア!」
シャイアは我知らずに叫んだ。
傷ついたコッペリアが、茂みの中からふらっと飛び上がってきた。焚き火の炎に照らし出されるその姿が、酷くみすぼらしかった。
「なんて事だい、夜の上にマスターから魔力も貰えないんじゃ、どうにもならないじゃないか……」
ニルヴァーナが高速で飛び、まるで瞬間移動したように、コッペリアの前に現れる。そして、コッペリアを殴って、燃え盛る焚き火の中に叩き落とした。衝撃で燃える小枝や灰が飛び散って、辺りに火の粉の雨が降った。
シャイアは、コッペリアの無様な姿を見ると、急に言い様のない怒りがこみ上げてきた。
「何やってるのよ、それでもわたしのフェアリーなの!!!」
シャイアが怒りを露にすると、それに反応するようにペンダントの宝石が輝いた。シャイアの懐で真紅の宝石が、火傷するかと思う程に熱を持った。シャイアは思わず胸を押さえた。
「きたっ!」
コッペリアの中に力が流れ込んだ。コッペリアは、ぞくぞくするようなエネルギーの胎動に、歪んだ歓喜の笑みを浮かべると、六枚の翅を広げ、まるで弾丸のような勢いで飛び出す。
ニルヴァーナは、コッペリアの想像以上の速さに反応し切れずに、まともに体当たりを食らった。
二つの小さな体がぶつかり合う衝撃が、辺りの空気を震わせる。コッペリアは体当たりした勢いのまま、ニルヴァーナを樹に叩きつけようとした。しかし、ニルヴァーナはくるりと反転、その勢いを利用してコッペリアを投げ飛ばした。
コッペリアは空中で一回転してからぴたっと止まると、翅を広げた。
「バラバラにしてやるよ!」
目に見えないうねりがコッペリアの周囲に生まれて、無数の真空の刃がニルヴァーナに襲い掛かった。
ニルヴァーナは見えない刃を感じる事が出来た。もはや逃げ場はないと知ると、両翼を前で交差させて、漆黒の翼で体を包み込む。その後に、見えない壁と見えない刃がぶつかり合って火花を散らした。それから数瞬遅れて、周りの大木が輪切りにされて、緩慢な軋みとともに、巨大な体をもたげて、大地を震わす振動と共に、数本の巨木が森の大地に沈んだ。
翼を大きく開いたニルヴァーナには傷一つなく、真後ろにある樹齢百年を超える巨木以上の存在感を示していた。
もはやこれは、驚くという次元ではない。シャイアは薄暗い森の中で繰り広げられる夢幻の戦闘を、まるで夢を見ているような気分で眺めていた。
ニルヴァーナは目を細めると、真上に飛んでシャイアたちの前から消えた。それは、逃亡したようでもあり、一時の猶予を与えてくれたようにも思えた。
「夜明けだよ」
コッペリアに言われて、シャイアは空が白み森が明るくなりつつある事にようやく気づく事が出来た。
フラウディアは孤立した島国で、独自の発展を遂げた王国だった。南側の海岸線に首都シルフリアがあり、島の中心部にはかつての首都であったフェアリーラントがある。
シルフリアを北上して、フェアリーラントとの間にはノルンという村があった。
ニルヴァーナは、ノルンの村から少し離れた屋敷に向かっていた。
森の中にひっそりと佇むその屋敷は、屋根裏部屋まで含めて三階建てで、二階の窓が開け放たれていて、ニルヴァーナはそこから入って窓際に立った。
「お帰りなさい」
部屋の片隅で、若い女が花瓶に花を生けていた。女はニルヴァーナに背を向けたまま声をかけた。それから振り向き、窓際に立つ妖精に顔を向けた。女は両目を閉じて微笑を浮かべ、赤みが掛かった長い黒髪は、肩や衣服に触っても、何の抵抗もなく流れる。春らしく若草色のドレスを着て、触れる事が許されないような初々しさと純真さを湛えていた。歳は二十二になる。彼女の名はセリアリス・ミエルと言った。
ミエル家は古くからある妖精使いの家系なのだが、それを知っている者は今の時代には殆どいなくなっていた。
「これ、どうかしら」
セリアリスがほんの少し恥じらいを込めて言うと、ニルヴァーナは飛び上がって花瓶の前に立った。
「……綺麗……」
「ありがとう」
セリアリスは花瓶の花を、赤子を触るように優しく整えた。
「目が見えなくても、これくらいの事は出来る様になるものなのね」
セリアリスの薄く開けた瞳から、光のなくなった青い瞳が覗いていた。ニルヴァーナはそれを無表情で見つめる。黒い妖精の瞳は、不気味に輝いていた赤紫から、優しげな緑色に変わっていた。
「そうだわ、あなたの大好きなものがあるのよ」
セリアリスは棚から苺が山盛りになったガラスの器を取り出して、テーブルの上に置いた。その淀みのない動作は、とても盲目とは思えない。
ニルヴァーナは椅子に座って、苺に手を伸ばした。へたも取らずに次々に苺を口に放り込んでいく。
「コッペリアがいたのね。魔力の放出を感じたから分かったわ」
「うん」
ニルヴァーナの短い答えに、セリアリスはため息をついた。
「コッペリアは、人間を滅ぼすために生まれたフェアリーなのでしょう?」
ニルヴァーナは手を止めて答えた。
「そうとは言えない……けど……今は……人間を滅ぼそうとするはず…………」
そして、再び苺に手を伸ばす。
「フェアリーが生まれて半世紀、フラウディアの人間達はフェアリーの尊厳をこれ以上ないくらいに破壊してきたわ。今やフェアリーは人間の為に働く便利な道具でしかない。それが人間社会までも堕落させている事には誰も気づかない。わたしだって、こんな世界は滅んでしまった方がいいって思う時もあるわ。でも、それは間違っていると思うの」
ニルヴァーナはただ黙って苺を口に運んでいる。話を聞いているようには見えないが、セリアリスは続けた。
「この世界に無駄なものなんてないと思うの。人間だって何かの意味があってこの世界に生まれたはずなのよ。確かに人間がいない方が、世界はいつまでも美しく平和だったと思う。でも、それは何か違う気がするのよ。口では、うまく言えないんだけどね……」
ニルヴァーナは山盛りの苺をすっかり食べてしまった。
「……ごちそうさま…………」
「もう食べちゃったの、早いのね」
ニルヴァーナが飛んできて、セリアリスの肩に腰を下ろすと耳元で囁いた。
「コッペリアは……必ずシルフリアへ……」
「人間を滅ぼすために?」
「……わからない……」
「戦いになるのかしら?」
「さあ……」
「あなたなら、コッペリアを止められる?」
「……あなたが望むのなら……止める……」
セリアリスは窓際まで歩いて、見えない目で空を仰いだ。
「シルフリアへ行った妹が心配だわ……」
「テスラも一緒……」
「そうよね、テスラも一緒だもの安心よね」
そうは言っても、セリアリスの憂いは拭えなかった。彼女の妹は、無茶を承知で突き進むような気性だったのだ。
「妖精女王エリアノよ、フェアリーの創造主よ、われらの親愛なる大叔母よ、どうか妹をお守り下さい」
セリアリスは、妹が心配で祈らずにはいられなかった。
「今朝のあれは何なの?」
シャイアは森の中に切り開かれた道を歩いていた。その肩に座っているコッペリアは、少し間を置いて答えた。
「わたしと同じ黒妖精さ」
「黒妖精って何なのよ。あんなの普通じゃないわ」
「その通りさ。わたしたちは普通のフェアリーとは違う」
コッペリアの答えはそれだけだった。シャイアの目が鋭く尖り、苛つきを露にした。
「ちゃんと説明しなさい」
「どこまで説明すりゃあいいんだい」
「わたしの知らないことは全てよ」
「日が暮れっちまうよ」
「日が暮れても何でもいいから説明なさい」
コッペリアはシャイアの肩の上で小さくため息をついて、仕方ないという風に話始めた。
「今朝の奴はニルヴァーナと言って、この世に最初に生まれた黒妖精だ。人間に分かりやすく言えば、わたしの姉みたいなもんだね」
「お姉様といきなり殺し合いなんて、素晴らしい姉妹愛だわ」
「わたしは、他の姉妹とは相容れぬものがあるから仕方ないのさ」
「他にもあんな化け物じみた姉妹がいるわけ?」
「黒妖精は全部で四人いる」
後二人もコッペリアのようなフェアリーがいるという事にシャイアは眉をひそめた。正直、あまり考えたくない事実だった。
「誰があなたみたいなフェアリーを作ったのかしら」
「私たちは、お母様の手によって生まれた」
「お母様?」
「エリアノ・ミエルと言う名の妖精使いさ。お母様はコアと精霊力の宿った森の土を元にして、人工的に知的生命体を生み出した。それがフェアリーだ」
エリアノは、フラウディアに住む者ならば誰でも知っている名だった。世界で最初のフェアリーを作った女性で、伝説の妖精使い、妖精女王、フェアリーの創造主など、様々な名で呼ばれて人々に親しまれる伝説の人だった。
「エリアノは、当時はフェアリーラントの女王で、尽きる事のない優しさを持ち、民衆からの信頼も厚かったと言われているわ。そんな人があなたみたいに凶暴なフェアリーを作るなんて思えない」
フラウディアでは、エリアノは女神として崇められているくらいなので、シャイアがそう思うのも仕方がなかった。
コッペリアは感慨深そうに目を閉じて、しばらく口を閉ざした。彼女が何を考えているのかは誰にも分からないが、険のない穏やかな顔をしている。コッペリアの性格からして、奇跡的な表情と言っても良かった。
「確かにお母様はわたしを作ったさ。わたしだけじゃない、ニルヴァーナも、シルメラも、テスラも、黒妖精はすべてお母様の娘だよ」
「何の為に……」
「それを話すには、まずはお母様がフェアリーを作った理由から話さなければならないね」
コッペリアは過去の記憶を整理するのに少し時間を使ってから話し始めた。
「お母様には体の不自由な妹がいたのさ。妹の世話をさせる為に最初のフェアリーを作った。そして、最初に生み出されたフェアリーを元にして、四人の黒妖精が作られ、さらに黒妖精を元にして他の様々なフェアリーが生まれたのさ」
「つまりあなたは、フラウディアに数え切れないほどいるフェアリーの大元と言うわけ」
「そういう事になるね。だが、それは大して重要なことじゃない。黒妖精が作られたのには、もっと重大な意味がある」
「重大な意味ですって?」
コッペリアは不適な笑みを浮かべ、言葉に楽しそうな調子を乗せながら言った。
「黒妖精は、人間の運命を審判する存在なのさ。人間とフェアリーの間にあるバランスが著しく崩れれば、わたしは人間を滅ぼす為に最善の行動をする。他の姉妹達は人間を護るために行動する。わたしが勝てば人間は滅びる、姉妹が勝てば人間は救われる。だからわたしは姉妹達と戦う運命にあるのさ」
シャイアはコッペリアが冗談を言っているのかと思った。いくらコッペリアが恐ろしい力を持っていると言っても、人間を滅ぼすというのは大きすぎる話だ。しかし、話している本人はいたって真剣だった。
「あなたの言っている事はとても信じられないわ。あなたが人間を滅ぼすような力を持っているとも思えないし、エリアノがそんなフェアリーを作るというのも不自然だわ。エリアノは平和主義者だったはずよ」
「その通りさ。お母様は人々の幸せを願った。だからフェアリーをお作りになった。人々がフェアリーと手を取り合って生きていけば、素晴らしい世界になっていくと信じていた。だが、お母様は人間の愚かさを無視することが出来なかった。人間とフェアリーの関係が破綻し、取り返しのつかない事態になる事も十分に予想できた。だから、わたしが生まれたのさ。わたしは人の命を刈り取る者、そしてフェアリーの為に存在するフェアリーだ」
「フェアリーの為に創られたフェアリー……」
コッペリアは、エリアノが人間の行く末を憂慮し、悩み苦しんだ末に生み出したフェアリーだった。
「わたし以外のあらゆるフェアリーは、契約者の命令に忠実だし、人間と契約しなければ本来持つ力の半分も出す事ができない。そして、選ぶ権利があるのは絶対的に人間の方なのさ。選ばれたフェアリーは、契約者がどんなに馬鹿な人間でも従わなければならない。フェアリーはそういう風に出来ている生き物なんだ。でも、わたしだけは少し違う。わたしは契約者を選択する事が出来る。契約してしまえば後は他のフェアリーと同じだけどねぇ」
「……そう言えば、契約するときに、気に入らなければ命を貰うとか言っていたわね。契約できなければどうなるのかしら」
「言った通りに命を貰うさ。わたしに命を取られた人間は、ミイラのようになって死ぬ。わたしは奪った命を魔力に変えて、罪深い人間を殺し続ける。魔力が尽きると眠りに入る。そうして、いくつかのつまらない街を破壊してきた」
シャイアは急に立ち止まると、複雑な表情を浮かべた。それは、コッペリアの残酷な話に心を痛めているという訳ではなかった。
「どうしたんだい?」
「わたしは、あなたが人間を滅ぼすのに必要な契約者って事?」
「わたしは好みの人間を選ぶだけだ。それに、人間を滅ぼすかどうかは、人間とフェアリーの関係がどうなっているのか分からなければ決められないさ」
シャイアは安堵の中にわずかな嬉しさを混ぜた微笑を浮かべた。しかし、それがコッペリアに好みの人間と言われた事に対する嬉しさだと気づくと、自分自身に苛立ち、腹が立ち、すぐに無表情になって言った。
「きっとあなたは、人間を滅ぼすと思うわ」
「お前のような考えを持つ人間は意外に多い。でも、そんなに簡単なことじゃあないんだよ」
「あなたの言っている事はよく分からないわ。でも、あなたが人間を滅ぼしたいと思うのは間違いないわ」
シャイアの言葉は、コッペリアの反論を許さないほど重かった。それは確信と言う名の圧力だった。
コッペリアは何かを言い返そうとしても言えない、なんとも煮え切らない表情をしている。シャイアはそれを面白そうに見つめていた。
シャイアにとっては、この世界がどうなろうが知ったことではなかった。父の仇さえ討てれば、後はどうとでもなれだ。
それからシャイアは馬車の轍がある道を見つけると、そこで立ち止まった。
「どうしたんだい?」
「町はどっちの方向かしら?」
それはシャイアの独り言だったが、聞いたコッペリアは鼻で笑って言った。
「そんな事かい。だったら、あっちの方向に何人かフェアリーが集まっている場所があるよ。そのずっと向こうにはもっともっと沢山のフェアリーがいる」
「そんな事が分かるの?」
「わたしはフェアリーの存在を漠然とだが感じる事が出来るんだよ」
「フェアリーの為に存在するフェアリーというだけはあるわね」
シャイアは森の向こうまでずっと続いている道の向こうを見つめて言った。
「フェアリーが多く集まっている場所は多分シルフリアね。となると、その手前にあるのがクレンシアかもしれない」
シャイアは再び歩き出した。コッペリアは肩に座ったままもう何も言わない。その後シャイアは、昼近くまで歩き続けた。
シャイアの様子は普通ではなかった。並の人間であれば、朝から昼間で歩き通せば苦言の一つや二つはあるだろう。シャイアは無言のまま、目的地を定めた冒険家のように、力強く歩を進める。
「行く当てはあるのかい?」
数時間ぶりにコッペリアが口を開くと、シャイアは首を横に振った。
「じゃあ、どこに向かってるんだい。お前の歩きからは迷いが感じられない。お前は自分の行くべき場所を知っているんだろう」
「行く当てはないけれど、それ以外の当てならあるわ」
「ふうん、これからどうするつもりなんだい」
「決まってるでしょう。お父様の仇を取るのよ。お父様を陥れた奴を見つけて、恐怖のどん底に叩き落し、醜く無様に這い蹲らせて、最後に殺すの」
シャイアは憎しみと陶酔に、歪んだ苦笑とも歓喜とも取れない笑みを浮かべて、悪魔的な優美さを振りまいた。その様子にはさすがのコッペリアも苦虫を噛んだ。
「仇を取るのはいいが、そんな簡単に犯人を見つけられるのかねぇ」
「必ず見つけるわ。でもその前に力が必要よ。富や権力といった力がね」
「なんだいそりゃあ。さっさとやっちまえばいいじゃないか」
コッペリアは首をかしげた。シャイアの憎しみの深さをよく理解していたので、そんな悠長なことを言うのが不可解だった。
シャイアは慎重かつ冷徹な人間だ。感情だけで動けば自分の方が敵に討たれる事を心得ていた。
「今のわたしは、恐ろしいフェアリーを連れてるだけの小娘に過ぎないわ。敵はたぶん相当な身分があるはずよ。相手と並ぶだけの力を持たなければ、簡単に潰されてしまう。たとえあなたの力があったとしてもね」
コッペリアは不服な顔をして鼻をならした。
「フン、誰が来ようと、このわたしを倒す事なんて出来やしないよ」
「そうでしょうね。でも、わたしは普通の人間よ。鉄の玉の一発で簡単に死んでしまうわ。そんな脆い人間を、あなたは守りきる自信があって?」
コッペリアは黙って悔しそうな顔をして、うんと言えない自分に腹を立てていた。その無言がシャイアに対する答えを十分に与えてくれた。
「だから、力が必要なのよ。すぐにのし上がって見せるわ」
憎しみが、殺意が、シャイアにたゆみなく力を与えてくれた。シャイアの歩はさらに力強く、歩の進みも速くなった。
「死のゲームはもう始まっているのよ。わたしは一つ一つ駒を進め、相手が気付いた時にはチェックメイト、その時お父様を殺した奴らがどんな顔をするのか楽しみね」
シャイアはどうしようもなく暗く歪んだ微笑を浮かべる。今のシャイアには、復讐する事しか見えていなかった。コッペリアはそれを横目で見た。
―哀れな娘だねぇ。
人殺しが常であるコッペリアですら、全てを失い復讐の炎で身を焦がす少女に憐憫の情を送っていた。
「お腹が空いたよ、シャイア」
日が暮れて森が紅色と影の暗い色彩に染まる頃、コッペリアは急に空腹を訴えた。シャイアはそれを無視していると、
「お腹が空いたよ、シャイア」
コッペリアはそんな言葉を連呼するのだった。あんまりうるさいので、シャイアは幼子を叱る母親のように怒鳴った。
「うるさいわね! 我慢しなさい!」
コッペリアは切なげな溜息をつくと、飛んで来てシャイアの前で両手を開いた。
「何のつもり?」
「寝るから抱っこしておくれ。眠っていれば腹が減ってるのも気にならないだろう」
「仕方ないわね……」
コッペリアは、シャイアに抱かれると、か細い腕の中ですぐに寝息をたてた。コッペリアの穏やかな寝顔は、無邪気な幼子そのものだった。
コッペリアは非情で残酷かと思えば、子供のように幼稚な一面も持っている。シャイアはそれが可笑しくて微笑した。
夜になると、シャイアは大木の根元に座り、コッペリアを抱きながら自分も眠った。コッペリアの温もりがあったおかげで、それほど寒いと感じる事はなかった。