シルメラ-2
「あーっ、もう! 契約の腕輪を忘れちゃうなんて!」
サーヤは学校から屋敷への道を走っていた。アメシストの腕輪を忘れて、クラインに取りに戻るように言われたのだ。妖精使いにとって契約の宝石は最も重要なものだが、サーヤにはまだその自覚がなかった。
「疲れた、あるいてこう。どうせ1時間目の授業には間に合わないし」
サーヤは潮の匂いと海から吹き上がる風を堪能しながら、散策気分で屋敷への道を歩き始めた。
シルフリア城に向かって飛んでいたシルメラは、上空から歩いているサーヤを見つけた。シルメラは少女を遠くから見ているだけで言い知れぬ懐かしさが溢れ、無意識のうちに降下していた。
街路の縁にずっと植えられている大木の枝にシルメラは降り立ち、前から歩いてくるサーヤを見つめた。サーヤもすぐにシルメラの存在に気付き、素晴らしい宝物でも見つけたというように突き抜けた笑顔を浮かべた。
「うわあ! 凄く綺麗なフェアリー!!」
「あ…………」
「おいで、お友達になろうよ」
サーヤが両腕を大きく広げて言うと、シルメラはそれに吸い寄せられるように枝から降りて、サーヤの前に歩いてきた。サーヤは膝を折ってシルメラと同じ目線まで屈んだ。
「わたしはサーヤよ。あなたの名前は?」
「シルメラ…………」
「素敵な名前ね!」
「お母様が付けてくれた名前なんだ、お母様が……」
シルメラはサーヤの深い湖のように青緑の瞳に見つめられると、今の苦しみを全てこの少女に打ち明けたいような衝動に駆られた。
「どうしてそんなに辛そうな顔をしているの?」
「あ、あの……」
サーヤは何の前触れもなく、いきなりシルメラを抱きしめる。その瞬間、あまりにも懐かしい温もりに、シルメラはキャッツアイと同じ輝きを持つ瞳を見開き、声を出す事が出来なかった。
「きっと心配な事があるんだね。でも、美人さんなんだから、そんな顔していたらもったいないよ」
「あ、ありがとう、サーヤ……」
サーヤはシルメラから離れて立ち上がり言った。
「貴方のマスターともお友達になれるといいな」
「それは無理だ……」
「どうして?」
「もういかなければ」
シルメラはサーヤの質問には答えずに黒い翼を広げて飛び上がり、手を振って見送るサーヤを見下ろす。
―この感じ、同じだ。サーヤはまるで…………。
シルメラは名残惜しそうにサーヤを少しだけ見つめてから飛び去っていった。
その日の夕方ごろ、サーヤは町で見つけたフェアリーの死骸を抱いて、ウィンディと一緒にシルフリアの外れにある森と草原の境目に来ていた。シルフリアに来たとき以来、ずっと続けているサーヤの戦いだ。もう小さな山形の妖精の墓の数は百近くにまでなっていた。
「あれ、まただ」
最近、妖精たちを弔った墓に一輪の花が手向けられていることがあった。そのあたりにある野の花とは言え、全ての墓に備えるのはけっこうな手間が必要だろう。どこの誰かは分からないが、サーヤは花を手向けてくれている優しい人に心から感謝するのだった。
サーヤはウィンディと一緒に穴を掘り、また一つ新しい墓標を完成させると、不幸なフェアリーを見つけにシルフリアの町に戻ろうとした。
「うはははは! 町外れでフェアリーワーカーを弔っている馬鹿がいると聞いて来て見たら、お前だったのかよ」
「えっ!?」
サーヤにはちょっとやそっとの中傷では動かない強い心を持っていたが、鳥打帽に大粒のキャッツアイのブローチを付けた少年が連れているフェアリーを見た時の衝撃は言葉に出来なかった。
「あ、シルメラ~」
何も分からないウィンディは、大好きなシルメラに会えて嬉しそうに笑った。
「サーヤ、ウィンディ、何ていうことだ…………」
「お前、この馬鹿と屑フェアリーを知ってるのか」
「お願いだマスター、この人たちには手出ししないで欲しい」
「殺せよ」
「え?」
「あのゴミを殺せって言ってんだよ!」
エルシド・コンダルタは激しい悪意を持ってウィンディを指差した。
「うううっ、逃げろ! サーヤ、ウィンディ!!」
「お前、余計な事を言うな!!」
エルシドは持っていた鉄製のステッキで、シルメラを思いっきり打ち捨てて叩き落す。
「あぁっ!?」
「その子に酷い事しないで!!」
「こいつは僕のフェアリーだ。僕が何をしようとお前には関係ない!」
エルシドは草の上に伏せているシルメラをステッキで指して言った。
「あのゴミフェアリーを殺せ、命令だ!!」
「う、うあーーーっ!!」
シルメラは耳を塞ぎたくなるような叫びと共に漆黒の翼を開くと、ただの一羽ばたきでサーヤとウィンディの目前まで迫った。
「シ、シルメラ!?」
サーヤが驚いている間に、シルメラはウィンディの胸倉を掴み、マスターの命令に命の限り抵抗して放り投げる。
「あ~~~っ!?」
「ウィンディ!!?」
柔らかい草の上に尻から落ちたウィンディは、サーヤが驚くほどに痛い目には合っていなかった。シルメラの抵抗があったからこそ、その程度で済んだ。
サーヤは走ってきて目を回しているウィンディを抱き上げる。
「サーヤ、全力で逃げろ!! フェアリーはマスターの命令には逆らえないんだ!!」
「酷いよ、こんなのって酷すぎるよ………」
サーヤは泣きながら気を失ったウィンディを抱いて走る。
「追えシルメラ! あの屑を殺せ! 邪魔するならマスターも殺っていいぞ!」
シルメラの側に漆黒の魔法陣が現れ、高速で回転する。シルメラは魔法陣の中に手を突っ込むと、自分の体よりも大きな漆黒の鎌を引っ張り出した。
「ち、ちくしょーーーーっ!!」
シルメラは大きな鎌を携え、自分に凄まじい嫌悪を抱きながらサーヤの背中を追った。
「あはははははははっ!! 黒妖精のシルメラから逃げられるものかっ!!」
サーヤは必死に走りながら思った。
―どうして、どうしてフェアリーは人間の言いなりなの? 人間と同じなのに、泣いたり笑ったり怒ったりするのに、フェアリーを作った人は、どうしてこんな風にしてしまったの!!?
走り続けるサーヤはフェアリーの創造主に激しい怒りを覚えた。フェアリーが人間に従順でなければならない理由がまったく分からなかった。
シルメラはサーヤの背後まで迫り、大鎌を振り上げた。陽光を反射する磨きぬかれた刃の部分が銀のように輝く。
―いやだ、この人だけは傷つけたくない!!
シルメラは心の中で必死に抵抗しながらサーヤの背中に向かって鎌を振り下ろす。瞬間、黒い影がシルメラの懐に飛び込んできた。大鎌は凄まじい抵抗に合って止まった。鎌の柄の部分を、漆黒の蝙蝠の翼を広げたフェアリーが掴んでいた。
「ニルヴァーナ!?」
「シルメラ…………」
姉妹のフェアリーたちは同時に言った。ニルヴァーナは硬直している妹の胸に足下を打ち込み弾き飛ばした。
「うわっ!?」
シルメラは黒い羽を散らしながらマスターの足元に墜落した。エルシドは自慢のフェアリーを意図も簡単に制圧したサキュバスのような姿のフェアリーから目が離せなかった。
「なんだよあれは…………」
「この子の名前はニルヴァーナ。シルメラのお姉さんよ」
「あれも黒妖精なのか!?」
目を閉じた白のローブ姿の女性が草原を歩いてくる。線の滑らかな薬指には、プラチナの枠に嵌った2カラット程度のアレキサンドライトが緑の輝きを発していた。彼女はサーヤをかばうように前に立って言った。
「同じ力を持ったフェアリーならば、勝敗を分けるのはマスターの力量よ。フェアリークリエイターのわたしに、貴方は勝つことは出来ないわ」
「フェアリークリエイターだと!?」
「どう、わたしたちと戦う?」
「う、ぐっ…………」
セリアリスの神すらも恐れないような毅然とした態度に、エルシドはあから様に怖気づいた姿を晒した。フェアリークリエイターは妖精使いの上位職と言える存在なのだ。
「今日のところは許してやる!」
エルシドは去っていった。シルメラはマスターの後を追う前に言った。
「感謝するよ、ニルヴァーナ」
それを聞いた黒妖精の長女は、悲しげな緑色の瞳で去ってゆく妹の後姿を見送った。
「助けてくれて、ありがとう」
サーヤが言うと、セリアリスは両手で胸を押さえて、肺の奥から緊張を吐き出すようなため息をついた。
「逃げてくれてよかった」
「え?」
「昼間のニルヴァーナはあまり強くないの。いくらシルメラのマスターが駄目でも、戦って勝てるかどうかは微妙だったわ」
「ええぇっ!? だって今、勝つことは出来ないとか言ってたよ!?」
「はったりよ」
「あはは…………」
微笑を浮かべながら臆面もなく言うセリアリスに、サーヤは引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「そんな顔しないで、わたしが通りかからなかったら、あなたたちはどうなっていたか分からなかったのよ」
セリアリスはそう言って、足元にある草花を一輪摘むと、無数にある小さな墓の一つに捧げた。
「あ、お墓に花を供えてくれていたのは、貴方だったんですね」
「わたしは全てのフェアリーを心から愛してくれる人に、敬意を表したかったの」
セリアリスは光の入らない曇った青い瞳でサーヤを見つめた。
「あなたには、必ずエリアノの加護があるわ」
サーヤはそんな事を言われると、何故だか妙に歯がゆい気分になった。
サーヤはここ最近、恐ろしい夢にうなされる日が続いていた。
サーヤは夢の中、何も見えない場所でとてつもなく恐ろしく悲しい叫び声をあげる。自分が何を言っているのかはまったく分からないが、この世の終わりを見ているような絶望が押し寄せてくる。
サーヤは夜中に目を覚ましてばっと起き上がり、激しい動悸に襲われて肩で息をした。顔を触ると、目の周りが濡れていた。
「泣いているの?」
その声でリーリアが側にいることにサーヤは気付いた。隣にいるウィンディは、何も気付かずに、すやすや寝ていた。
「リーリア?」
「酷くうなされていたから、心配になって様子を見に来たのよ」
「ごめんね、ものすごく嫌な夢を見て…………」
リーリアは眠れなくなったサーヤを居間に連れて行き、テーブルの前に座らせると姿を消した。それから少し経ってからティーポットとティーカップの乗ったお盆を持って戻ってきた。
「ロイヤルミルクティーはいかが? 体が温まるわ」
「うわぁ~、素敵!」
リーリアはティーカップに湯気の立つ乳茶色の液体を入れた。
サーヤは紅茶を一口すすると、両目を閉じて感激のあまり言った。
「あま~い、おいし~~~っ、もう天国に昇っちゃいそうなくらい幸せな気分だよ~」
「大袈裟ね」
「そんな事ないよ。本当に、こんなに美味しいものを飲んだのは生まれて初めてなんだから」
「信じられないわ」
「わたしね、うんと小さい頃にお父さんもお母さんも死んじゃって、親戚の家に貰われたんだけど、そこがものすごく貧乏でさ。ひもじいのは耐えられたんだけど、五人の子供がいる中で、わたしだけがいつもこき使われるのがすごく辛かった。最後は口減らしの為に奴隷商人に売られちゃった」
「サーヤ…………」
突然、語られた過酷な事実に、リーリアは驚きと哀れみで複雑な表情を浮かべた。
「悲しんだりしちゃ嫌だよ。今はとっても幸せなんだから。こんなに素敵な友達と、可愛い家族まで出来て、夢を見てるんじゃないかって思うときもある。でも…………」
サーヤは両手でティーカップを包み込んだまま不安げな顔で少し黙った。
「何か心配な事でもあるのかしら?」
「夢……あの夢を見ると、いつか全てが壊れてしまうような気になるの」
「どんな夢なの?」
「わたしは真っ暗な闇の中にいて、どこからか水が落ちる音が聞こえるの。手も足も動かなくて、とっても寒くてお腹も空いていて、その中でわたしは泣いているの。よく分からないんだけど、ものすごく悲しくて…………」
「夢の中の涙が、現実の涙になっていたのね」
「こんなのおかしいよね」
「所詮は夢よ。気にしない方がいいわ」
「うん、そうする。じゃあ今度は、リーリアの事聞かせて」
「ここで暮らしているのだから、だいたい分かるでしょう」
「え~~~っ、全然分からないよ~。例えば、リーリアとエクレアの出会いとかさ」
少し間が空いた。リーリアはサーヤの要望に迷いを見せていた。
「……そうね、貴方になら話してもいいわ。あの子と出会ったのは十歳の時だから、五年前ね。わたしが見つけるのがもう少し遅ければ、エクレアは解体されてしまうところだったのよ」
「か、解体!!?」
「使い物にならなくなったフェアリーのコアだけを取り出すのよ。宝石として売る事が出来るからね」
「……そしたらフェアリーはどうなっちゃうの?」
「人間で言えば心臓を抜き取られるのと同じ事、後には確実な死が待っているわ」
「その、エクレアが使い物にならないって、よく意味がわからないんだけど…………」
「エクレアは素晴らしいフェアリーでしょう?」
「うん、世界で一番綺麗なフェアリーだと思うよ」
「わたしと初めて出会った頃のエクレアは、完全に心が壊れてしまっていたわ」
「心が、壊れて?」
サーヤの脳裏に、人間達に道具として使われる瞳が空ろなワーカーの姿が浮かぶ。
「普通、心が壊れたフェアリーはマスターの命令に従うだけの忠実な僕となるのだけれど、エクレアの場合はそれすら通り越して、動く事も出来ない人形になっていた。エクレアを売ってくれた商人は、何十年も前からこんな状態だと言っていたわ」
「何十年も前からって…………」
「エクレアはミスティック・シルフシリーズの至高、全てのフェアリーの中で最も芸術的と謳われた伝説のフェアリーなのよ。だから壊れてしまった後も、ずっと高値で取引されて、人から人の手へと渡り続けた。そして夢幻戦役の伝説が忘れられようとしているこの時に、わたしの許へ来たの。わたしはエクレアをどこへでも連れて歩いたわ。周りの人はみんな馬鹿にしたし、わたしが人形のようなエクレアに話しかけるのを見たお父様は気味悪がった。そういう人たちに、わたしは言ったわ。エクレアはこの誇り高きリーリア・セインのフェアリーよ、とね。最後はみんな黙ってしまったわ」
リーリアの中に自分と同じ心を感じたサーヤは、胸を熱くしてその話を聞いていた。
「エクレアが心を取り戻したのは一年前よ。お母様が亡くなった直後、この屋敷に暗殺者が侵入してきて、わたしはもう少しのところで殺されるところだったの。それをエクレアが目覚めて助けてくれた」
「すごい、リーリアの気持ちが通じたんだ」
「心が壊れていても、声は届いているのよ。フェアリーはいつか必ずその声に応えてくれる。あなたはもう分かっているわね」
少女達は全てを理解しあい、互いに微笑を浮かべていた。