シルメラ-1
灰色のオルゴールが開き、体の割には大きな黒い翼を背中に持った黒髪のフェアリーが姿を現した。それは黒妖精のシルメラだった。
「ここはどこだ? ……そうだ、わたしはハンターに捕えられて…………」
突然、思考をかき乱す強烈な血の匂いと、何かの肉を引き裂くような嫌な音が聞こえてきた。シルメラがあたりを見ると、そこは魔女裁判の猛威が吹き荒れた頃の拷問室を縮小したような部屋で、フェアリーのサイズに合わせた小型の拷問器具が所狭しと置いてあり、壁には大小さまざまな刃物がぶら下がっていた。
シルメラの視線の先で、医者が手術をするときに使うような寝台の上で、人間の少年が一心不乱にナイフで何かを刻んでいた。
「何をしている……?」
跳ねた血で顔や服を汚しているエルシドが、明らかに狂人と分かる暗い笑みを浮かべながら、目覚めたシルメラのことを見つめた。彼の右手には血にまみれた大きな黄色の宝石が、左手にはなんだかよく分からない恐ろしく気味の悪いものをぶら下げていた。
「こいつ、役に立たなかったんだ。もういらないからコアだけ抜き取ってやった」
シルメラは目の前の少年が左手に持っているものが何か分かると、蜂蜜色の猫に似た瞳を見開いて、あまりの凄惨さに言葉を失った。
髪の毛を捕まれてぶら下がる哀れなフェアリーは、全ての翅をむしり取られ、胸から腹まで裂かれて、コアを取り出された胸部にはぽっかりと穴があいたような部分があり、内臓も引きずり出されて血の雫を止め処なく床に垂らしていた。
「お前も役に立たなければこうなるんだからな。よく覚えておけよ」
史上最悪のマスターに魅入られてしまったシルメラは、もはや絶望の海に身を沈めるしかなかった。
朝、学校に向かう途中の馬車の中で、サーヤは隣ですましているリーリアに言った。
「ずっと気になってたんだけどさ、何でセイン財団はリーリアと、リーリアのお父さんとで半分ずつになってるの?」
「お母様が亡くなる前までは一つだったわ」
「リーリアのお母さん、死んじゃってるんだ……」
「一年前に亡くなったわ。毎日のようにビジネスや財団の仕事で忙しい人だったのだけれど、ある突然にお母様は行方不明になり、それから四日後にずっと山奥の崖の下で発見されたわ」
「え……?」
「自殺という事で落ち着いたけれど、お母様には自殺をするような理由などないし、やりかけの仕事を途中で投げ出すような事は絶対にしない人だったわ。おかしいと思うでしょう?」
「うん……」
「おかしいに決まっているわ。お母様は殺されたのだもの」
サーヤは呆然と口を軽く開いてリーリアを凝視した。
「貴方だから話すのよ。心から信用している友達だから」
「うん、最後まで聞かせて」
「セイン財団はフェアリープラント社とフェアリーの在り方について激しく対立しているの。お母様は法律を改正してフェアリープラント社を押さえ込もうとしたわ。もう少しのところまでいったのだけれど、教会に妨害されて可決には至らなかった。それからすぐにお母様は失踪したのよ」
「それって、あからさまにフェアリープラント社が怪しいじゃない」
「わざと分かるようにしているのよ。次はお前達がこうなると、あの悪魔達は脅しているつもりなの。お父様は怖気づいてすぐにフェアリープラント社に擦り寄ったわ。わたしはお母様を慕っていた名士たちを連れて、お母様のセイン財団を引きついだ。利害を優先する人たちはお父様の側についたわ」
「酷いお父さんだね……」
「どうしよもなく意気地のない人よ。でも、仕方がないとも思うわ。その命を捨てる覚悟をして立ち向かえと言われて、それが出来る人間が何人いるかしら」
リーリアはあらゆるものに立ち向かう強い意志をその青い瞳に宿してもえ上がらせる。
「わたしは一歩も引かない。必ずお母様とあの方の望んでいた世界を作ってみせる」
「あの方って、廊下の肖像画の人?」
「なぜそう思うの?」
「リーリアいつもあの絵を見てため息をついているから、好きな人なのかなって思ってた」
「な、何を言っているの?」
「やっぱり、そうなんだ!」
「今のは忘れなさい」
馬車が学校の門の前で止まり、御者台にいた執事のメルファスが素早く降りて扉を開けた。
「お嬢様、いってらっしゃいませ」
「ご苦労」
馬車から降りたリーリアとサーヤはフェアリーたちを連れて並んで歩いた。
「おはよう!」
テスラを抱いたシェルリが後ろから走ってきた。リーリアとサーヤはそれぞれ朝の挨拶を交わした。
「あれ?」
「どうしたの、テスラ?」
「学校に姉妹がいるよ、感じるの」
「本当に?」
「あっちだわ」
テスラは懐かしい感じにいてもたってもいられず、シェルリの懐から飛び出した。
「あーっ、テスラ~」
「わたしも行くわ」
ウィンディとエクレアも後に続いて飛んでいく。
「あの子達、勝手に飛び出していっちゃって……」
「契約を交わしたフェアリーは必ずマスターのところに戻ってくるの。絶対に迷子にはならないのよ」
「そうなんだ、じゃあ安心だね」
シェルリの話を聞いてサーヤはほっとして言った。
黒翼のフェアリーはシルフィア・シューレで一番高い屋根の上にいた。彼女の黒衣は着物に似た半そでの上着に、スカートは腰に近いところまでスリットの入った、丈が足首まで届く長いもので、袖口や裾や縁には波打つような形のフリルが付いている。それに大きく開いた胸から覗く豊かな胸の谷間が、今の悩ましげな表情とも相まって官能的な魅力を漂わせ、黒髪の中にある可愛らしいイエローベリルの三日月のヘアピンが、彼女の存在をさらに際立たせていた。
「海を見るのは久しぶりだ」
シルメラは一人でずっと海を見ていた。マスターは学校を休んでいるので、今はシルメラだけだった。
「シル姉さまーっ!」
「ああ?」
いきなりテスラが飛んできてシルメラに抱きつく。
「うおわっ!? あぶな、落ちる!」
シルメラは足を踏み外し、翼をばたつかせて何とか屋根から落ちずには済んだ。
「テスラ!?」
「ふうぅ、シル姉さま会いたかった」
「あう~っ!」
ウィンディもテスラの真似をしてシルメラに抱きつく。
「うわっ、なんだお前は!?」
「やわらか~い」
ウィンディはシルメラの豊かな胸に顔を埋めた。
「おいおい、何をしてるんだ」
「わたしのお友達だよ」
「テスラに友達が?」
「ウィンディだよ~」
シルメラはウィンディの無邪気な姿を見て、今まで沈んでいた表情を和らげた。
「わたしはシルメラだ。よろしくなウィンディ」
「シルメラ、好き~っ」
「あは、可愛い奴だな。マスターもきっといい人なんだろうな」
シルメラはどうしようもないやるせなさに襲われて、ふっと悲しい顔をする。それを目ざとく見ていたエクレアが言う。
「何でそんなに暗い顔してるのよ」
「お前はエクレアか。夢幻戦役以来だな」
「ふん、相変わらず真っ黒で汚らしい翼ね」
「お前な……」
シルメラは一瞬むっとしたが、すぐに暗く沈んだ顔になった。
「昔はよくお前と喧嘩したな。本当に懐かしいよ」
「どうしたって言うのよ、あなたらしくないじゃない」
エクレアはシルメラが暗くなっている理由にピンと来て言った。
「もしかして、ろくでもないマスターに拾われちゃったとか?」
「……お前達に一つだけ言っておくことがある。わたしがマスターと一緒に居るときは絶対に近づくな! 絶対にだ!!」
シルメラは黒い翼を大きく開き、飛び立つ前に言った。
「フェアリーはマスターの命令に逆らう事は出来ない。わたしの言っている意味がわかるな」
「あーっ、シルメラ!」
シルメラが羽ばたいて飛び立つと、ウィンディはそれに向かって手を伸ばして寂しそうな顔をした。シルメラはこれが今生の別れとでも言うように、深い悲しみを刻んだ笑顔でウィンディを見下ろし、悲愴を背負って町の方に飛んでいった。