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うちの食堂、今日も満員です  作者: 嘉ノ海 祈


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1.今日も食堂は大騒ぎ

 朝の五時半。ラベル食堂の厨房には、もうすでに焦げた匂いが漂っていた。


 正確に言えば、焦げているわけではない。焦げる一歩手前の、ぎりぎり取り返しがつく段階の匂いだ。


 だがそれは、この食堂の長女であるルナ・ラベルにとって、ほぼ日常の光景だった。


「よし。今度こそいける」


 ルナは鍋の前で両手を握り、己を鼓舞した。琥珀色の瞳が、ぐつぐつと煮える液体を真剣に見つめている。赤みがかった茶色のくせ毛が、朝の湿気でいっそう跳ねていたが、本人は気にも留めていない。


 今朝の挑戦は、薬膳スープの新作だった。


 材料は母親のミラが仕入れた新鮮な薬草に、ルナが昨夜調合した錬金エキスを少量加えるだけ、のはずだった。「少量」という言葉の解釈が、ルナと辞書の間でやや食い違っていなければ。


「あ」


 小さな声が厨房に落ちた。


 鍋の中の液体が、みるみる色を変えていく。透明だったスープが、薄紫になり、濃い紫になり、最終的に夜空のような深い藍色に落ち着いた。


「……綺麗ではある、けど」


 ルナは腕を組み、首を傾げた。色が変わっただけで、匂いはいい。恐る恐るひと口含んでみると、味もさほど悪くない。むしろ少し甘みが増している。


 問題は、これが「強壮剤の成分を含んだスープ」になっているかどうかだった。


 確認する方法はひとつ。誰かに飲んでもらうことだ。


「ルナ、朝食の仕込みは――って、なにその色のスープは」


 厨房の入り口に、白いエプロンを手にしたミラが立っていた。五十歳には見えない落ち着いた美貌に、微妙な表情が浮かんでいる。


「お母さん!ちょうどよかった、これ飲んでみて」

「飲まないわよ」

「即答!?」

「あなたが『ちょうどよかった』と言うときは、大抵ろくなことがない」


 ミラはエプロンを着けながら、鍋の中を覗き込んだ。ひと口分だけお玉で掬い、匂いを嗅ぎ、舌先でほんの少しだけ舐める。しばらく考えて、ため息をついた。


「味はいい。でも強壮エキスが二十倍入ってる」

「に、二十倍……」

「お客様に出したら、食堂の中を走り回られるわね」


 その予言は、午前十一時に的中した。


 事の発端は、ルナが「捨てるくらいなら試してみよう」と思ったことだった。


 念のため言っておくと、これは悪意ではない。純粋な探求心である。その探求の犠牲になったのは、開店直後に暖簾をくぐってきた常連客の冒険者、ガルドだった。


「今日のスープ、色が違うな」


 出されたスープを、そう言って訝しげに見るガルド。ルナは自信満々に答えた。


「新作です!」


 ガルドはスプーンを手に取ると、スープをすくい恐る恐る一口飲んだ。


「うまいな」


 どうやら気に入ったらしい。そのまま二口、半分と飲む手を止めず、最後の一滴まで飲み切った。


 それから十秒後、突然ガルドは椅子から立ち上がると、食堂の中を走り始めた。


「元気が!体中から!あふれてくる!じっとしていられない……!」

「わー!ガルドさんごめんなさい!!」


 食堂の中をぐるぐると走り回るガルドを止めようと、ルナが必死に追いかける。


 他の客たちは驚いたように椅子を引くと、壁際に張り付いた。


 ミラが「ルナ、仕切りの棚に当たらないようにしなさい」と至って冷静に言う。オルドスが厨房の入り口に腕を組んで立ち、嵐が過ぎるのを待つ木のような顔をしていた。


 ガルドは十五分後、「……なんか急に疲れた」と言って席に戻り、グダっとテーブルに伏せった。


「……でも、うまかったな。また飲みたい」

「飲ませません」


 ルナはガルドに「ごめんなさい」と頭を下げた。ガルドは「まあいい」と笑ってそれを許す。他の客たちも「ルナらしいしでかしだ」と笑った。オルドスだけが笑わずに「ルナ」と低い声で言ったが、それはまた夜の話だ。



 ラベル食堂から徒歩十分の場所にある魔法学校は、午前八時が登校時刻だった。


 レン・ラベルが学校の門をくぐったのは、午前八時五十三分である。


「遅刻ですよ、ラベル」


 門番の老魔法使いが、砂時計を指さして言った。レンは立ち止まり、申し訳なさそうな顔を瞬時に作り上げた。十四年間の鍛錬が生んだ、傑作の表情だ。


「実は今朝、家の近くで倒れているお婆さんを見かけまして」

「ほう」

「無視するわけにもいかず、家まで送り届けたら、お礼にお茶を出してくださって」

「なるほど」

「断るのも失礼かと思いまして。気づいたらこんな時間に」

「……優しい子ですね」

「いえ、当然のことをしただけです」


 レンは深々と頭を下げて、颯爽と校内へ向かった。背中には遠足で買ったおやつが三種類、鞄の中には白紙の課題用紙が一枚入っている。倒れているお婆さんなど、存在しない。


 一時間目が終わった休み時間、レンは校舎裏の木陰でおやつを広げていた。


 隣には親友のコルトが座っている。コルトは真面目な顔で「課題やったの?」と聞いた。


「もちろん」

「見せて」

「ここでは無理だ」

「なんで」

「……風で飛ぶから」

「無風だよ今日」


 コルトは正面からじっとレンを見た。レンは砂糖菓子を口に放り込んで、視線を空に逃がした。


「やってないんでしょ」

「……やる時間がなかった」

「昨日の放課後、なにしてたの」

「食堂の手伝い」

「それは本当なの?」

「……三十分は」


 コルトがため息をついた。レンは「二時間目が始まる前に写させてくれ」と言った。コルトは「自分でやれ」とそれを断る。諦めきれないレンは「昼飯は俺が出す」と条件を付けくわえた。コルトは三秒悩んで「一問だけ教える」と言った。


 これをレン的には交渉成立と呼ぶ。


 問題は、放課後だった。


 担任のグロス先生に「ラベル、残りなさい」と呼び止められたのは、下校の鐘が鳴った直後だ。


「課題が白紙でしたよ」

「一問は書きました」

「一問だけ書いて残りが全部空白、という状態を白紙と呼びます」


 レンは反論できなかった。


「今この場で全問解きなさい。終わったら帰っていいです」


 グロス先生は教卓に座り、採点を始めた。レンに逃げ場はなかった。 


 レンは課題用紙に向き合い、しばらく考え、ペンを走らせる。計算式は頭の中でなぜかすらすら解けた。魔法理論の問いも、問題を読んだ瞬間に答えが浮かぶ。やる気がないのか、やる気を出したくないのかは、本人にもよくわからない。


 三十分後、全問を書き終えて先生に提出した。


 グロス先生は黙って採点し、しばらくしてからレンを見た。


「……全問正解です」

「それはよかった」

「なぜ提出しないのですか」


 呆れたようにため息をつくグロス先生に、レンは何も答えなかった。グロス先生もそれ以上聞かず課題用紙をまとめるとレン差し出す。「明日からはちゃんとやりなさい」とだけ言って、家へ帰るよう促した。


 結局、レンが食堂に帰ったのは、夜の七時になっていた。



 ガウス・ラベルの一日は、いつも「板挟み」という言葉で要約できる。 


 今日は特にひどかった。


 朝、義父のオルドスから「今夜、久しぶりに飯を食いながら話がある」と言われた。ガウスは「もちろんです」と答えた。義父からの誘いを断れる人間は、この世にあまり多くない。


 その30分後、朝の警備の引き継ぎで、上司のダリウス隊長から「今夜、うちで食事でもどうだ」と誘われた。ガウスは「ありがとうございます」と答えた。お世話になっている上司からの呼び出しを断れる人間は、この世にほぼ存在しない。少なくともガウスは無理だ。


 問題は、二つが同じ夜だということだった。


 ガウスは警備の合間に頭を抱えた。どちらかを断るにしても、理由が必要だ。上司には「義父が」と言える。だが義父には――「上司が」と言えるか?


 オルドスの、あの目を見て。


「悩んでるのか」


 昼の休憩時、同僚のトムが隣に座って言った。 


「少し」

「ラベル食堂の親父さんって、怖い顔してるよな」

「……心を読むな」

「誰でもわかる。お前が悩むときは大抵、隊長か義父か、どっちかだ」


 トムは干し肉を噛みながら「で、今回は両方か」と言った。ガウスは肯定も否定もしなかった。肯定と同義だが。


「どっちが怖い」

「……同程度に怖い」

「役に立たない答えだ」


 結局ガウスは、夕方に隊長室を訪ね、正直に話した。「義父から夕食の約束をしていました、大変申し訳ありません」と。ダリウス隊長は笑い、「かまわん。義父を優先しろ。婿として必要なことだろう」と言った。人格者だった。


 その日、ガウスは安堵して食堂に帰り、オルドスに「それで、話って何でしょうか」と声をかけた。


「あ?俺はそんなこと言ったか?」

「……え」


 予想外の答えに戸惑いながらも、ガウスはオルドスに今朝の話を説明した。すると、オルドスは「ああ」と思い出したような反応をしめす。


「それなら、昼に解決した。話は不要だ。夜の飯は普通に食えばいい」


 ガウスは三秒固まった。 


「隊長の誘いを断ったのに……」

「……知らん」


 これが今日のガウスの一日だった。



 夜七時。ラベル食堂が閉店し、家族だけの夕食が始まる時間だ。


 食卓には今夜もミラの料理が並んでいた。強壮スープではなく、普通のシチューだ。パンが籠に盛られ、焼いた野菜が皿に並んでいる。どれも文句のつけようがない。


 レンが遅れて席についた。「遅い」とオルドスが言った。「先生に捕まった」とレンが説明をする。「なぜ捕まる」とオルドスが言った。レンは気まずそうに目をそらす。沈黙がひとつ挟まった。


 次女のティアが最近拾ってきた雛鳥に小さなパンを分けようとして、ルナに「食卓に動物を連れてくるな」と怒る。それを見ていたルナの息子であるポポは、「ぽぽもあげたいの」と言ってティアの横に移動した。


 オルドスが「ポポも席に戻れ」と注意をする。ポポは「なんで?」と聞いた。その純粋な瞳を見て、オルドスは黙り込んだ。

 


「今日、隊長の誘いを断ったんだ」


ガウスがぽつりと、隣に座っていたルナにこぼした。「え、どうして」とルナは首をかしげる。


「義父さんに夜話があると言われてたから断った。……でも結局、話はなくなったみたい」

「……そうなんだ。ごめんね、父さんが」

「いや、大丈夫。よくあることだから……」


 苦笑いするガウスに、「ガウス義兄さん」とレンが話しかける。


「どうしたんだい、レン」

「いつまで塩、かけてるの」

「え……あっ!」


 ステーキへの味付けに塩の瓶を手に取り、塩をふりかけていたガウス。ルナに話しかけながらずっと瓶を振っていたために、肉のうえに小さな塩の山ができていた。


「しょっぱ……」


 塩の塊を横にどけて、肉をナイフで切り分け、フォークで口にいれたガウス。あまりのしょっぱさに、しわしわっと顔をしかめた。

 

 それを見た一同が、おかしそうに肩を震わせる。テーブルが一気に笑いに包まれた。


 その様子にガウスも苦笑いを浮かべる。オルドスだけが笑わなかったが、自分のステーキを半分に切り分け、ガウスの皿に追加した。


「レン、明日はちゃんと課題をやっていきなさいね」

「え、知ってたの?」

「当り前よ」

「……いつから?」

「朝から」


 「なんで」と言いかけて、レンはやめた。聞いても「あなたがわかりやすいから」と言われるのが目に見えている。


 その後、食卓は笑い声と食器の音でにぎやかだった。


 ポポが「きょうもたのしかったの?」とオルドスに聞いた。オルドスは少し間を置いて「……まあな」と言う。ポポは「そうなの」とうれしそうに笑った。



 ラベル食堂。辺境の街道沿い、七人家族と小さな動物が住む、小さな食堂。

 街に愛されるこの食堂はいつも満員である。明日も、きっと満員だろう。

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