八、昔話
楽しんでいただければ幸いです。
《菜草御厨支部》近くで真助と別れ、うづき屋に戻った嶽一は、そのまま食堂に向かった。
朝の営業を終えた食堂は、扉が閉まっていたが鍵はかかっていなかった。
「失礼します」と言いながら嶽一は、両開きの扉を少しだけ開け、中を覗き込んだ。
片付けが済んだ食堂に人の気配はなく、朝食の残り香が微かに漂っていた。
どうしたものかと思いながら扉を閉めると、視線を感じた。振り返ると廊下に女の子が立っていた。五歳くらいだろう。髪を二つに縛り、水色のワンピースを可憐に着こなしている。その顔は、女将の弓真に瓜二つだった。
「こんにちは」
「こんにちはっ! おかみみならいの、うづきいなほです! おとまりですか?」
小首を傾げながら女の子──宇津木稲穂は、近づいてきた。
嶽一は膝を突き、稲穂と視線を合わせた。
「わたしは、岩蔵嶽一です。昨日からこちらに泊まっています」
「おきゃくさまでしたか! それはしつれいいたしました」
稲穂は勢いよく頭を下げた。嶽一はさりげなく稲穂が転んでもすぐ受け止められるよう構えていたが杞憂に終わった。
危なげなく顔を上げた稲穂は、食堂の扉と嶽一を交互に見て、
「しょくどうは、おひるはやっておりません! ちかくのおみせをごしょうかいしましょうか?」と言った。
「食事はまだ大丈夫です。料理長さんにお会いしたいのですが、どちらにいらっしゃるかわかりますか?」
「りょうりちょうさん……おじいちゃんですね! はい、わかります!」
稲穂は嶽一の左手を握りしめ、「こっちです!」と言って駆け出した。
うづき屋の一階、西側は宇津木家の住居になっており三世代七人が暮らしている。
宿屋の玄関から入って左手に住居へと続く引き戸があり、『関係者以外立ち入り禁止』の札が貼り付けられている。稲穂は、その引き戸を開き、
「ただいまーっ!」と言って、嶽一の手を握ったまま、ずんずん奥へと進んでいった。
引き戸を閉じた嶽一は、なるべく周囲を見ないよう気をつけながら稲穂の後に続いた。
廊下を進み、引き戸を開け、生活感が溢れた空間を抜けたところで稲穂は足を止めた。
嶽一が、そっと顔を上げると、目の前に扉があった。
「おじいちゃ~んっ! おきゃくさまをおつれしましたぁ!」
声をかけながら稲穂が扉を開けると、短い廊下の先に卓袱台があり、老人と老女が座っていた。二人は軽く目を見開いたが、稲穂の背後にいる嶽一を見て、事の次第を察したらしく苦笑を浮かべた。──こういったことがよくあるのだろう。
老人は手にしていた本を卓袱台に置き、立ち上がった。白髪を短く刈り込み、灰色の作務衣を着込んでいる。年相応に皺が刻まれた顔は柔和だが、体つきは、がっしりとしており武人のようにも見えた。
レース編みをしていた老女──淡い黄色の着物を纏った望未も立ち上がろうとしたが、老人が首を左右に振ったので、すぐに座り直した。
「ようこそ、お客人。食堂を任されている宇津木新と言います。彼女は、妻の望未です」
「わたしは、岩蔵嶽一です。《撰師》をしています。少し、お時間よろしいでしょうか?」
「大丈夫ですよ。食堂でもいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
嶽一は老人──宇津木新に頭を下げてから、傍らでそわそわしていた稲穂と目を合わせ、
「案内、ありがとうございました」と頭を下げた。
稲穂は、ぱっと笑顔を浮かべながら胸を張り、
「おかみみならいとして、とうぜんのことをしたまでです!」と言った。
※
稲穂と望未を住居に残し、食堂に移動すると新は「お好きな席にどうぞ」と言いながら調理場に直行した。
嶽一は調理場に近い席に座り、手際よくお茶を用意する新の動きを眺めていた。
「それで、どのようなご用件でしょうか?」
麦茶と羊羹を供してから、新は嶽一の向かいに座った。
「《菜草迷宮》に現れる〈童子〉について、知っていることを教えていただけませんか?」
嶽一が何を聞きたいのかわかっていたのか、新は穏やかな笑みを崩すことなく、麦茶を一口飲んでから応えた。
「〈童子〉のことを知って、どうなさるおつもりですか?」
声音は優しかったが、新の目は笑っていなかった。
その目を真っ直ぐ見つめ返し、嶽一は真剣な表情で、
「わたしは、恐ろしく運がいいのです」と言った。
「──……運が、いい?」
ぽかんとした表情の新に、嶽一は「はい」と力強く頷いた。
「〈童子〉の噂を聞いた時、わたしは〈童子〉に興味を持ちました。なので《菜草迷宮》に昇れば、十中八九〈童子〉と遭遇します。それくらいわたしは運がいいのです」
「……それは、〈童子〉を捜す、ということですか?」
「いいえ。捜したりはしません。しかし、わたしは〈童子〉と巡り会うはずです。恐ろしく運がいいので。その時、対応を間違えないよう、ある程度、情報を集めておきたいのです」
新は額を抑えながらうつむき、しばらく考え込んでから顔を上げた。
「……〈童子〉をどうこうしようとしているわけではないのですね?」
嶽一は首を左右に振った。
「そうとは言い切れません。もしも〈童子〉が《迷宮》から出ることを望めば、わたしは高確率で手を貸すと思います」
「……〈童子〉が《迷宮》での変わらぬ暮らしを望んだ場合はどうしますか?」
「どうもしません。そのままの暮らしが続くよう尽力します」
新は目をパチクリさせてから、「ふっ」と笑みをこぼした。同時に目に宿っていた鋭い光も抜け落ち、身体の強ばりもなくなった。
「わかりました。私が知っていることをお話ししましょう」
「ありがとうございます。書き留めてもいいですか?」
新が「どうぞ」と言うのを待って、嶽一は、頭陀袋から万年筆と手帳を取り出した。
「あっ」手帳を開くと、挟んでいた紙が数枚、机の上に散らばってしまった。
掌サイズの紙には、この季節、山中でよく見かける花が万年筆で描かれていた。色はついていないが、本物と見紛うほど細部まで丁寧に描かれている。
「……凄いですね」一枚を手に取り、新が思わず呟いた。
「ありがとうございます。毎晩、趣味と実益を兼ねて、何枚か描くようにしているんです」
嶽一は照れ笑いを浮かべながら新から紙を受け取り手帳に挟み直した。それから白紙のページを開き、「お願いします」と言って万年筆を構えた。
「〈童子〉のことは、どこまでご存じですか?」
「両親と共に殺され《迷宮》に遺棄された赤ん坊の話は聞いています」
「その被害に遭ったご夫婦は、事件が起こる数年前に越してきた人たちでした。旦那さんの方は、とても博識で、私塾のようなことをしていて、村の子供はほとんど全員、学校終わりや学校がない日に通っていました。勿論、私もです。
奥さんは、《撰師》で、ほとんど家にはいませんでしたが、たまに帰ってくると《迷宮》の話をしてくれました。とてもいいご夫婦でした」
話しながら新の目は輝き、頬は微かに紅潮していた。
その頃のことを思い返しているのだろう。
「やがて二人の間には、男の子が生まれました。しかし、それから一月と経たず、二人は殺害されました。二人の遺体は、彼らの家で発見されましたが、血の跡が家の外に続いていました。犯人の手がかりになるかもしれないと、《撰師》と警察で血の跡を追い、山裾で息絶えている怪しい男たちを見つけました。傷痕から、互いに殺し合ったのではなく奥さんに返り討ちに遭ったということがわかりました。しかし、奥さんも無傷とはいかず、致命傷を負いながらも家に帰り、息絶えたのです」
「…………」
嶽一は無心で新の話を書き記していった。しかしその目は、会ったこともない夫婦の身に起きた悲劇を思い、微かに潤んでいた。
「ただご夫婦の息子さんは、家にも男たちが見つかった場所にもいませんでした。まだ首も据わっていない赤ん坊が一人でどこかに行けるわけもなく、男たちの仲間が連れ去ったのだと誰もが思いました。しかしその時、事情を知らない兼業《撰師》の方が、《社》の近くに血のついた装飾品が落ちていると報告に来たのです。確認したところ、その装飾品は奥さんのものでした。もしやと思い、奥さんと親しかった《撰師》が《迷宮》に昇ったところ、黒い人影が赤ん坊を抱いて現れ、そのまま消えてしまったそうです。以来、《迷宮》では、赤ん坊の泣き声が聞こえるようになり、数年後には、〈童子〉が目撃されるようになりました」
新は口を閉じ、麦茶を飲んだ。
嶽一も万年筆を置き、羊羹で糖分を、麦茶で水分を補給した。
「今、お話ししたのは、私が父から聞いた話です。私がこの宿屋を継ぐことが決まった時に、話してくれました。それまでは私も、赤ん坊は殺されたと思っていました」
「──ご夫婦が殺された理由は、わかっていないのですね?」
嶽一の問いかけに、新は深々と頷いた。
「いい人たちでした。しかし、決して自分たちの過去を話そうとはしませんでした」
「襲撃者の正体がわからない以上、赤ん坊を殺させないためには、死んだことにするしかなく、その上で事実を混ぜた怪談じみた話を繰り返し聞かせることで、村の人々には、そういう話なのだと思い込ませ、赤ん坊の生死を含め、事実を追求しようとする気持ちを芽生えさせないようにした。すべては、赤ん坊を守るため……皆さん、優しいですね」
「ありがとうございます。しかし、頭のいい子は、薄々感づいています。この方法がいつまで保つか……」
自虐するような笑みが、新の口の端に浮かんだ。
「そもそも、〈童子〉が本当にあの子なのかもわかりません。以前は上層でしか目撃されませんでしたが、最近では、《社》や山の中でも〈童子〉を見たと言う人も出てきました。私たちは一体、何を守っているのか……」
「空しいですか?」
柔らかな声で嶽一が問いかけると、新は、はっとしてから、気まずそうに視線を落とした。
「そうですね……雲を掴もうとしているような、地に足がついていないような、そんな不安が、たまに押し寄せてくるのです」
「それでもあなたは、わたしが〈童子〉に害をなさないか見極めようとしました。わたしから〈童子〉を守ろうとしました。不安を覚えていても、あなたは、〈童子〉はあの子だと、信じている……そして、守りたいと思っている」
「…………」
嶽一は残りの羊羹と麦茶を平らげ、手帳と万年筆をしまってから立ち上がった。
「お話、ありがとうございました。これで《迷宮》に昇れます」
深々と一礼し、嶽一は食堂を後にした。
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