七、《鳥居》
楽しんでいただければ幸いです。
思っていたより疲れていたらしく宵のうちに眠りについた嶽一だったが、目覚めはあまりよろしくなかった。手早く身支度を整え、生あくびをしながら食堂に降りると、朝から忙しそうにしている弓真と出くわし、「おはようございます」と互いに挨拶したあと、心配そうに「もしかして、よく眠れませんでしたか?」と訊かれてしまった。
「食事も大浴場も布団も、とてもよかったです。朝までぐっすり眠れました。ただ、昨日は強行軍だったので、疲れが残ってしまったようです」
「そうでしたか。実は、昨晩、桂がお部屋の前にいたので、お休みの邪魔をしてしまったのではないかと思って心配していたんです」
弓真は「あまり無理はなさらずに」と言って仕事に戻っていった。
朝食を食べ終え、調子が戻ってきた嶽一は、一度部屋に戻り、左手に杖、右手に昨日《菜草御厨支部》で手に入れた地図を持ち通りに繰り出した。
宿屋や飲食店が建ち並ぶ通りをしばらく南下していくと、東西に延びる菜草村の目抜き通りに出た。東に行けば昨日渡った橋に辿り着くその道を嶽一は西へと進んでいった。
《菜草御厨支部》の前を通り過ぎたところで、ふと、足を止め振り返る。
「《鳥居》にご挨拶しようと思うのですが、一緒に行きませんか? 管真助さん」
「…………」
わずかな沈黙を挟み、物陰から真助が現れ、「チッ」と舌打ちをしてから大股で近づいてきた。そして「行くぞ」と言って嶽一の横を通り過ぎていった。
「待ってください」
嶽一は小走りで真助を追い、隣に並んだ。
「自己紹介がまだでしたね。わたしは岩蔵嶽一です。あなたのお名前はお弟子さんからお聞きしました。真助さんとお呼びしていいですか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます。梅吾郎さんと牛彦さんは、別行動ですか?」
「調べ物をさせている。──あんたは、〈童子〉について調べているそうだな」
「はい。何かご存じですか?」
「去年の秋頃に弟子たちと五階まで昇った時、遠くからこちらを窺っていた。弟子たちは気づいてなかったが、多分、あれがそうなんだろう。周囲の奴らの話だと四階より上でよく見かけるらしい。ただ最近は、一階で見たと言う話も聞く。オレが教えられるのはこれくらいだ」
そこで真助は口を閉じ、何ごとか考え込んでから、
「……あんた、どこに泊まってる?」と訊いてきた。
「うづき屋です」と嶽一は応えた。
「なら食堂の料理長に話を聞いてみろ。うづき屋の先代で、生まれも育ちもこの村だ。噂の元になった事件のことも知っているかもしれない」
「──っ! ありがとうございます」
嶽一が笑顔で礼を述べると、真助は居心地悪そうに顔を歪めたが、すぐに何か悟ったような諦めたような顔つきでため息を吐いた。
「? どうかしましたか?」
「網代笠を被っていないのは、昨日、あんたを見た奴らの目を眩ますためだろう? 網代笠は目立つからな。それだけ慎重なのに、昨日、あんたに絡んだオレの言うことをあっさり信じた。素直と言えば聞こえはいいが、なんも考えていないようにも見える」
「絡んだも何も、あれはわたしたちが目立っていて、あまり素行のよろしくない方々に目をつけられていたから、周囲を気にしろ、と教えてくれただけですよね?」
あっけらかんとした嶽一を睨みつけてから、真助は再びため息を吐いた。
「あんたといると、自分が粋がって大人ぶってるだけのガキのような気分になる」
「言い得て妙ですね」
「……底が知れないな。流石は《守の嶽一》と言ったところか」
真助が口にした二つ名に、嶽一は「ぅぐっ」と変な声を出した。
「なななっ! 何故、それをっ⁉」
「《守の嶽一》が行脚僧のような格好をしているって有名な話だぞ。なんだ、嫌なのか? 二つ名がつくなんて、《撰師》としては名誉だろう」
「……名誉でも、恥ずかしいものは恥ずかしいんです」
羞恥に頬を赤らめる嶽一を見て、真助は軽く目を見開いてから「ははっ!」と大声で笑い、「やっぱりあんたも人の子か」と言って嶽一の背中を景気よくバンバン叩いた。
大通りは、菜草村の西側の山裾へと続いていた。
昨日、嶽一がビルの屋上から見た、半円を描くようにぽっかりと拓けたあの場所だ。
そこだけ建物はおろか露天商もいない。しかし朝から多くの人々が行き交っている。
拓けた場所を通り過ぎ、山裾を進んでいくと、木々に囲まれた道の終わりに巨大な石が待ち構えていた。三メートルはあるだろう苔むした巨石の前には、大人がギリギリ立ったまま通れる朱色の鳥居が鎮座している。人々は、十分距離を取った上で、鳥居に向かって頭を下げたり、手を合わせたりしていた。
「見事な《鳥居》と《要石》ですね」
道の端に移動した嶽一は足を止め、《鳥居》と巨石を見つめながら感嘆した。
「この村は、遙か昔も人が住んでいたが、一度放棄された。しかし百年以上前に再び人々が集まり、一から村を作った。当時は落石がひどかったから人々は山に木を植えた。何度も何度も落石でなぎ倒されたが、それでも木を植え続けた。そんなある日、一際大きな落石の前に、《鳥居》が下賜されていたそうだ」
嶽一の隣で同じように《鳥居》を見つめながら真助は朗々と語った。
真助が語り終わるのを待って、嶽一は手を合わせ《鳥居》に深々と一礼した。
不意に、合わせた両手を少しひんやりとした柔らかいものが包み込んだ。
顔を上げると、すぐ目の前に美しい青年の顔があった。
黒い水干に黒い切り袴。口元は黒い布で覆われ、長い黒髪を何本もの三つ編みにしている。
青年は、黒い水干の袖の中に手を入れたまま、嶽一の両手を包み込んでいた。
切り袴の裾から覗く足は、人ではなく鳥のそれだった。
青年は哀しげな表情を浮かべながら空に浮いていた。
三つ編みや水干の裾が、風もないのに揺らめいている。
──…………………………………………………──
布で覆われた口が何か言葉を紡ぐ。しかし音になることはなかった。
「……何か、探しておられるのですか?」
なんの根拠もない直感だったが、青年は大きく頷き、嶽一の背後をじっと見据えた。
「おい。どうした?」
真助に声をかけられ、嶽一は、はっと目を開いた。
顔を上げ、周囲を見回すが、あの黒い水干を纏った青年の姿は見当たらなかった。しかし両手には、まだあの水干の感触が残っていた。
嶽一は真助に「大丈夫です」と応え、踵を返した。
追ってきた真助が不思議そうに、
「《社》には、入らないのか?」と言った。
「はい。まずは、うづき屋の料理長さんにお話を聞いてみようと思います」
真助に応えながら、嶽一は、一度だけ、そっと肩越しに《鳥居》を振り返った。
巨石も《鳥居》も、ただ静かにそこにあった。
※
村の中心部に戻ると、露天商も商店もすっかり準備を整え、威勢のいい声が飛び交っていた。
食べ物を取り扱っている店からは、早速いい匂いが漂いはじめている。
嶽一は「色々教えてくれたお礼に」と真助を半ば強引に甘味処に誘い、自分はみたらし団子と緑茶を、真助には餡団子と焙じ茶を頼み、軒先の長椅子に並んで座った。
「美味しいですね」
「……ここは、団子が売りだからな。洋菓子ならもう少し東にある喫茶店がうまい」
「貴重な情報、ありがとうございます」
等とたわいない話をしていると、人混みの向こうに昊を見つけた。
野菜が入った風呂敷包みを両手に提げ、隣にいる老人と何やら楽しげに会話をしている。
老人は、しっかりと梳られた白髪を軽く後ろに流した洒落た御仁で、背が高く、糊の効いたシャツに焦げ茶色のズボン、革靴を履き、紙袋を抱えている。
嶽一の視線に気付いた真助が、焙じ茶を飲んでから口を開いた。
「燦々亭の店長だな。あの店は、飯も甘味もうまいぞ。うづき屋からも近い」
「一緒にいるのは……」
「養子だ。実子はいないと聞いている」
「養子、ですか?」と嶽一は思わず聞き返してしまった。
老人と昊は、親子と言うより祖父と孫ほど年が離れている。しかし、そのキリッとした目元は、よく似ていた。なのでてっきり身内だと思ったのだ。
真助は最後の団子を頬張り、飲み込んでから頷いた。
「そう聞いている。あの家族は、十年くらい前に引っ越してきたんだ。気さくないい人たちだが、詳しい過去を知っている奴はいない」
「そうですか」と言いながら、嶽一は再び昊たちを見た。
すると昊と一瞬目が合った。しかし、すぐに逸らされてしまった。
老人と昊は、そのまま人混みに紛れてしまった。
嶽一は、残った緑茶を一気に呷った。
「どうかしたかい? 昊」
声をかけられ、昊は、慌てて養父を見上げた。
「なんでもないよ、父さん」
「……さっき、《撰師》の方がいたね」
穏やかに微笑みながら、養父は、ちらっと、先ほど通り過ぎた甘味処の方を見た。
ドキッ──としながらも、昊は、「そうだった?」とすっとぼけた。
「昊、僕たちに何か言いたいことが──」
「何もないよ」
養父の言葉を昊は遮った。そして真っ直ぐ養父を見つめながら、にっと笑顔を浮かべた。
「おれ、父さんと母さんのこと大好きだし、この村も大好きだよ」
「昊……」
「ほら、急ごう。母さんが待ってる」
「……そうだな」
前を向いた昊の顔を見下ろしながら、養父は、痛みに耐えるように唇を引き結んだ。
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