五、うづき屋
楽しんでいただければ幸いです。
置き看板に書かれた店名をしっかり確認してから、嶽一は引き戸を開けた。
「ごめんください」
「いらっしゃいませ」
受付台で冊子を見ていた女性が顔を上げ、笑みを浮かべた。
「履き物はそちらの下駄箱にお願いします。空いているところならどこでも構いません。扉を閉めたら木札を取ってくださいね。鍵になっているので、なくなさいよう注意してください」
嶽一が指示されたとおり履き物をしまい受付台に行くと、女性は冊子を閉じ、にっこりと微笑んだ。長い髪を結い上げた美しい人で、裾が足首まである黒のワンピースの上に白いエプロンをつけている。
「うづき屋にようこそ。女将の宇津木弓真と申します。ご宿泊ですか?」
「はい。大人一人、素泊まりで五泊お願いしたいのですが大丈夫ですか?」
「大人一名、素泊まりで五泊ですね。──はい、大丈夫ですよ。ただ連泊の場合、半額を先にお支払い頂くことになりますが、それでもよろしいですか?」
「では、それでお願いします」
「ありがとうございます。それでは、こちらにご記入ください」
渡された用紙に必要事項を記入していると、背後でガラガラと引き戸が開く音がした。
「ただいま、母さん」
「お帰りなさい、桂。お使い、ありがとう」
「これ、食堂の方の冷蔵庫でいいの?」
「えぇ、入れておいてくれる?」
「わかった」
「ありがとう」
ありふれた母と息子の会話に、ほのぼのとした気持ちになりながら嶽一は玄関の方を振り返った。少年と目が合う。
年の頃は十代半ば。涼やかな目をした美少年で受付の女性──宇津木弓真によく似ている。
青い着物に黒い袴。長い髪は後頭部の高い位置で括り三つ編みにしている。
嶽一は強い既視感を覚えた。誰かの姿が脳裏に浮かんだが、輪郭がはっきりする前に霧散してしまったので、誰かまではわからなかった。
少年は、ぱっと笑顔を浮かべ「いらっしゃいませ」と言ってから風呂敷包みを持って『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉の向こうに消えていった。
用紙を書き終え弓真に渡す際、嶽一はつい「ふっ」と笑みをこぼしてしまった。
用紙を受け取った弓真が不思議そうに目を瞬かせた。
「──失礼しました。わたしの身内も家族で宿屋を経営しているんです。なので、先ほどのやり取りを聞いて少し懐かしくなってしまいました」
「あら、ふふっ。そうでしたか」
営業ではない微笑を浮かべながら、弓真は用紙の内容に目を通した。
記入内容に不備はなく、嶽一が半額の料金を支払い終えたところで、玄関の方から扉が閉じる音がした。弓真が、「桂」と息子の名を呼んだ。嶽一が振り返ると、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉の前に、先ほどの少年が立っていた。
少年は母親を見ながら「何?」と言った。
「時間があるなら、こちらのお客さまをお部屋まで案内してほしいの」
「大丈夫だよ。どの部屋?」
「『え』よ。施設の説明もお願いできる?」
「わかった」
少年は小走りで受付台に近づき、母親から『え』と書かれた木札付きの鍵を受け取ると、嶽一の方に向き直り、流れるような動作でお辞儀をした。
「うづき屋にようこそ。見習いの宇津木桂がご案内します」
一連の堂に入った動きに、嶽一は感心しながら「よろしくお願いします」と言った。
受付台の横の階段を上り、二階に上がったところで前を歩いていた少年──宇津木桂が勢いよく振り返った。三つ編みが鞭のようにしなったので、嶽一は背中を少し反らして避けた。
「あの!」思ったよりも大きな声が出てしまい、桂は慌てて口を手で抑えた。
「──あの、《撰師》の岩蔵嶽一さん、ですよね?」
「はい。確かにわたしは《撰師》の岩蔵嶽一です」
ぱぁっと桂の表情が明るくなった。
その様子を見て嶽一は確信した。
「あなたが、昊さんのご友人ですね」
嶽一の指摘に、桂は「はい」と力強く頷いた。
「でも、そのことは秘密にしてください。学校でも、あまり一緒にはいなかったので、ぼくと昊が仲がいいってことは、みんな知らないんです。あと、ぼくのことは、昊と同じように名前で呼んでください」
「わかりました。では、わたしのことも名前で呼んでください」
「ありがとうございます。──さっき、買い物の途中で昊と会って、凄い《撰師》の人がこの村に来たから、ぼくの家に泊まるようお願いしたと言われたんです。あんなに興奮している昊を見たのは久しぶりだったので、本当に驚きました」
「そんなに期待されても、わたしはいつも通り、ただ《迷宮》に昇るだけですよ」
「うわぁ~それ、格好いいですね。ただ《迷宮》に昇るだけですよ──言ってみたい!」
不意に階段に一番近い部屋の引き戸が、すっと開いた。
中から出てきたのは、掃除用具入りのバケツを持った老女だった。
淡い黄色の着物の上に割烹着をつけ、長く白い髪を三つ編みにしている。
涼やかな目元は、桂にそっくり──否、桂が彼女に似たのだろう。
「ば、ばあちゃん……」
桂の顔から一瞬で血の気が引いていった。
ばあちゃんと呼ばれた老女は、桂を一瞥してからバケツを持っていない方の手で引き戸を閉め、嶽一の方に近づいてきた。そして嶽一の前で足を止め、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ。宇津木望未と申します。孫の桂が何か粗相をしていませんか?」
「ご丁寧にありがとうございます。何も困ってはいないので、ご安心ください」
顔を上げた老女──宇津木望未は、嶽一の顔を見て、はっと目を見開いた。しかし、すぐに微笑を浮かべ、「ならば、よかったです。どうぞごゆっくり」と言って階段を降りていった。
桂がほっと胸を撫で下ろす傍らで、嶽一は、懐かしそうに望未の背中を見送った。
※
「はぁぁぁ~~~~~……」
少し熱めの湯船に肩まで浸かりながら、嶽一は思わず腑抜けた声を出した。
うづき屋には、一階に大浴場があり宿泊客は自由に入ることができる。
部屋に通され、施設の説明を受けた後、夕方まで仮眠した嶽一は、まず一階の食堂に向かった。うづき屋の食堂は、素泊まりでも宿泊客でなくとも料金さえ払えば朝夕食事ができる。食事付きにすると食券がもらえ、一枚につき一食、好きな定食を選べるという仕組みなのだと、桂が教えてくれた。
夕食には、少し早い時刻だったが食堂はそこそこ混み合っていた。
嶽一は隅の席を確保し、おにぎり、玉子焼き、豚汁の軽食セットを頼んだ。
食堂にいる客は、宿泊客よりも近所の人が多く、ほぼほぼ隠居状態の人々が集い、たわいない話をしながら情報を交換したり共有したりしていた。
楽しげな雰囲気をお裾分けしてもらい、軽く腹を満たした嶽一は、そのまま大浴場に移動し、早朝からの移動でなんだかんだ疲れ切っていた身体を癒やすことにした。
食堂と違い、大浴場の方は閑散としていた。
因みにうづき屋では、大浴場の方も、料金さえ払えば宿泊客以外も利用できる。
素早く身体を洗い、汗を流した嶽一は、いそいそと湯船に浸かった。
早朝まで温泉街にいたものの、ゆっくり湯船に浸かる機会は得られなかったので、嶽一は、温かい湯船に時間を気にせず入れるという幸福に、しばし浸っていた。
じわじわと身体が温まってきた頃、青年が二人、湯船に入ってきた。
「仕事終わりのひとっ風呂は最高だなぁ~っと。──あっ、失礼します!」
嶽一に気付いたほっそりとした青年がぺこぺこと頭を下げた。その隣で、丸々とした青年が会釈する。
「わたしも客の一人に過ぎないので、お気になさらず」
「──あれ? お兄さん、もしかして支部の食堂で美人さんと乳繰り合ってた人ですか?」
透かさず丸々とした青年がほっそりとした青年の頭に手刀を入れた。
「いてっ!」
「言葉を選べ。いつも兄貴にも言われてるだろう」
丸々とした青年は、渋く深みのある声でほっそりとした青年を叱ってから嶽一の方に顔を向け、しっかりと頭を下げた。
「後輩が失礼しました」
「あなたが謝ることではありません。そうですよね?」
嶽一が丸々とした青年から、ほっそりとした青年に視線を移すと、ほっそりとした青年は、はっとして、「す、すみません。これから気をつけます!」と言って頭を下げた。
「これから気をつけてくれるのなら何よりです」
嶽一は、うんうんと頷いた。
「自分は梅吾郎と言います。こいつは後輩の」
「牛彦です!」
「ご丁寧にありがとうございます。わたしは、岩蔵嶽一です。兄貴というのは、あの猟銃を背負っていた《撰師》の方ですか?」
「はい。管真助さんです。自分たちはあの人に《撰師》のいろはを教わっています」
「兄貴は凄いんですよ! まだ三十歳なのに支部長からも一目置かれているんです!」
身を乗り出し鼻息を荒くする牛彦の頭に、梅吾郎は「落ち着け」と、再び手刀を入れた。
「お二人は、《菜草御厨支部》所属の《撰師》ということでよろしいですか?」
「はい。自分と牛彦と兄貴は、出身も育ちもこの村です」
「ならば《迷宮》に現れる〈童子〉について何か知りませんか? 恥ずかしながら、勝手にどんどん情報が入ってくると思っていたのですが、誰も話題にしないので少し困っていたんです」
〈童子〉という単語を聞いた途端、梅吾郎と牛彦は、気まずそうに顔を見合わせた。
おや、と思っていると、梅吾郎が言いづらそうに口を開いた。
「確かに、《菜草迷宮》では、自分たちが生まれる前から〈童子〉が現れると言われています。しかし、この村で暮らしている人の多くは、その話を怪談の類いだと思っています。なので夏場でもない限り、自分からわざわざ話を振ってくることはないでしょう」
「怪談、ですか」
嶽一の脳裏に、胡胡の手帳に書かれていた『怪談?』の文字がよぎった。
「はい。──五十年ほど前、この村で夫婦が何者かに殺され、生まれて間もない赤ん坊がいなくなるという事件が起きたんです。同じ頃、《迷宮》で赤ん坊の泣き声を聞いたという話が出回りました。〈童子〉が目撃されるようになったのは、その数年後です。〈童子〉を見た《撰師》の中で、殺された夫婦を知っている人は、口を揃えて〈童子〉は夫婦に似ていた、と言いました。そうして、いつの頃からか、夫婦を殺した犯人が赤ん坊のことも殺して恐れ多くも《迷宮》に遺体を隠したため、自分を見つけて欲しい赤ん坊が幽霊のまま成長して《迷宮》を彷徨っている──と真しやかに囁かれるようになったんです」
梅吾郎の話は、確かに怪談じみていた。
牛彦など途中から耳を手で押さえ、湯船の中だというのにぶるぶると震えている。
嶽一は、頭の中で話を整理しながら気になったことを問いかけた。
「その話は、いつ、誰から聞いたのですか?」
「子供の頃に《撰師》の人が話してくれました。誰だったかまでは覚えていませんが、祭りか何かで、自分以外にも何人か子供がいました」
「そうですか。ありがとうございます」
「先輩! 話、終わりましたか⁉」
耳を押さえたまま牛彦が大きな声で問いかけた。壁や天井に声が反響し、浴室内に谺する。梅吾郎は顔を顰めながら牛彦の頭に手刀を食らわせた。
「いってぇ~~~っ!」
「うるさい。浴室で大きな声を出すな」
「すみませんでした」
小声で謝罪した牛彦は、頭を手で押さえながら「そういえば」と嶽一を見た。
「嶽一さんって何歳なんですか? 俺は今年二十三で、先輩は一つ上です!」
「それならわたしは、梅吾郎さんの一つ上ですね」
「「えぇっ⁉」」
牛彦だけでなく梅吾郎も目を見開き声を上げた。
「てっきりもっと年上かと……あっ! いえ、その、老けているってわけじゃなくて……」
慌てて弁明する牛彦に、嶽一は苦笑をこぼし、「大丈夫ですよ」と言った。
「そろそろ出ますね。お話、とても参考になりました。ありがとうございます」
頭を下げる梅吾郎を見て、牛彦も慌ててそれに倣った。
二対の視線を感じながら浴室を出た嶽一は、肩越しに背後をちらりと振り返り、
「勘がいいですね」と嬉しそうに呟いた。
「しかし、〈童子〉の話は、思ったより複雑そうですね。もう少し調べた方がよさそうですね」
頭の片隅で三築彦が「すぐに首を突っ込む……」と呆れたように言ってきたので、嶽一は、鼻歌を歌って誤魔化し──「ふぁ」と欠伸をした。
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