二、菜草村
楽しんでいただければ幸いです。
「この山は、庭みたいなものなんです」の言葉通り、少年の足取りに迷いはなく、すぐ山路に出ることができた。
慣れた山路に出たことで少年も調子を取り戻したらしく、顔色がよくなり、にこにこと明るい笑顔を浮かべながら菜草村についてあれこれ教えてくれた。
やがて森が途切れ、視界が開けた。「この道を真っ直ぐ進むと西側に続く橋があります。おれはもう少し山菜を採ってくるので、ここで失礼します」と言って、少年は足取り軽く山へと戻っていった。
「晴れ晴れとした子ですね」
少年の背中を見送ってから嶽一は橋に向かって歩き出した。
南側を除き、山に囲まれた菜草村は、上から見るとおにぎりのような形をしている。そして、そのおにぎりの天辺付近から流れ込む菜草川によって東西に分けられていた。
少年によると嶽一たちが出会ったのは東側の山で、《迷宮》は西側の山沿いにあり、北側の山は数年前に落石があったため立ち入り禁止になっているとのことだった。
菜草村の東側は、山沿いにぽつぽつと民家が建ち並び、平地には田畑が広がっていた。
「のどかですねぇ」
そろそろ昼時ということもあり、畦道に敷物を敷き、おにぎりなどを頬張っている人がちらほら見受けられた。中には嶽一に気付き、「旅の人、食べていくかい?」と声をかけてくれる人もいたが、丁重にお断りした。
菜草川が近づくと徐々に民家や商家が増えてきた。燃える薪や調理される食材の匂いが風に交じり、衣擦れや話し声がざわざわと耳をくすぐった。
橋を渡ると、そこはもう別世界だった。
所狭しと立ち並ぶ店からは、絶えず威勢のいい声が発せられ、様々な匂いと熱気が、空間に満ちている。誰も彼も全力で生きている──だからなのか、雑多だが、じっとりとした猥雑な雰囲気は感じられなかった。
「賑やかですね」
嶽一は、露天商などを軽く冷やかしながら、一際立派な二階建ての町家──《菜草御厨支部》の丸に厨の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。受付ですか? お食事ですか?」
お仕着せの作務衣に前掛けをつけ姉さん被りをした給仕の女性が笑顔で声をかけてきた。
「受付をお願いします」
嶽一は網代笠を脱ぎ、笑顔を返しながら左手の甲を女性に向け、中指につけた指輪を見せた。
女性は、指輪をじっと見てから、「あちらの扉にお入りください」と言って、入り口から向かって右手にある四方を壁に囲まれた小部屋を手で指し示した。嶽一は女性に礼を述べ、小部屋の扉の前に移動した。
「どうぞ」扉を叩く前に中から声がかかった。低い男の声だった。
「失礼します」
小部屋は、手前が土間、奥が小上がりになっており帳場格子と文机が置かれていた。
声の主と思しき男は、文机の前で胡座を搔いていた。
筋骨隆々とした厳つい顔つきの男で、短く刈られた髪は白く、顔にも皺が刻まれている。
煤竹色の着流しを緩く着崩し、口角をにぃっと上げて嶽一を出迎えた。
「《菜草御厨支部》の支部長、山口正成だ。《撰師》を歓迎する」
「ありがとうございます。わたしは《東京御厨本部》所属、岩蔵嶽一です。《迷宮》へ昇る許可をいただきに参りました」
指輪を見せ、いくつかの質問に応え、受付は終了した。
ようやく地に足が着いたような心地になり、嶽一は、ほっと息を吐いた。
「ここの二階に泊まれるが、どうする? 一階で飯も食えるぞ」
「すぐに決めないといけませんか?」
「いや、満室にはならないだろうから後でも大丈夫だぞ。万が一、部屋がなくなったらわしの家という手もある」
「最終手段として覚えておきます」
「おう、遠慮するなよ。岩蔵課長補佐とは旧知の仲だからな」
急に飛び出してきた名前に、嶽一は目を丸くした。
悪戯が成功した子供のように正成は「ははっ」と笑った。
「やっぱりな。岩蔵と聞いてピンときた。お前さん、岩倉三築彦の養子だろう?」
「はい。義父との関係を伺ってもよろしいですか?」
「はっはっはっ、そんな大層な話じゃない。わしは、この村の生まれだが、若い頃、しばらく《東京御厨本部》に所属していたんだ。岩倉課長補佐とも何度か《迷宮》に昇ったことがある。あいつには何度も助けられた。まぁ同じくらい、わしもあいつを助けたがな」
「そうでしたか」
「あぁ。……ところで、肇さんのことは、聞いているか?」
何気ない風を装っていたが、正成の声は少しだけ上擦っていた。恐らく本当に聞きたかったのは──話したかったのは、三築彦ではなく肇のことだったのだろう。
嶽一は気付かれないよう、そっと気を引き締め応えた。
「岩倉課長補佐のお兄さんですよね。《東京大神災》でお亡くなりになったと聞いています」
「そうか……肇さんには、本当に色々世話になった。しかしわしは、なんにも返すことができなかった。だから代わりというわけじゃないが、何かあれば頼ってくれ」
正成の目は、少し潤み、声は湿っていた。
チクリと罪悪感が胸を刺した。しかし嶽一はその痛みを甘んじて受け入れ、何ごともなかったかのように「ありがとうございます」と頭を下げた。
※
嶽一が小部屋を出ると、先ほど声をかけてきた姉さん被りの女性が透かさず近づいてきた。
「受付、お疲れさまです。お昼、食べていきますか?」
「お願いします」
「ありがとうございます。──お客さま、一名、入りまぁ~す!」
「「「はーいっ!」」」
女性が奥に声をかけると複数の声が返ってきた。男女入り交じっている。
嶽一は、土間にある二人用の小さな机に通された。
《御厨》の支部は、大抵食堂や宿屋を兼業している。
《菜草御厨支部》も例に漏れず、土間と、入り口から向かって左側の小上がりには、机や座卓が並べられ、《撰師》と思しき人々が食事や酒を楽しんでいる。情報の収集や交換、《撰師》同士の交流の架け橋などになっている他、怪我をして《撰師》を続けられなくなった人々の再就職先という一面も持ち合わせている、大切な場所だ。
注文を終えた嶽一が一息吐いていると、向かいの椅子に誰かが座った。
顔を上げると、大きな丸眼鏡をしたボブカットの美女が、艶然と微笑んでいた。
細身だが胸元は豊かで、首から算盤を提げている。
白いスタンドカラーシャツに青海波と鯛が金彩で施された桃色の袴。
白い革手袋を嵌め、革ブーツを履き、宝船が色鮮やかに描かれた団扇を手にしている。
「お久しぶりです、嶽一さま。偶然、ですね」
「お久しぶりです、胡胡さん。お元気そうで何よりです」
寿胡胡──嶽一とは旧知の仲の行商人であり《撰師》の資格も有している。
胡胡は通りがかった給仕の女性に、「わたくしの分も、こちらに持ってきてくださいな」と言った。問いかけるような視線を投げかけてきた給仕に、嶽一は笑顔で頷き、「そのようにお願いします」と言った。給仕も笑顔で頷き、「畏まりました」と言って奥へと消えていった。
「ごめんなさい。嶽一さまにまず、お伺いを立てるべきでしたね。お会いできたのが嬉しくて、つい先走ってしまいました」
「構いませんよ。ご一緒できてわたしも嬉しいです」
「あら、お上手」
胡胡は団扇で口元を隠し、ころころと笑った。
「失礼します。きつね蕎麦おにぎりセットとカレーライスです」
給仕の青年が嶽一の前にきつね蕎麦とおにぎりを胡胡の前にカレーライスを置いた。
「ありがとうございます」
そう言って胡胡が微笑みかけると、給仕の青年は顔を真っ赤にし、「ご、ご、ごゆっくりどうぞ!」と言って奥に引っ込んでいった。途中、先輩と思しき給仕の女性に「走らない!」と注意され、早歩きになっていた。
胡胡は何ごともなかったかのように「いただきます」と手を合わせた。
嶽一も「いただきます」と言って箸を手に取った。
「それで、今回もお養父さま……いえ、岩倉課長補佐のご依頼ですか?」
スプーンでカレーライスを掬いながら胡胡は、にっこりと微笑んだ。しかしその声音は冷え冷えとしている。どういうわけか胡胡は三築彦のことを毛嫌いしているのだ。因みに、二人に面識がないことは、双方に確認済みである。
嶽一は苦笑を浮かべながら頷いた。
「奈須汐原に新たに《迷宮》が生じたので調査をしてきました。今は、帰り道で道草を食っている最中です」
「新たな《迷宮》⁉」
胡胡は目をギラギラさせながら身を乗り出した。
しかし、すぐにはっとして、席に座り直し「ごほん」と咳払いをした。
「嶽一さま、以前も申しましたが、わたくしは情報が欲しくてあなたさまに声をかけているわけではありません。純粋に、あなたさまと時間を共有したいだけなのです」
頬を上気させ唇を尖らせる胡胡の姿は、おしゃまな少女が子供扱いされて拗ねているように見え、嶽一は微笑ましく思いながら蕎麦を啜った。
「すみません、胡胡さん。今回はわたしの方に下心があるのです」
「えっ⁉ し、下心、ですか?」
スプーンを両手で握りしめ、胡胡は目を輝かせた。
「先ほど申しましたとおり、わたしは道草の真っ最中……つまり、ノープランでこの村に来ました。なので《迷宮》の情報をほとんど持っていないのです。もしよろしければ、情報交換、しませんか?」
胡胡は、目をパチクリさせ、「はぁ~~~~~」と深い深いため息を吐いた。
「まずは、ご飯を食べましょう。冷めたら作ってくださった方に申し訳ありません」
「あっ、そうですね」
「食べ終わったらお話をしましょう。お題は、この村の《迷宮》についてでどうですか?」
お揚げを食べようと口を開けていた嶽一は、目を瞬かせた。
「わたくしは嶽一さまと時間を共有できる、嶽一さまは《迷宮》の情報を得られる。これぞ、公平な取り引きです」
「ふふっ、ありがとうございます」
嶽一は笑みをこぼし、お揚げを頬張った。甘めの出汁が口内に広がった。
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