一、山中にて
楽しんでいただければ幸いです。
岩蔵嶽一は、花の盛りが過ぎたばかりの山桜の幹に背を預け微睡んでいた。
閉じた瞼越しに陽光がチラつき、呼吸をする度に若葉の香りが鼻腔に広がり、周囲の空気は暖かく、風や小動物が起こす葉擦れがさわさわと鼓膜をくすぐる──……。
──……け………こ……た…………──
不意に声のようなものが聞こえて気がして、嶽一は目を開けた。夢うつつのまま木々の向こうに視線を投げかけると、一瞬、遠くに黒い人影が見えたが、すぐに消えてしまった。
そのままぼんやりしていると、リーン……リーン……と鈴のような音が聞こえてきたので、網代笠を抱えている左腕の手首に視線を落とした。革のベルトに正方形の金属板に水晶を重ねた薄い板が取り付けられている。腕時計によく似ているが針も数字も存在しない。
嶽一が右手の指先で薄い板の表面──水晶部分に触れると、鈴のような音が止み、薄い板から淡い光が発せられた。その光の中に、スーツを纏い、眼鏡をかけ、白髪がチラホラ見受けられる髪をオールバックにした生真面目そうな男の上半身が映し出された。薄い板の大きさに合わせ人形のようなサイズ感だが口元や目尻に浮かぶ皺まで見て取れる。
《人工神器・携帯》──その通話機能を使う際、嶽一は弟が幼い頃好きだった異国の絵本を思い出す。海を漂い小人の国に迷い込んでしまう男の物語だ。読んで読んでと何度せがまれたことか──……。
懐かしい気持ちで人形サイズの男を見つめていると、指先で眼鏡の位置を調整しながら『聞こえますか?』と問われた。見た目通りの硬質な聞き取りやすい声に、嶽一は口元に笑みを浮かべたまま「はい、聞こえます」と応えた。
『では──おはようございます。《撰師》岩蔵嶽一くん』
「おはようございます。岩蔵課長補佐」
『依頼達成の報告を確認しました。ありがとうございます。お疲れさまです。汽車を予約したようですが、現在位置はどこですか? 予定では、東京駅に到着しているはずですが』
「あぁすみません。汽車には乗りませんでした」
男──岩蔵三築彦の眉間に皺が寄る。
「現在、徒歩で東京に向かっています」
三築彦は額を手で抑えながらため息を吐き「──報告を」と言った。
嶽一は自身が見聞きしたことや自身の身に起きた出来事をできるだけ簡潔に語った。
昔々──自らの行いにより滅びかけた人類を哀れに思った《神仏》は、再び人類が傲り高ぶり滅亡しないよう、礼拝と試練と恩恵の場として《迷宮》を創造された。《迷宮》には恐ろしい怪物がいる一方、有益な素材も多数存在したため、人類は、ある程度の文明を保ちつつ滅亡を免れることができた。
東の果てに存在する島国──日ノ本では、《迷宮》に昇ることを生業とする者を《撰師》と呼び、彼らを束ねる《御厨》という組織が創設された。
《御厨》の本部は京都にあり、各地に支部が設けられている。
嶽一は《東京御厨本部》所属の《撰師》で、普段は東京にある《迷宮》を巡り昇っているのだが、養父である《東京御厨本部》監察課課長補佐の三津彦に頼まれ、地方の人手が足りない《迷宮》や、不穏な噂がある《迷宮》にちょくちょく駆り出されていた。
今回も北関東の温泉地に新たな《迷宮》が生じたという情報が入り、その調査を頼まれた。
温泉地には、すでに《迷宮》と《御厨》の支部が存在したが、生じたばかりの《迷宮》は、色々不安定なため、《本部》《京都御厨本部》《東京御厨本部》いずれかの依頼を受けた《撰師》の調査が終わるまでは、立ち入ることが禁止されていた。しかし──。
『……つまり、若い《撰師》二名が、最初に《迷宮》に昇る栄誉をよそ者に渡したくない一心で立ち入り禁止のはずの《迷宮》に侵入し負傷。その影響で《神災》が起こり、それを嶽一くんが鎮め、一件落着したところ、件の《撰師》二名が弟子入りを志願。周囲もそれがいいとやたら乗り気なので宿泊施設に逃げ込み、《携帯》で依頼を達成したことを報告し、うっかり汽車で帰る予定だと町の人に話していたので、それを逆手に取り、夜が明ける前に徒歩で町を出て、現在山中で休憩中──ということですね』
三築彦の声には呆れと怒りが滲み、額の青筋がくっきりと浮かび上がっていた。
自分のことのように憤ってくれる三築彦の気持ちが嬉しくて、嶽一は指先でちょいっと三築彦の頭を撫でた。感触は伝わらないはずなのだが、三築彦は頭上を手で払いながら『やめてください』と言った。
『そんなことをしても私は誤魔化されませんよ』
「気持ちが嬉しかっただけですよ。ありがとうございます。わたしのために怒ってくれて」
『……はぁ』
何か言い返そうとして──三築彦は特大のため息を吐いた。刺々しかった雰囲気が大分和らぎ、冷静沈着な監察課課長補佐の顔に戻った。
『事情は把握しました。それで、今日中に戻れそうですか? ……いえ、今日中に戻りたいですか?』
「お許しが頂けるなら少しゆっくりしたいですね。休みたいという意味ではなく……」
『わかっています。二週間程度でいいですか?』
「十分です」
『今回の件の報告書だけは、三日以内にお願いします。特に二名の若い《撰師》と、やたらその二名を推してきた人物については、詳細を希望します』
「わかりました。新たな《迷宮》について事細かに書いてお送りします。──ところで話は変わるのですが、わたしの現在位置ってわかりますか?」
えへ──と照れ笑いを浮かべる嶽一に、三築彦は冷ややかな視線を注ぎ、『はぁ……』と大袈裟にため息を吐いた。
『またですか?』
「申し訳ない。どうも山道は鬼門のようです」
『山道だけではないでしょう。一仕事終えた緩みが方向感覚にも影響しているとしか思えません。まぁそんなこともあろうかと、あなたの《携帯》の位置は、すでに確認済み……』
言葉と共に、視線を落とし何やら操作していた三築彦の動きが止まる。
しばらく沈黙が続いた。
「岩蔵課長補佐?」
『──っ、すみません』と言ってから三築彦は嶽一の現在地を教えてくれた。
温泉地から大分南下していたが、まだ同じ藩内だった。
嶽一が現在地を《携帯》に入力すると三築彦の隣に周辺の地図が現れた。
「近くに《迷宮》がありますね。──ここは……」
『《菜草迷宮》──数十年前から〈童子〉が現れると度々報告されている《迷宮》です』
観念したように三築彦が教えてくれた。
『〈童子〉は上層部でしか目撃されていませんでしたが、今年に入ってから二階や一階で目撃したという報告を何件か受けています。それから関連があるかは不明ですが、ここ数年は、周辺の町で子供の行方不明が立て続けに起きています。留まるのならば気をつけてください』
「わかりました。気をつけます」
『……ご武運をお祈りしています』
眼鏡越しに、じっと見据えてくる三築彦に、嶽一は微笑みかけてから頭を下げた。
通話が終わり、光が霧散するのを待って嶽一は立ち上がった。
「やれやれ、また心配をかけてしまいましたね。申し訳ない」
嶽一は、下がり眉に三白眼の二十代半ばの青年──なのだが、年相応の燃え盛る炎のような気迫は持ち合わせておらず、樹木のような穏やかな雰囲気を常に纏っていた。
出で立ちは、雲水とも称される行脚僧に倣って、直綴に切り袴、脚絆に草鞋。首からは頭陀袋を提げ、風呂敷で包んだ行李を背負い、肩にかかる髪を一つに束ね、網代笠を被り、仕上げに幹に立てかけておいた杖を持つ。
「よしっ」と嶽一が気合いを入れるのと、
「わわっ」と茂みから少年が飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。
※
「ごめんなさいごめんなさい! 本当にごめんなさいっ‼」
嶽一の右腕を掴み、山中を疾走しながら少年はずっと謝罪していた。
日に焼けた小麦色の肌を持つ十代半ばくらいの少年で、しっかり一つに束ねられた癖のある髪が、動物の尻尾のように上下左右に跳ねている。
赤い腹かけに藍色の長手甲。藍色の股引に白い脚絆と足袋、草鞋。腰に巻いた革製のベルトには、大きさの異なる革製の四角い小物入れが五つ、取り付けられている。
「わたしは大丈夫なので、まずは落ち着いて……」
「ごめんなさぁーいっ!」
えぐえぐと涙を滲ませながら、少年は嶽一の言葉を遮り謝罪を繰り返した。
嶽一はため息を吐き、「まぁ仕方ないですね」と呟きながら肩越しに背後を見た。
ほんの十メートルほど後方に、それはいた。
ふしゅーふしゅーと鋭い呼気を発しながら血走った目でこちらを睨みつけてくる全長二メートルを超える巨大な獣──猪だ。毛並みといい肉付きといいまだ若い個体のようだが、体毛が半分近く白くなっている。
ざっと見たところ怪我はしていないようだった。血の臭いもしない。
「追われている理由は?」
「山菜採りをしていたら急に現れて突進してきたんです。咄嗟に避けたら木の幹に頭をぶつけて、それが気に食わなかったようでこうなってます」
返事は期待していなかったのだが、少年は幾分か落ち着きを取り戻したのか、たまに鼻を啜りながらも簡潔に応えてくれた。
「つまり逆恨みということですね」
ぼそりと呟き、嶽一はもう一度背後の追跡者を確認した。
距離は詰められていない。むしろ、猪には少し疲労の色が見て取れた。自分から吹っかけた手前、止めるに止められなくなってしまったのだろう。そう思うと少し哀れでもあった。
顔を前に戻すと少年の額にも汗が滲んでいた。しかし極度の緊張のためか顔色は青白い。
嶽一は両足に力を込め、一気に少年の横を駆け抜け、すぐに踵を返し、少年の行く手を遮るように立ちはだかった。
「うえっ?」何が起きたのかわからないまま少年が嶽一の胸に飛び込んでくる。
嶽一は透かさず杖の先を猪に向けた。するとそれまで興奮しきっていた猪がビクッと身体を竦ませ丁度杖の前で足を止め、ふんふんと杖の匂いを嗅ぎはじめた。逆立っていた毛が落ち着き、目つきも穏やかになる。猪は杖の先端に甘えるように鼻を擦りつけてから、嶽一と少年をちらっと見て、木々の向こうに走り去った。
「……もしかして、通りすがりの猪使いの方ですか?」
「残念ながら、ただの旅人です」
ぽかんとした顔で問いかけてくる少年に、嶽一は苦笑を浮かべながら応えた。
「ところで、菜草という村をご存じですか?」
「わかります! おれ、そこに住んでいるので。案内しましょうか?」
「ありがとうございます。お願いします」
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