第19話 フィクデーズの花畑
薄く朝の気配が混ざり合う、黎明の頃。
アルマは大きな音を立てないように、レモナゼル城の中をこそこそと移動していた。ドレスではなく動きやすい衣服を着て、小さな鞄を背負っている。
(ごめんなさい、ジュネくん、フィティ……用事が済んだら、すぐに帰ってきますので!)
心の中で謝りながら、アルマはゆっくりと階段を降りていく。
城の入り口が見えてきて、アルマが安堵の息を漏らしたときだった。
「どこへ行くんだ?」
後ろの方からそんな声が聞こえて、アルマは思わず叫び出しそうになる。
それを何とか堪えて、彼女は戦々恐々としながら振り返った。
そこに立っていたのは――美しい真紅の瞳を淡く細めている、ティルゼレアだった。
全てを見透かすような目に、アルマの心臓はばくばくと脈打つ。
(まさかのティルゼレアさんと鉢合わせですよー! ど、どうしましょう! 何とか誤魔化さなくては……!)
そう考えながら、アルマは繕うように微笑んだ。
「お、おはようございます……ティルゼレアさん、いつもこんなに早起きなんですか?」
「ああ。俺は四時間ほど眠れば足りるから」
「なるほど! わたしは九時間ほど眠らないと調子が出ないので、羨ましいですよー」
「……なら尚更、こんな朝早くに起きてどこへ行くんだ?」
表情がさらに怪訝そうになっていくティルゼレアに、アルマの全身から謎の汗が吹き出す。
「ええとですね、昨日すっごく早く寝ちゃいまして、それでこんな時間に目が覚めちゃいまして……なので、折角なら朝のお散歩なんてしちゃおうかな? みたいな感じ? ですかね?」
「何で自分のことなのに疑問系なんだ? シークレ……いや……ええと……その……ア、アルマ」
「ん、どうして急に名前呼びになったんです?」
首を傾げたアルマに、ティルゼレアは目を見張ってから、ぷいと視線を逸らす。
「べ、別に深い意味はない! 決して昨日君のことについて色々考えたりはしていないし、歩み寄ってみるべきだという結論を出してもいない! ただ単純に、『シークレフィア』より『アルマ』で呼んだ方が短くて楽というだけだから!」
「なるほど、そうなんですか……」
物事を額面通りに受け取る癖があるアルマは、ティルゼレアの言葉に少し肩を落とす。
けれどそれから、嬉しそうに微笑んだ。
「理由が何であれ、名前で呼んでいただけるのは、とっても嬉しいです。ありがとうございます、ティルゼレアさん!」
その無邪気な笑顔に、ティルゼレアは驚いたような顔をしてから、ふっと表情を緩める。
それはとても穏やかな微笑みで、見ているだけで温かさが伝わってくるようで。
アルマは、目を見張った。
(ああ……この人は、こんな顔をしたりもするんですね。すっごく素敵だなあ…………ん、すっごく素敵?)
自分の素直な感想に気付き、アルマは途端に顔を赤らめる。
ティルゼレアを見続けることが恥ずかしくなって、ばっと彼に背を向けた。
「そ、そのっ……それではわたし、お散歩に行ってきますので! ではではー!」
彼の返答を聞くことなく、アルマは駆ける。
自分の頬に手を触れると、そこには隠しきれないほどの熱が宿っていた。
(ううう、どうしちゃったんですか、わたし……! 何だかすごく、らしくないですよー!)
気付けばアルマは、城を抜けていて。
広がる空を見渡せば、数多の雲の向こうにほのかな朝の光が隠れている気がした。
◇
今にも雨が降り出しそうな曇天が、どこまでも広がっている。
「ふうう……はああ……」
深い呼吸を繰り返しながら、アルマは自然豊かな道を急いで進んでいた。
レモナゼル城の近くの道は舗装されていたが、遠ざかるにつれて人の手が加えられていない有り様となっている。羽に綺麗な模様を浮かべた蝶々が、楽しげにアルマの周りを舞っていた。
「早歩きですし、そろそろ着くと思うんですけれど……」
不安そうな表情を浮かべながら、アルマはそうひとりごちる。
ふと、緑色に包まれた視界の奥で微かな白色が煌めいた気がした。アルマは目を見開いて、やや速度の落ちていた歩調を速める。
白の色彩が確かな像を結んで、アルマの目に飛び込んでくる。アルマはみるみるうちに目を輝かせて、だっと走り出した。
そうして彼女が辿り着いたのは、紛うことなくフィクデーズの花畑だった。
一面に咲き溢れるバルシエンユの花々は、ふうわりと甘い香気を漂わせながら、雪を欺く花弁をほのかな風に揺らされている。永遠を思わせるほどに広がり続ける絶景に、アルマは心を奪われ、動作をすることすら少しの間忘れていた。
「…………綺麗」
アルマの口から、そんな言葉が零れ落ちる。それを喜んでいるかのように、バルシエンユの花々が一際強く揺れた。無意識のうちに、アルマは微笑んでいた。
ようやく足を動かしたアルマは、視線をそっと彷徨わせたあとで、背の高い一つの花を目に留めた。合わさった花びらは寄り添う家族のようで、アルマはひとり頷く。屈んで、根や茎を傷付けることのないように、その花を丁寧に摘み取った。
「これでよし、です」
アルマは微笑う。
早く帰ろうと、腰を上げた。踵を返そうとして、ふと、歪な音が耳に届く。
それは子どもの泣き声を何重にもしたような、狂おしい咆哮だった。
アルマの額に一筋、汗が流れ落ちる。
――振り向いた彼女が目にしたのは、遠くから自分目掛けて飛んでくる怪鳥たちの姿だった。




