女剣客・麻津乃
登場人物
・松平麻津乃・・・旗本(幕府直属の家臣(上級))の娘、剣客
・早瀬小太郎・・・御家人(幕府直属の家臣(下級))の息子、ひ弱な少年
・銀五郎・・・町奴(町人の不良)
・唐・・・町奴
・近川布由・・・御家人の娘、小太郎の許嫁
・近川景末・・・御家人、布由の父
・火山十兵衛・・・旗本奴(旗本、御家人の不良)
・酉蔵・・・町奴
・甲州屋・・・大商人
江戸の春。
とある寺の門前町である。
「おい、町人。銀五郎とか言ったな!」
侍が、叫んだ。
「『赤鞘組』の筆頭たる、この火山十兵衛さまに、ぶつかっておいて、謝らん、とは、いい度胸だ」
なるほど、この侍、派手な衣装に赤い鞘の両刀を差している。
「居たのか。気が付かなかったぜ!」
怒鳴り返す若い町人。
桜の花弁をあしらった模様の小袖……こちらも非常に派手な格好である。
「その桜吹雪もろとも、叩き斬ってくれる!」
「やる気か? 悪名高ぇ『赤鞘組』も、今日で、お仕舞ぇだな」
旗本奴の十兵衛は刀、町奴(町人の傾奇者)の銀五郎は長脇差を抜き放った。
*
斬り合いが始まって暫くすると、十兵衛の仲間の旗本たちが、刀を抜いて集まって来る。
「多勢に無勢か」
銀五郎が、
「悔しいが、ここは逃げの一手かな」
呟いた時、
「銀ちゃん。逃げる事なんかないよ!」
若い女の声が、響いた。
「喧嘩小町の、お唐さんが、銀ちゃんの背中、守ってやるよ」
斬り合いに割り込んだ娘が脇差を抜くと、
「余計な事しやがって。助刀なんて要らなかったのによ!」
憎まれ口とは裏腹に、銀五郎の顔は嬉しそうだ。
「筆頭。こちらも、女剣客を呼ぶか?」
旗本奴の一人が訊くと、
「おお。呼んで来い」
十兵衛は、ニヤリと笑った。
*
伝令役の旗本奴は、武家屋敷の建ち並ぶ山の手に走り、 旗本・松平伊豆介の屋敷の門を叩いた。
「麻津乃どのは、おられるか?」
「何だ?」
二十歳くらいと思われる、凛々しい美女が、顔を出す。
小袖に袴の男装で、刀を差しているのだから、普通の女ではないのだろう。
しかし、傾いた様子はなかった。
要するに、『剣客』なのである。
「『赤鞘組』に入る気は毛頭無い、と言った筈だが」
松平麻津乃は、にべもない答えを返したが、伝令も必死で、
「今回は、『赤鞘組』だけの問題では無い。武士と町人の戦だ!」
と、まくしたてるので、女剣客も、
「案内しろ!」
と、屋敷を飛び出した。
*
再び、斬り合いの現場である。
「喧嘩だ。喧嘩だ」
「町奴と旗本奴の斬り合いだぁ」
野次馬が、集まっていた。
物見高い江戸っ子たちである。
「あれは、桜吹雪の銀五郎と、喧嘩小町のお唐だ!」
ただでさえ、江戸っ子の大多数を占めるのが、町人である上に、
「町奴は二人なのに、旗本は大勢いるじゃねえか」
と、人数の少ない、銀五郎たちは、人気者になっていた。
そこに、
「何だ」
先程の旗本奴に連れられて、男装の女剣客、松平麻津乃が、駆け付ける。
「これの、どこが、武士と町人の戦だ?」
麻津乃が呆れるのも、無理はない。
「二人対五人の、合計七人ではないか」
その時、
「おお。麻津乃どの」
『赤鞘組』筆頭・火山十兵衛が、感無量の声を掛けた。
「有り難い。わしの危機に、駆け付けてくれたのだな」
しかし、
「馬鹿を言え。おぬしの様な乱暴者は、旗本の恥だから、町奴に斬られて死んだ方がよい」
「そ、そんな……。わしは、そなたを、こんなにも慕っているのに……」
絶望の声を発する、十兵衛。
そこに、
「おい。十兵衛。振られたな」
刃を交えている、銀五郎が、嬉し気に、
「とても、やり合ってる気分じゃねぇだろう。今日のところは、引き分け、って事にしてやってもいいぜ」
講和を持ち掛ける。
「悔しいが……」
と、十兵衛。
「者ども。引き上げだ!」
『赤鞘組』の仲間を連れて、去って行った。
*
「松平麻津乃と申す」
旗本奴たちが去ると、麻津乃は、銀五郎と唐に名乗った。
「旗本の娘だが、『赤鞘組』の連中とは一線を画す。おぬしたちとも、仲良くしたい」
麻津乃の挨拶に、
「俺は、銀五郎。人呼んで『桜吹雪の銀ちゃん』だ」
「あたしは、唐。町じゃあ、『喧嘩小町のお唐』で通ってるけどね」
銀五郎と唐が、名乗る。
そして、
「麻津乃さん。茶店にでも寄ってかねえか?」
銀五郎が、誘った。
「よいな。お茶にお菓子は、大好きだ」
乗る、麻津乃。
「行こう。行こう」
唐が言って、三人は茶屋の店先に座った。
*
「美味かったな」
三人が、町を歩いていると、
「おい。小僧」
数人の町奴が、十五歳くらいの武家の少年に、絡んでいた。
どうやら、銀五郎たちとは違う、性質の悪い連中らしい。
「衆道(少年愛)に凝ってる旦那がいるんだ。小遣い弾むから、一晩、相手しな」
「わたしは……、陰間(売春する少年)ではありませんので……」
消え入りそうな声の少年。
そこへ、
「おい」
介入する、麻津乃。
「侍が嫌いだからと言って、何も、この様な子供にまで絡む事は無かろう」
「てめぇ、酉蔵だな」
銀五郎も、凄む。
「餓鬼相手に、子分まで連れて、たかりやがって。町奴の風下にも置けねえな」
「何だと」
少年にたかっていた町奴の頭らしいのが、
「銀五郎。町奴のくせに、侍の味方なんかしやがって」
しかし、
「侍だろうと町人だろうと、悪いものは悪いんだよ。さっさと消えねぇと、叩っ斬るぞ!」
長脇差を抜く、銀五郎。
「畜生。覚えてろよ」
酉蔵たちは、捨て台詞を吐いて、逃げて行った。
*
「一昨日、来な!」
と、唐。
「ざまぁ、ねぇぜ」
と、銀五郎。
「誠に」
と、麻津乃。
三人が、逃げていく酉蔵たちの背中に、それぞれ、浴びせた時である。
一人の娘が、人混みから飛び出して来た。
唐と同い年くらいだから、麻津乃より幾つか若そうである。
「この者の危うい所をお助け頂き、誠にかたじけのうございます」
娘は、礼を言い、
「あ、わたくしは、御家人・近川景末の娘で、布由と申します」
と、名乗る。
それを聞き、
「自己紹介より……」
怒る、唐。
「あんた、この子の姉さんだろ。弟が絡まれてるのに、助けも呼ばなかったのかい?」
すると、布由という娘が、
「この者は、弟ではありません」
答える。
「不本意ながら、許婚です」
「えッ」
唐は、驚き、
「姉さんじゃなかったのか」
顔を真っ赤にした。
「不本意ながら、と言うのは?」
麻津乃が、訊くと、
「こんな、ひ弱な年下のお子さまと縁組など……」
答える、布由。
「いくら家格が合っているとは言え、父上も、あんまりです」
「そうか……」
と、麻津乃。
「わたくしは、そちらの町奴の方の様な逞しい殿方が、好みです」
布由が、述べると、
「照れるじゃねぇか」
真っ赤になる、銀五郎。
「銀ちゃん!」
唐が、片足を踏んだので、
「痛ぇッ!」
銀五郎は、跳び上がった。
*
「銀五郎。お唐さん。おぬし達とは、また会いたいな」
麻津乃は、言った。
「わたしは、大抵、駿河台の松平伊豆介の屋敷にいる。いつでも訪ねて来るとよい」
「俺ん家は、深川で『桜吹雪の銀五郎』って訊きゃあ、すぐに分かるよ」
と、銀五郎。
そして、麻津乃が、
「お二人さん。家まで、送ってしんぜよう」
布由たちに、申し出ると、
「はい。有難うございます」
少年は素直に答えたが、布由は少年を見下す様に、
「小太郎さまより、頼りになりそうですね」
それを聞いた、麻津乃の顔色が、変わる。
「おぬし、小太郎と言うのか……?」
「はい」
少年は、答え、
「御家人・早瀬久馬の一子・小太郎です」
と、自己紹介。
「そうか……」
呟く、麻津乃。
「まずは、布由どのをお送りしよう。その後で、おぬしと少し話したい」
「は、はい……」
小太郎少年が、おずおず返事した。
*
「小太郎」
布由を近川家まで送り届け、小太郎と歩く麻津乃。
「布由どのの事は、好きか?」
「どうでしょう」
小太郎は、
「あまり、考えた事は、ありませんね。親同士が決めた許婚、ですから。お綺麗な方だとは思いますが」
「そうか」
「でも、麻津乃さまの方が、もっと、お綺麗です」
「そうかな」
顔を赤らめる、麻津乃。
「しかし、おぬし。布由どのと夫婦になれば、尻に敷かれるのが、眼に見えているぞ」
「でしょうね」
と、小太郎。
「麻津乃さまの様な、お強い女の方は、わたしの様な弱い男を、さぞや軽蔑なさってますでしょうね」
「そうでもない」
答える麻津乃の顔は、笑っていたが、どこか悲しげであった。
「わたしの様な強い女がいるのだ。おぬしの様な弱い男がいても良い。その事に、もっと早く、気付いておれば……」
麻津乃は、既に、笑っていなかった。
「わたしには、おぬしと同じ名の小太郎と言う弟が、いた」
「いた、とおっしゃるのは」
と、小太郎。
「今は、おられないのですか?」
「そう。今は、おらぬ」
麻津乃、答える。
「死んだのだ」
「済みません。悪い事を訊いてしまい……」
しどろもどろになる、小太郎。
麻津乃は、それには構わず、話を続けた。
「弟は、生まれつき、体が弱かった。その病弱な弟を、強い侍に育てようと、わたしは、厳しく鍛えた。弟には、それが重荷になったのだ。ある日、首を括った」
「そんな……」
「書置きが、残されていた」
「それには、何と?」
「『申し訳ございませんが、姉上のご期待には、応えられそうにありません』とあった……」
涙声になっていた。
小太郎は、もう何も言えない。
そんな小太郎に、麻津乃は、言った。
「おぬしは、弱くて良い。わたしが、守る」
*
その夜。
さる大店である。
「親分」
店の主人と思われる中年男が、町奴の酉蔵に、話し掛けていた。
「いい若衆(少年)は、居なかったのかい?」
「いえ」
と、酉蔵。
「居たには居たんですがね。甲州屋の旦那」
「なぜ、連れて来なかったんだね?」
「それが、桜吹雪の銀五郎と変な女侍に、邪魔されちまいましてね」
酉蔵は、答えた。
「今度は、上手くやりやす」