作品で傷つけられたら・問題について
“平気で人の作品をディスる人は何を考えているのか”というエッセイで寄せていただいた感想のなかに、この話があり、ちょっと考えてみた。
私自身は、感想なんだから何でも言っていいはずでしょう? とばかりに、相手を不要に傷つけないような配慮をせずに書き込むことには否定的だ(※批判を書き込んではならない、とか、まして、誉め言葉しか認めないとか、お世辞や社交辞令を載せておけなどという意味ではない。というか私もそんな感想は書かない。相手を傷つけうることは配慮は必要だ言葉を選ぶのが妥当ではないか、というだけの話である。)
私自身はあくまでも、言いたい放題、イラッときた気分のまま書き込んで本人はスカッとしている無責任な放言系の感想(および、匿名であることを都合よく利用しているその態度)を批判したつもりだった。
が、なかには、傷つけうる作品があるのは事実だ。そういう私も残酷なことをかなり書いているので傷つけたり不快にさせたりしている可能性はある(その場合、私の作品に関しては、傷つきました、読んでいて苦しくなりました、あるいはどうしてこういう表現するんですか!?などでもいいので、素直に伝えてください……。小説に関しては、読んでくれた人を傷つけることは、できるだけ、したくないのですよね。)。
ただ、――なんだろう、悪いことは悪いこととして表現するのはモラルだと思うし、あとは――特定の容姿や特徴を持つ人のことを、侮辱したり嘲笑したりするような表現をしたり、たとえば“ざまぁ”小説だからといって、性的暴力を肯定するかのような表現であったりは、不適切だと私も考えている(が、私は読んだ数は少ないはずなのに、それでもこういった小説を読んだことはある。つまり、人を不要に傷つけうる不適切な表現がされた小説がある程度存在するのも事実だということだ)。
これに関しては、こういう部分に傷つきました。これはダメだと思います、と書き込んでいいと思う。傷つけられたからと、傷つけ返そうという態度で書くのはおすすめできないが、具体的に摘示していいと思う。
表現の自由は無制限に認められるものではない。作品だろうと当然だ。と考えている。
(ただ、個別の事情で不可抗力の場合はあるかもしれませんね――)
********
以下はタイトルとほとんど無関係(完全に無関係ではありませんが)の雑記です。個人の感想雑感なので、興味があるかただけどうぞ。
*******
私自身は、個人的には“ざまぁ”が不得手で、“ざまぁ”がキーワードになったら(以前にはいくらか読んだこともありましたが、今は)100%読みません。それは、相手が100%悪い。悪い相手にはこれくらいのことして当然だ、許容されるはずだ――というパターンが透けて見える気がして、私はそういう世界観を受け入れがたいし、読んでしまうと“そういう単純な思考をしたがるから世の中から“血で血を洗う暴力の応酬、悲劇の連鎖”が止まらなくなるのだろう”と批判したくなってしまうのが自分でわかっているからです。
ですが、“ざまぁ”系は、わかりやすいくらい救いようもなく悪者として描かれていたり、応酬もできないくらいこてんぱんにやっつけていたり(だからこそイヤなのもありますが。そりゃあアメリカで先住民族は文明ごとほとんど滅ぼされていますから、反撃もできないし問題化しませんよね、という感じの――イヤな気分を感じてしまう。個人的には錦のみはた掲げて、やりたい放題やる、叩きのめす。それもある種の弱いものいじめに見えてくるんですよ。もしそこに非合理なこと、“冤罪”や“酌量すべき相応の事情”があったら、それって、ただのリンチ、蛮行じゃありませんか。)
世界観もシンプルであるように思います(じゃなきゃ主人公による、ただの、仁義なきリンチを描いた胸くそ悪い小説になってしまうので当然ですが)
そういうものを求める、それを面白いと感じるかたも少なくないから“ざまぁ”が人気になることもある。私がそれに一々突っ込んで水をさす必要もないはずだ……と、思うのですよね。
あ、でも、“水戸黄門”“暴れん坊将軍”“遠山の金さん”“大岡越前”“必殺仕事人(特に主人公を藤田まことさんがしている古いバージョン)”なども、広義でいえばある種の“ざまぁ”パターンなのでしょうが、――けっこう好きです(特に好きなのは、大岡越前と、必殺仕事人シリーズです。必殺仕事人は善良な人みんな悲惨な末路で暗すぎますけどね。でも、明るくないところが好きなんですよ。やはり、人を殺して裁いた先に明るい未来がって、それもそれで気持ち悪い気がするから)。
あとは、スパイダーマンとかダイハードとか――まぁ、スカッとはしますよね。私のなかにも矛盾した世界 ダブルスタンダード、二律背反 は存在しています。
あるいは、甘やかされた妹と、妹ばかり甘やかす両親に冷遇される姉――そういうパターンの小説は少なくないようです。そういったものを読んでいると、ふと、これを書いたのは上の子(あるいは一人っ子)として育った人だろう、この小説に深く共感するのは、上の子(あるいは一人っ子)として育ったタイプが多いだろうなと思ったり。
個人的にはどっちの立場もわかるんですよ。上だから強いられる我慢であったり甘えられない寂しさや、下に多い親に対する要領のよさや甘え上手なところ、ちょっとズル賢いところに傷ついてきたこともわかる。寂しくて、わかってもらえなくて。望んだわけでもないのに、“おにいちゃん”“おねえちゃん”としてあるべき振る舞いを求められ、そうしなければ叱られる。子どもらしいわがままも甘えも許されずに。その痛みや悲しみを抱えて、大人になっても古傷が痛み続けること――もちろんあるでしょう。
でもいっぽうで、下には下の苦労があり、ほんとうは傷ついてきたことだってあるんですよね。
親ですら、完璧な態度は難しい。なかには“毒親”と呼ばれてしまうような対応をとってしまうことすらある。にもかかわらず下の子にとっては、上にたつのは親ほどに理性が発達しているわけもない子どもだったりするのですね。
それは上の子が悪いとは言えない(本来は親が気を付けてみていること、フォローした方が適切な話ではある)けれども、上の子が“長子としてよかれと思って指導したつもり”のことが、下の子にとっては、結果的には“やる気”を削がれる不適切な対応であったり、何かにつけてダメ出しされている気分になる。上の子どもはよかれと思ってしている、あるいは上の子供としての義務感でやっているだけで悪気はないのですが、下の子どもにしてみると、結果的には、“マウントをとられっぱなし”のような環境になり、何かにつけて否定されているような気持ちにさせられる対応であることも少なくはないのです(これも大人がどれだけフォローするかで変わってくるとは思います)。
そして下の子どもには、上の子のようには、大人すべての愛情を独り占めできた時期は存在しないのですね。上の子にとって“愛情をとられてしまった寂しさ”は、下の子どもにしてみれば“自分にはそんなもの、はじめから存在しなかった”だったりするのです。
まだきれいだから、じゅうぶん使えるから、と。新しくないもの。時にはまったく自分の好みではない――上の子のお下がりが半分以上を占める。その事実で“自分のため”には買ってもらえないのかなぁ、自分はなんだか、上の子のおまけみたいだな――とがっかりしたり、些細なことだけど、積み重なって傷ついていることも――案外あったりするのですよね。
親の注目がより幼い側に向きやすいことで、嫉妬心が向けられることもある。敏感な子は感じとります。下の子どもなりに苦労している、ズル賢くなったのは、その経験の結果である場合もある――のですよね。
悪者みたいに描かれていると、かすかなモヤモヤを感じる面もあるのですね。これも感想に書くような話ではないなと思うので書きません。
なお、“毒親”とか“継母の継子いびり”その他も――ほんとうは、色々突っ込みたいこともあるんですけど、それ言い出したらきりがないんですよね。
“火垂るの墓”というアニメが批判されることもあります。
(まるで子供たちを引き取ったおばが、たいへんごうつくばりのひどい女のように描かれているが、彼女の目線にたったとき、本当にそうと言えるのか?)というものです。ドラマにもなっています。
現実って、世界って――ほんとうは、そういうものだろうなと私個人は思うんですよね。単純じゃない、白黒つけようもない。
その立場に目線にたつと、まったく違う世界、違うストーリーが見えてくる。あんまり考えすぎると小説自体書けなくなりそうですけどね……