9・不可解な感情
エアは自分の手柄に酔いしれるように、見つめ合うイリーネとレルトラスの周囲を旋回する。
「レルトラス様! ほら、イリーネ様に見惚れてしまう気持ちもわかりますが、仲良くなるためですから。いつもより邪悪さを控えた微笑みと、優しい言葉をかけて……」
ふとエアは、彼の口から出る単語は横暴と脅迫ばかりだと気づき、イリーネの目が覚める前に甘い言葉の一覧でも暗記させておけばよかったと後悔した。
レルトラスの手がイリーネから離れる。
抜け殻のようになっていたイリーネはよろめいて床に腰を落とすが、無表情のレルトラスは背を向けて客間を出た。
扉の閉まる音が響く。
イリーネは座り込んだまま、小刻みに震え続ける自分の手を握りしめた。
(どうしよう……動悸が収まらない)
今も足がすくむむほど緊張していたが、それは沼地の魔女に変な薬を塗られて逃げ出したときや、火竜と遭遇して炎耐性のマントを丸焦げにされたときとは、どこか違う。
イリーネが見知らぬ感情に戸惑っていると、身軽な妖精がそばに舞い降りて不満げに口を尖らせた。
「もう。こんなに綺麗な女性を前に、気の利いた一言もかけず立ち去るなんて……。わかってはいますけど、レルトラス様は本当に自分本位なのですよ。イリーネ様、気を悪くしないで下さい」
「まぁ、言葉が出てきたら恫喝だと」
イリーネは今も宿っている不可解な気持ちを胸の内に押し込めようと、そっけない態度で立ち上がる。
その視界の端で動く鏡に映った姿に気づき、レルトラスには自分が別人に見えたのかもしれないと思い当たった。
(それで興味も無くなって……飽きられた?)
ふと浮かんだ可能性に、イリーネはどきりとする。
(もしかしたら、解放されるかもしれない)
それは喜ばしいことのはずなのに、吐く息は安堵というには重苦しい。
(なんか、調子狂うな)
浮かない顔のイリーネを見て、エアは慌てた様子で訴えた。
「イリーネ様。どうかレルトラス様を悪く思わないで下さい!」
「無理だよ。会った瞬間から不快だったのに」
「や、やはりそうなのですか……。ですが、レルトラス様は先ほどフードを外して角や耳を見せていたでしょう。あれはきっと、イリーネ様に気を許しているのです」
「私は許していない」
「わかっています。レルトラス様はただ……人間関係を培う能力が、恐ろしく低いだけなのです」
「言われなくてもわかる」
「は、はい……」
しょんぼりする妖精を見つめながら、イリーネはレルトラスの頭部にはえた美しくも不吉な角を思い出す。
「あの禍々しい態度って、悪魔の気性のせい?」
「その可能性はあります。でも事情もあるのです。レルトラス様は見た通り、悪魔の混血ですので……。そのため王族の生まれにもかかわらず存在は非公式となり、王都から遠く離れた辺境の地でひっそり暮らすことを命じられているのですが、あの振る舞いですから……」