4・一緒に猛毒吸っていた
柵から飛び降りたイリーネはそのまま男の腕に受け止められる。
その瞬間、飛び散った黒い角のいくつかが二人の間に挟まり、押しつぶされた。
嫌な煙が吹き上がる。
それをもろに吸ったイリーネは、これから自分と男に起こることを理解して青ざめた。
「は、放して! このままだと一緒に死ぬことになる!」
男はその言葉を信じていないのか、上品な死神のように笑みを浮かべる。
「誰が?」
「あんたも、私も! 私はね、吸えば猛毒になるサヒーマの角を持っていたんだよ。それなのにあんたが足元にいて、無遠慮に手を引っ張ってくるから……!」
「確かに君、足元確認してなかったね」
「そうだよ私の不注意だよ、ごめん! この毒はじわじわ苦しむ種類ですぐに死ねないから、あんたは今すぐ家に帰って一番上等な解毒薬を服用するか、店に行くか、癒しの力を持った誰かを尋ねたほうがいい。じゃあ私はこれで」
イリーネは男の両腕をすり抜けようとしたが、背面がしっかりと包み込まれていて全く抜け出せない。
焦るイリーネを眺め、男は楽しそうに聞いた。
「君はサヒーマに何をしていたの」
「言ってもわからない」
「わかるよ」
「あと私急いでるからこれで」
優美に微笑み続ける男の唇から、聞き間違いかと思うほど威圧的な声が出た。
「それなら早く言ったほうがいい」
笑顔で恫喝されても納得できなかったが、これ以上この男と関わりたくもないし、なによりさっさと放してもらいたいため、イリーネは早口で告げる。
「サヒーマは環境変化に弱いんだよ。ストレスで病んだままにしておけば、角に毒素を溜めて猛毒を作って、最後は周囲を巻き込んで自滅する。だからそうなる前に角を取っていたの。わかったら私を放して!」
「そうか。確かマイフがサヒーマの世話を押し付けられていたから、これから教えてくることにするよ」
「マイフって……マイフカイル? あんた、ラザレ領主の知り合いなの?」
「そうだよ。もしその話がでたらめだったら……わかってるね」
冷酷に微笑む男の様子からは判断しにくいが、毒はしっかりと回っているらしく、顔が不健康に青白くなっていく。
成熟しきっていない遅効性とはいえ、サヒーマの毒はなかなか厄介だ。
胸の苦しさと悪寒がはじまったイリーネは、柵の内側で倒れるように横たわる幼獣の群れと、その遥か先に構えるラザレ領主の居城を見つめる。
「それなら、使えば」
イリーネはローブの中からひとつの小瓶を取り出して蓋を開け、男の唇に押し当てた。
男の口元に常に浮かんでいた笑みが消えると、人間らしい戸惑いが伝わって来て、イリーネは少しほっとする。
「毒じゃないよ。これは解毒効果もある浄蜜のしずく。口、開けて」
「君のぶんは?」
「あいにく一つしかないんだ。だけどあんな遠くの館に向かっているうちに、あんた絶対倒れるでしょ。そうなるとサヒーマを助けられなくなる。浄蜜のお礼なら館からそこそこの解毒薬持ってきてくれればいいから、早くして。時間が惜しい」
男は小瓶から滲む粘度のあるしずくを舐めるとイリーネを草地に下ろした。
浄蜜に即効性があるため、みるみるうちに血色をとり戻しつつある男の顔には不吉な微笑が浮かんでいる。
「助かったよ。君の話が嘘でも本当でもお礼をしたいから待っていて。逃げようとしても無駄だからね」
最後の言葉に重みを残すと、男の中心に風流が渦巻いた。
男のはためくローブの下から、一対の邪悪な翼が現れる。
毒で幻覚を見ているのかと、イリーネは目を疑った。
翼竜を思わせる、しかしそれよりも禍々しい悪魔の翼を広げた男は、不気味な静けさで地を飛び立つ。
男の持ち帰る解毒薬を待たず、さっさと逃げ出すつもりだったイリーネでもその迫力に心を奪われ、領主の館へ鋭く飛翔する悪魔の後ろ姿を見送った。
(そういえば、悪魔からは素材を盗ったことないかも。だけどあいつの目玉をくりぬいたりしたら呪われそうだな)
「このガキ、レルトラス様に何をした!」
イリーネがどうでもいい思案をしていると、柵を迂回してやっと来た見張りのおっさんが無遠慮に掴みかかってきた。
制服の上に趣味で重いプレートアーマーを装備して走り回ったこのおっさんは、この後イリーネを牢屋へ運んだため、数日後に筋肉痛がやってきます。