2・事の発端は
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イリーネがラザレ領にある町へ行く途中、偶然木の幹にとまっていた浄蜜虫から癒しの蜜を盗ませてもらったのが、そもそもの始まりだった。
(幸運だったなぁ)
向かう先にある町の背後で日が暮れてゆく。
イリーネは夕刻の光に向けて小瓶をかざし、透明な蜜色をして輝く中身に目を細めた。
(いくらで売れるだろう。透明度も高いし、熟した果実のような甘い香りもする。あの浄蜜虫もきれいで健康的だったし、きっとこれは極上品だな)
ほくほく顔で歩くイリーネの、砂や土に汚れた麻のローブとそのフードをかぶった姿は一見、身軽な装束を身にまとった冒険者風の少年のようだ。
しかしローブの内側をめくると、彼女の胴や腕、太もも、あらゆるところに革製のベルトが巻き付き、そこにはナイフや小物を仕舞えるポケットが所狭しと縫われていて、小瓶はそのうちの一か所に収められる。
イリーネは身分証明がなくても薬品系を中心とした素材を引き取ってくれる、少々いかがわしくも便利な店へこの浄蜜を売りに行き、ひと月なら余裕で暮らせるほどの金を手に入れる予定のならず者、しかも妙齢の娘だった。
いつの間にか町はずれまで来ていたらしく、小高い丘の上に立つ大きな領主の館が遠くに見える。
その裏手にある草地は領主の管理する土地なのか、見上げるほどの高さもある木組みの柵が張り巡らされていて、中では猫に似た幼獣の群れが飼育されていた。
(サヒーマだ!)
高価なたてがみを持つ大量の希少獣を前に、イリーネは随分道をそれて柵の前にへばりつき、目を輝かせる。
(あのちっちゃなもふもふたちを撫でるついでに、たてがみ取り放題とか……今から行く店で、たてがみも買い取ってくれるかな)
出来心が浮かび、イリーネは辺りを見回した。
見張りたちは遠い間隔を置いて気の抜けた警護をしている。
一番近くのおっさんは、柵に近づいたイリーネが幼獣を見て喜んでいる少年だと思っているのか、興味を示す様子もなかった。
おっさんは身体も鎧も重そうで、速さで追いつかれる心配はない。
イリーネは再び、柵の中に視線を移した。
(あれ……でもおかしいな。みんな具合が悪そうにうずくまっている)
サヒーマの容姿は特徴的なヒョウ柄の毛並みと、背や肢体、尾には馬のようなたてがみがなびくのが美しいと名高い。
しかし柵の中にいる幼獣はどれも、毛づやが悪く縮れている。
明らかなのは耳のそばに生え始めたばかりの、羊のように少し丸みを帯びたふたつの角だった。
サヒーマたちの発育が悪いのかそれはつまめる小石ほどの大きさしかなく、本来の白い色も濁ったような黒のしみに侵されて、今にも欠けそうなほど脆く見える。
不健康に育ったサヒーマの角は、粉にして吸い込めば猛毒だ。
人通りが少ないとはいえ、人目につく可能性のある小道の脇で猛毒を生成しているのだとしたら、ここの領主はとんでもない無知か要らない度胸の持ち主ともいえる。
(もしかして、角の毒のことは意外とみんな知らないし気づかないのかも。何しろ小さいうちはかわいい幼獣だし)
辺りを見回すと、側にある唯一の建物はイリーネの背後に立つ領主の別館のようなものだけで、毒素が放出された場合、住宅街に隣接しているより被害は少なさそうでもあった。
しかしこれ以上角が黒く成熟すれば、サヒーマ達を死に至らしめる。
そして飼われている頭数の毒素が放出され、この緑豊かな平地一帯に流れ出せば、のどかな生態系を崩すのは時間の問題だった。
なにより、サヒーマたちが先に死ぬのは間違いない。
イリーネは弾みをつけて跳躍すると、自分の背丈の倍ほどもあるその柵を足掛かりにして駆け上がった。
サヒーマは毛並みに特化したヒョウ柄の猫のような。