口づけの記憶
西都ヴァルゴから帰ってきた当日。厳密に言えば城に到着した直後。
王女の世話役アリウスの悩みは、早くもそこから始まった。
愛を告白し、ついには返事をくれなかったカイン。おそらくはフラれたのだと落ち込むなか、そんな彼との再会をいきなり果たしたのだ。
励ましてくれたカーラントとの対話時のような強がりは現実を前にしたとたん実行不可能。
カインの顔を見ていると失恋をひしひしと痛感し逃げてしまった。
それが昨日の出来事で、夜が明けて城内での日常がまた始まった。
*
今後毎日カインと顔をあわせるというのに、この動揺をいかにしてしずめるべきか、初日からアリウスの悩みは尽きない。
仕事にも身が入らず、侍女たちの休憩所のテーブルでぼんやり頬杖をついて時計を眺める。まもなく王女フレアの外国語の授業時間だった。
一緒に帰還した王女も今日から日常生活に戻る。旅をする以前の日常に。そう、旅をする以前の。
「これ、いい機会だわ」
すっきりとした顔立ちに気力を蘇らせて、不意に呟いた。
日常こそ失恋を忘れる好機と考えたのだ。
多忙な日常が全てを忘れさせてくれる。悲しい記憶も今も残る彼への恋心も、キスの感触も……。
しばらくの辛抱
そう己を慰め励ました。暗示のように言い聞かせ、旅をする以前の日常のまま時を過ごし忘れていくしか一日を乗り切る気力を見いだせなかった。
*
気休めでも前向きな決意を固めたアリウス。王女に教材を届けるため城内を歩いているとさっそく試練が訪れた。剣士カインとばったり対面したのだ。
カインの方に身構える理由はなく、この偶然を利用して気にしていた質問をいくつか持ち出した。
優しい眼差しを向けてまずはひとつめ。
「具合はもういいのか?一晩経って疲れは取れたか?」
「ぐっすり寝たから疲労感はなくなりました。度々の心配ありがとうございます」
体裁よく話を合わせたが、昨日のとっさの嘘を気遣われ申し訳なさに胸が痛い。
けれどそんな心情を一変させる質問が舞い込んだ。矢継ぎ早の難題に彼女の心労は募る一方だ。
「あなたとゆっくり話がしたい。時間の都合をつけたいんだが」
「……今は忙しいので」
「なら昼は?食事の時でも」
「先約があるので」
「いつなら空いてる?」
どうしたというのか、執拗な催促にアリウスは戸惑った。
真面目な顔をさせて会話を取り付けたがる理由は何なのか。一体そこで何を話したいのだろう。
疑問は残るがアリウスはあくまでも拒絶を貫いた。いや、逃げた。フラれた身で親しく会話などしたくなかった。
「はっきりした時間は言えません。また後日に。急ぐので失礼します」
そそくさと脇を通り抜けようとする華奢な体。その手首を、刹那カインはギュッと握り締めた。
「離して!」
キッと長身を見上げて女は叫んだ。
ふりほどこうと空いた手で抗うが、瞬時にその手も掴まれ引き寄せられた。
「いつ会える?約束が欲しい」
「わからないわ!とにかく離して!」
「わめくな!少しくらい時間は取れるだろ!」
元来短気な男だ。他人行儀な態度や明らかに避けたよそよそしさに、とうとう我慢ならず朝から身をも揺らして声を張り上げた。
握られた腕から伝わる震動。勢いにまかされアリウスの身がブンブン揺れ動く。だが彼女も負けじと反論だ。
「離して!そうやって強引に話を進めて勝手なことばかり言って!話って何!ふたりきりになってまた無理やり唇を奪うの!?」
語尾はわななき、嘆きが含まれた。
涙を滲ませる彼女を黒い瞳に映し、カインは自分の胸の高さまで持ち上げていた女の腕から手を離した。
力が抜けゆっくりと宙を落ちる男の両腕。ぶらりと定位置におさまると、無言のまま美しい世話役を見つめた。
「……すまなかった」
ポツリと呟いて俯き、虚ろに立ち尽くした。
駆け足で遠ざかる足音が聞こえる。アリウスが遠慮なく逃げたのだ。先日の恐怖から逃げたのだ。
ヴァルゴでの別れ際に強引に奪った唇。彼女には拷問に匹敵する行為だったようだ。
悪事と自覚してはいたがまさかここまで心理的に恐怖を植え付けていたとは思わなかった。
一度の安易な行動が取り返しのつかない現実を招き、彼女の心を傷つけていたのだ。
それと知った時のショックは大きく「すまなかった」の謝罪は今の強行に対してではなくキスへのものだ。
カインの胸が自分への憎悪に煮えたぎる。己が許せず両手に拳を作って握り締めた。
「くそっ、くそぉっ、くそぉぉっ!」
いかなる時も冷静であるべき剣士。剣士とはかくあるべき。
そう信じる彼はどうにか己を抑えつけようとした。
けれども失敗し、絞り出すような声に乗って感情は表面化してしまった。
27歳の青年は挫折にも似た人生の壁にぶち当たり、為す術もなく己を責めるしかなかった。
◆
意思の疎通に難攻する男女がいる傍ら、夕食後から就寝までの数時間を毎日の楽しみにしている男女がいる。
王子パウルと王女フレアは互いの部屋を日替わりで行き来し多種多様の話題で盛り上がっていた。
本日も一日の出来事を振り返り、パウルが顔から笑顔を消して午後の剣術稽古を次の話題に持ち出した。というより指南役の態度について。
「今日のカインすごく荒れてたな。あんなの初めて見た」
「ふーん、どうしたんだろ」
「誰かと喧嘩したとか気に入らない貴族に会ったとか」
気性の激しい性格は誰もが承知。理由をあげればキリがなく、またどれも当てはまりそうでやはりキリがない。
そんな永遠に続きそうな議論を停止させたのは彼らの信頼する世話役であった。
温かいココアをテーブルにふたつ並べながら笑顔でいつもの質問だ。
「何のお話をなさっていたのですか?」
「カインのこと」
「え?」
「イライラしてるみたいなの。アリウス慰めてあげたら?気に入られて今度こそ振り向かせられるかも!」
陽気な提案に無言のまま落胆を見せたアリウス。
善意のつもりが逆効果だったようで、王女は苦い顔を浮かべて早合点を詫びた。
「ごめんなさい、思い出させた?忘れかけてたのに……」
「いえ、さあもうその話はやめにして、春の舞踏会のドレスの話が持ち上がってきましたよ!」
「えっ、やった!ヴァルゴで流行りのデザインを見てきたの!今年は2着作りたい!衣装係が来る前にデッサンだわ!忘れないうちに書かなくちゃ!紙とペン!」
慌ただしく命じる王女に世話役はクスッと微笑んで役目に応じた。
見るのも着るのも、服飾に興味のある王女はドレス作りが大好きなのだ。
先日貴族都市ヴァルゴの服飾店で眺めた新作ドレスが気になっていただけに忘れないうちに具体化だ。
忙しくペンを動かす。この行程が楽しくて楽しくて仕方のないフレアであった。
*
没頭する王女の邪魔をせぬようアリウスは王子に一礼し静かに退室。
ゆっくり閉じられた扉を16歳になる双子はじっと見つめた。
足音が遠ざかるのを確認し、パウルは顔を曇らせ妹に向き直る。
「アリウス落ち込んでたな。カインが心配なのかな」
「気にしなくてもカインのイライラも今日だけよ。短気で単純だから明日にはケロリとしてるわ!前もそうだったじゃない!?」
剣士と世話役の日中のやりとりを知らない王女たち。男の方をからかいながら現実を甘く捉える。
ただし退室したアリウスに笑い話ですませるような楽観は存在しなかった。
城内の自室でカインの苛立ちに疑心暗鬼となっていた。
きっと原因は私。私が怒らせたんだわ。会話くらいしたって良かったのに彼が怒るのも当然だわ。
私、何を意固地になってるのかしら。普通に接すればいいだけなのに。そう決めたのに矛盾してる。
明日こそは気丈に自然体で振る舞わないと……
寝付けぬ夜を過ごすもやがて睡眠。そしていつの間にか朝を迎え、早速の緊張に遭遇した。
カインとの対面だ。
◆
いつもの廊下でいつものように、剣士は先陣を切って挨拶を口にした。
「おはよう」
「おはようございます、カイン様」
平静を装った返答。さらに返ってくるであろう会話をアリウスは待った。
けれどここから先はいつもと異なった。
一言のみであっさりすれ違う彼。冷ややかにも感じ取れる言動。
アリウスの心に冷たい針が突き刺さる。チクチク胸が痛い。振り向けず立ち尽くした。
自身の思考は正しかった。カインのイライラは本物だ。事態を招いたのは自分。陽気な彼から会話を奪うくらい怒らせてしまったのだ。
謝りたい。長い髪を振り乱して振り返る。だが、視線の先にもう人影はなかった。
眩しい朝陽が廊下に差し込む。今日も晴天。アリウスの心情とは正反対の清々しさであった。




