22.
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ようやく長かった入院生活も終わりが見えた。いまだ足は骨折したままなので、松葉杖が必須だが、背中の裂傷も腕のヒビも日常生活に問題がないレベルにまで戻っていた。
「それじゃあ、キー君。あとで少しだけ時間貰っていい?」
病室の片づけを進めていた瑠璃がそう言う。
「ああ、良いけど、どうした?」
うーん、と少し唸って、内緒と口元に指を添える。
「まあ、良いけど。どこに行けばいいんだ?」
「屋上が良いかな? あそこ眺めがすごくいいんだよ」
俺が動くのに億劫にしていたころ、彼女はこの病院内を散策していたようだ。
「それじゃあ、またあとで」
彼女はそう言うと荷物やらを持って部屋を出ていった。
数週間を過ごしたその場所もすぐに他の人が入ることになるだろう。白を基調としたその部屋は何もなかったかのように静まり返っていた。
「経過は……、うん順調だね。内臓系や頭への異常の傾向もみられない。あとは定期的に検診とリハビリをお願いしますね」
「はい」
退院前の最後の検診の結果は問題が内容だった。これからは定期的に様子を診せに来るだけで済むようだ。
「それじゃあ、お大事にね」
「ありがとうございました」
最後にお世話になった先生に頭を下げて退出する。
「さて、と。最後の問題を片付けに行くか」
足は病院の屋上へと向いた。
松葉杖をつきながらだと、移動するのに時間が掛かる。だけど、今はそのゆっくりとしたスピードがありがたかった。
ただ何となく、ゆっくりでいいと体が叫んでいるように思えてならなかった。
エレベータに乗り、最上階を示すボタンを押す。ゆっくりと加速して、やがて、チンと音がしてドアが開く。
ドアの向こうに出て、もう一つドアがあった。
ノブをゆっくりと回すと、軋むような音がしたあと、ゆっくり回った。
ドアの向こうには、もう夕暮れが迫っていた。
空の境界はオレンジ色に染まり、頭上の空はもうすでに暗闇が迫っていた。
「やっと来たね。キー君。ちょっと待ちくたびれたよ」
「ああ、遅くなってすまなかった」
夕暮れのオレンジをバックに安全柵に寄り掛かった彼女は来るのが遅かった俺を責めるような口調で言う。
責めるような口調の癖に、その声音はどこまでも優しく冗談であることも分かっていた。
「それで、俺を呼び出したのは、最後にこの夕焼けを一緒に見たかったからか?」
「うん、正解! 最期にこの夕焼けを見たかったから」
「……そうか」
彼女の言葉のニュアンスがなんとなく、俺とはかみ合っていないことが分かった。
ボタンを掛け違えたような違和感がそこにある。だけど、それをあえて聞いたら引き返せなくなるような気がした。
お互いが黙ったまま時間が過ぎる。一分、また一分と時間が過ぎていくけど、考えていることは形にならないまま、ただ太陽が沈んでいく様を見続ける。
「ねえ? キー君。アリスちゃんに言った君の願いって覚えてる?」
最初に切り出したのは彼女だった。
「……」
「わたしもね、キー君の願いを叶えてあげたかったんだ」
「……」
「だから、教えて?」
「……」
……それを言ったら、もう彼女が居なくなってしまうような気がした。だから、言葉にしたくない。
「そうか、言いたくないか。そんなに言いたくないってことはエッチなお願いだったのかな?」
彼女はわざと茶化すように言うけど、言葉が震えていた。
「……そっか、言うとなんか終わっちゃいそうな気がしているのかな? うん、正解、大正解。終わっちゃいます。主にわたしの幽霊生。多分だけどね」
「そんな気がしてたよ。だけど、それでいいのか? それに俺の願い事がエロいことかもしれないだろ? 出来るのか?」
「……君の願いはもう知ってるよ」
そうだ。こいつはアリスと一心同体だった。
アリスの知っていることは瑠璃も知っていることだった。
「……俺の願いが変わってたらどうするんだよ」
「なら、早く言っちゃえばいいじゃん。言えなかったってことは、わたしに関わることだからでしょ」
言い逃れをしようにも、もう逃げ道がなかった。
「それにね、もうタイムアップなんだ。サッカーで言えばロスタイム。だから、君の願い事を叶えて消えるか、何も残せずに消えるかの二択。最期くらいはきれいに行きたいからさ」
そう言われたら、もう反論もできないじゃないか。
「……君に謝りたかった」
「謝られることなんかされてないよ」
「それでも、謝りたかった」
「……自己満足でも」
「ああ、それでも、君にごめんって言葉にしたかった。だから、うん。ごめん、あの日遅れて。ごめん、約束の夏祭りに連れていけなくて。 ……ごめん」
「……そっか、じゃあ、許す。うん、許しちゃう。君がそれで救われるなら、いくらでも許しちゃう。世界が、神様が君を許さなくても、わたしが君を許す。うん、これで良いかな?」
「……」
「……ええ、反応無いの、それは悲しいな。まあ、許しちゃうけど」
「ああ、ありがとう」
「うん、どういたしまして」
夕焼けが彼女を赤く染めあげていく。
「…………やっぱり、ひとつだけわたしもお願いしていい?」
彼女は迷ったような顔をした後にそう言った。
「ほんとはいっぱいしたいけど、君を縛り付けたくないから一つだけ。わたしが行けなかった夏祭り、アリスちゃんに見せてあげて。花火を見せてあげて。それだけ」
「うん」
彼女はふふっと笑う。
そして、夕暮れが一段と赤く輝く。
逆光に当たるこの場所では彼女の顔は暗く見えない。
「ああ、君に会えてよかった。君とお話しできて楽しかった。わたしの大切な人に最期を見送ってもらえるなんて幸せだなぁ」
「それは良かったよ」
「うん、とっても良かった。だからね、アリスちゃんをお願いね」
「分かった」
「……それじゃあね、バイバイ」
最期の最期に彼女の顔を真っすぐと見ることができた。これでもかというくらいに涙をこらえながら、無理やり笑おうと口角を上げる。その顔はアリスの顔ではなく、正真正銘の彼女の顔だった。
次の瞬間、気が抜けるように彼女は倒れ込みそうになる。
だけど、どうにか踏みとどまったみたいだ。
「お姉ちゃん、逝っちゃいましたね」
アリスはそう言った。
「ああ、逝った」
「お姉ちゃんは幸せそうでしたか?」
「ああ、幸せそうに笑ってたよ」
安心しました、と小さくつぶやいた。