僕が死のうと思ったのは
青い青い空が広がっている。
「ちゃんと来たね」
そんなことを確認する、夏服の少年に、リボンタイを外したラフな制服姿の少女が、肩を揺らして笑う。
結われていない黒髪が、肩口でさらさらと揺れた。
「約束破るわけないでしょ。だって私と貴方は恋人なんだから」
「友達以上、恋人未満って言葉知ってる?」
「貴方って時々すごく意地悪なことを言うのね」
ははは、と少年は微笑する。少女の言葉を否定しなかった。
「でも、あながち間違ってないでしょ。僕みたいな人間と君が関わることなんて、あの出会いがなかったら、あり得なかった。今赤の他人じゃないのは奇跡的だよ」
ふーん、とまだむくれた様子で、少女は同意しておく。
少女の目から見て、目の前の少年は、いたって普通のどこにでもいそうな平々凡々とした少年だと思う。性格も極端に暗すぎず、明るすぎず、まあ、コミュニケーションに一癖あるが、ただそれだけの少年だ。何故それだけでクラスからいじめられているのかわからなかった。
少女はたまたま、それに目を留めるきっかけがあった。それは少年と、学校ではない場所で、出会ったからだ。
「出会ったとき、か……なんかもはや懐かしいわね」
「そう? 僕は今も鮮明に覚えているよ」
へらりと笑い、彼は回想を促した。
「初めて、君と会った、墓地でのこと」
墓地。
そうそう行くものではないが、少女は幼少の折より、ほとんど毎日通いつめていた。──母親の墓に。
墓は新学期の教室のように五十音順で並んでいるわけではない。だから、偶然だったのだ。
「……あ」
「……あ」
花束を抱えた少年と、頭病みをしないために供え物を持って立ち上がった少女の目線がばっちり合ったのは。
親の墓が隣同士だった。夏休みでも彼岸でもない、時期外れの墓参りに来ていた、それがたまたま重なっただけだったのだ。
黄色と白の菊で彩られた少年の花束を見て、それから、なんだか服がぼろぼろであることに少女は気づいた。
少年は、一瞬少女の存在に驚いたようだったが、それから淡々と花束を前の花と差し替えた。
「……その花、もう替えるの?」
どうでもいい、と言ってしまえばそれまでの話だが、少女は替えられた花は挿されてから、そう日は経っていないように思った。
「うん、替える」
少年の返答は、行動を見ていればわかることで、端的で素っ気ない答えだった。
そのまま帰ろうか、と少女が踵を返そうとすると、今度は少年が声をかけてきた。
「君、毎日来てるの?」
「え?」
墓参りは慣れたものだった。習慣というか。少女の父は母の墓参りには一度たりとて来ていない。母が亡くなってからは、家で飲んだくれている。
姉もいるが、忙しいのもあるのだろうが、そう頻繁には来ない。
……それらは全て、言い訳でしかないのだが。
「毎日、ね……来てるよ。私、家に帰りたくないんだ」
「何かあるの?」
「何もないからよ」
妻の死を認めず、仕事から帰ってくれば酒を飲むだけの父、終始鬱陶しそうな姉。姉は受験前でぴりぴりしているし、父はそれを焚き付けるように酒を飲みながら、優秀であれ、と怒鳴る。
姉は、あまり優秀な人間ではない。人並みだ。人並み以上の努力して、そう見えないようにしているだけ。一方、妹である少女は、聞き分けもよく、優秀な人間だった。人の下につくような凡人ではなく、人を先導していくカリスマがあった。その上、どのように人を導いていけばいいのかもわかる。
そんな妹の恵まれた才能を、姉が妬まないわけがなく、妹の方が姉より優秀であることに父が何かやっかみを言わないわけもなく。見る間に家はぎすぎすとしていった。
そんな家に、帰ろうとは思えなかった。
「うちは色々複雑で、……まあ、複雑じゃない家庭なんてないんだろうけどさ、ぎすぎすしてたり、ぴりぴりしているところに、わざわざ帰る意味なんてあるのかなぁって……よく、思うわけ」
「それで、墓参り?」
「うん。死人に口無しっていうでしょ? ここには誰もいない。だから気楽なの」
そう言って、結論づけて、にっこり笑う少女に、少年は更に問いかける。
「本当に、それだけ?」
どきり、とした。心臓の大きな脈動を、今まで何故自覚できなかったのか不思議になるくらい、感じた。
本当に、それだけ──だったなら、学校で帰宅部になって、制服姿のまま、少し貯金を崩して墓に菓子を供えるなんて、面倒なこと、するだろうか。確かに、常識的に考えると、普通ではないような気がする。
少女はそこに思い至って、にこりと笑った。
「……本当は、私だけはちゃんとお母さんを忘れないで、ここに来ているよって……お母さんに伝えて、自己満足しているだけかもしれない」
自分から聞いてきたくせに、少年は大して興味もない風にふーん、とだけ言う。まあ、色々と余計な詮索をされないのはありがたい気もするが、なんだか中途半端な気がして複雑な心境だ。
少年はけれど、言葉を次いだ。
「素敵な話だ。今昔物語だね」
「蒟蒻物語?」
「こんじゃく、だってば。知らない? 全部『今は昔』で始まる古典のお伽噺だよ」
「古典は苦手なのよねー」
そんな他愛ない言葉を交わして、ふと気づいた。
「あれ? その制服、うちの学校の……?」
「あ、やっと気づいた」
「最初から気づいてたんかい」
だったら最初から教えなさいよね、と愚痴ると、少年はへらりと笑ってさらりと告げた。
「だって僕、学校ではいじめられてるから。バレたら嫌われるかなって」
「……は?」
自分でも、随分間抜けな声が出たと思った。
いじめられている? だから嫌われると思った?
背負っているものが違うことを実感した。少女は他人のことで、少年は自分のことでいっぱいいっぱいになっているのだ。そんなこと、知らなかった。何なら「いじめ」なんて異世界の言葉だと思っていたくらいだ。それくらい、少女からは遠い言葉だった。
少女は友人に恵まれていたし、人に好かれやすい性格をしていた。表面だけだとしても。
「まさかとは思うけど」
隣の墓との塀をちょん、とつつく。
「墓参りは現実逃避のため?」
「まさか」
少年は肩を竦めた。
「言ったでしょう? 今昔物語だって」
「それだけじゃ意味がわからないわよ」
それもそっか、と少年は納得し、滔々と話し始める。
「昔、親を亡くした兄弟がいて、その兄弟は毎日のように、親の墓参りをしていたんだ。けれど、兄はやがて、所帯を持って忙しくなって、親の墓に忘れ草を供え、それから一切墓参りに来なくなった。でも、弟は墓参りをした。兄と違い、忘れじの草を供えてね……
これが僕の好きな今昔物語の話の一つだよ」
とても簡潔で、わかりやすい説明。きっと、今昔物語のこの話が好きだというのは嘘ではない。自分の好きなものをきちんと「好きだ」と宣言するためにまとめられているからこそ、こんなにすらすらと説明できるのだろう。
確かに、その話は、今の少女の状況に似ているかもしれない。墓参りを放り出した姉、毎日墓参りに来る妹。違うのは、性別くらいなものだ。
こうして説明した、ということは、少年の墓参りもその物語に肖っているのだろう。
「……貴方のその墓は、誰の墓なの?」
すると、彼はうーん、と悩み始めてしまった。言いにくいこと、なのだろうか。
やがて、放たれた言葉は、確かに言いにくい言葉だった。
「僕の母さんの墓だよ。といっても、僕、不倫でできた子どもらしいけどね」
ああ、過去を思い出すついでに、彼の生い立ちまで思い出してしまった。何度咀嚼しても、不味い話だ。賞味期限を一ヶ月は過ぎたお菓子のようだ。
少年は所謂、不義の子というやつだ。彼は、そんなこともよくわからないうちにご近所話というとてもセキュリティの甘い個人情報から、意味もわかっていない同年代のガキ共から、生まれちゃいけなかったとか、恥さらしとか馬鹿にされて、やがてそれがいじめになったのだ。
まずはじわりじわりと精神を攻めて、それからそそっかしいやつが肉体を抉って……教室に彼に救いの手を差し伸べる者はいなかった。結局みんな、自分が大事なのだ。自分が巻き込まれたくないから、知らないふりをする。それが所詮は人間というものだ。
「でも、君は手を差し伸べてくれたね」
「……ただお菓子を分けただけだよ」
少女は、たまたま少年と出会って、息が合ったから気にかけた。初めて会ったあの墓地で、まあいいから、頭病みしないようにお供え物食べよう、と饅頭を半分に分けて食べた。
それがあったから、今の関係がある。もしあそこで出会っていなかったら、少女が少年に手は差し伸べなかっただろう。他の有象無象と同じ。その翌日、彼がクラスメイトであることを知って、結局、自分は今まで有象無象と同じだったんだ、と実感した。
だからあの墓地での出会いがなければ、きっと、少女は有象無象だったのだ。
「まあ、貴方にあそこで会えてよかったよ」
「それは僕も同感だよ。君が友達になってくれたから、いじめも少しましに感じられた」
少女は黙り込む。──ましになった。ただそれだけだ。少年はまだいじめられている。それでも、友達が一人もいなかったときに比べれば、だいぶましなのだろう。
「で、今日はこんなところに呼び出して、どうしたの?」
「君に、渡したいものがあってね」
「渡したいもの?」
うん、と頷き、少年は可愛らしい便箋を差し出してきた。
「これ」
「……手紙?」
少し照れたように少年は笑う。
「こんなの書くくらいなら口頭で話した方が早いだろう」
「あはは、君ならそう言うと思った」
でも、と不意に真剣な表情になる。
「受け取ってほしい」
まあ、受け取ることに否やはない。
「どうしたのさ、改まって」
「……口で言うのも恥ずかしいことだってあるでしょ?」
言うと、彼はへら、と笑った。相変わらず、掴み所がない。
「……今日は、墓参り行くのか?」
「ううん、僕、牡丹の花置いてきたから、もう行かないよ。……行けないよ」
「?」
牡丹の花にどんな意味があるのか、少女には全くわからなかった。少年とはそこで別れることになった。透き通るような青い空を見上げて、それから屋上の扉から出ていく。
微かに少年の声が聞こえた。
「バイバイ」
意味がわからなかった。
「あの陰キャ、死んだってよ」
「まじウケるわ~」
何故。
何故何故何故。
何故お前たちは笑える? 人間が一人、死んだんだぞ? 昨日まで同じ教室で息を吸っていた人間が、死んだんだぞ?
お前らがいじめていた人間が、死んだんだぞ?
何か他に言うことはないのか? 死んでからまで、彼は冒涜されなければならないのか?
少女の心は荒れに荒れていた。
「バイバイ」
最期の言葉が、耳について離れない。
バイバイって……永遠にお別れってことじゃないか。
何故気づけなかった、と後悔が少女を苛んだ。
昨日は明らかにおかしくなかったか。今昔物語の兄弟の墓参りの話が好きで、それを模倣して、毎日毎日墓参りに行っていたのに。牡丹──忘れ草なんて、供えたなんて。
「あー、大丈夫? あなた、あの陰キャとだいぶ仲がよかったよねー。カレカノだっけ? 置いていかれて滅茶苦茶カワイソー」
「……れ……」
「ん、何か言った?」
「黙れつってんだよ!! この耳は飾りなのか、あぁ!?」
「痛い、痛い」
気づけば少女は一人の女子の耳たぶを引っ張っていた引っ張られている方は涙目になっている。
「何マジギレしてんの?」
「何マジ泣きしてんの?」
もう、売り言葉に買い言葉の応酬だった。
「何がどうなってあんたがあの陰キャとオトモダチになったのか知らないけどさ、あんたにあたしたちを責める資格ある? だってあんただって」
女子が言葉のナイフで少女を引き裂いていく。
「あんただって、最初はただの傍観者だったじゃん。それっていじめの加担じゃないの?」
そんなあんたにあたしたちを責める資格なんてある? という言葉が、心臓を抉るような痛みをもたらす。
「私は……」
ぎゅ、と手を引き結んだ。くしゃり、と紙が潰れる音がした。
「……?」
ああ、そういえば。
彼からの手紙、まだ読んでなかったな。
もう、教室は酸素がなくなってしまったかのように、息苦しい。だから、逃げるように、少女は教室を出た。
向かったのは、屋上。無意識に彼の跡を追いたかったのかもしれない。
屋上は普段、解放されていない。何故か、少年は「秘密の鍵」を持っていて、それを使うと、どこにでも入れた。
だから、屋上からあいつが飛び降りた生徒がいるからって封鎖された屋上も、バリケードを破って行けた。
「……」
……つい昨日、ここで話したのだ。聞いた話から推測するに、少年がここを飛び降りたのは、それから少ししてからだろう。
何故、何も気づけなかった? 何故、止めてやれなかった? 何故、何も声をかけられなかった?
……その答えがここに記されているというのなら、少女は救われるんだろうか。
途端に、怖くなった。
この便箋の中には彼の思いが綴られていることだろう。自分たちの関係を「友達以上、恋人未満」と言った彼の、最後に残した思いが。
彼の本心を知るのが怖かった。
それでも、手紙を捨てることはできなかった。
──せめて、あのいじめてくる有象無象と違う存在だと認識されていたなら……私はそれでいい──
覚悟を決めて、便箋を開けた。
やあ、元気かな。
愚問か。これを読んでいて君が元気だったなら、僕が死んだ意味がないような気がするな……それはちょっと、いや、かなり悲しいかも。
ごめんね、勝手に死んで。でも、僕は君と墓地で出会ったときにはもう、死のうって決めていたんだ。
勝手だけど、言い訳を重ねていくよ。
僕が今昔物語の墓参りの話が好きな話は、もう何回も話しているから、さすがに覚えているよね。僕はね、その再現がしたかったんだ。
──親の墓に花を供え続けた弟は、その健気さから、千里眼を与えられたっていうのが話の結末なんだけどね。僕には、千里眼は得られそうにない。そう思った。
でも、それは見当違いだった。僕はね、得てしまったんだ。他人の心が明け透けて見える力を。
僕がいじめられてしまった理由の一つは、それだよ。
それでも、僕は生きることをやめなかったし、墓参りもやめなかった。いつか幸せになれるって信じてたんだ。
そんな盲信に浸っていたときに君に出会って、君の話を聞いて……僕は、君に託したいと思った。
君には色々な才能がある。周りを動かす力──自分の味方にする力がある。
それに、君なら、こんな僕の墓参りでも、続けてくれるだろう?
だから、僕の今昔物語を続けてほしいな。
勝手な頼みだけど、よろしくね。
大好きな君へ
「何、これ……」
涙が零れていく。
「何よ、これ」
がん、とコンクリートの床を殴った。手がとても痛かった。
何度も、何度も、何度も、殴った。けれど、便箋は傷つけないように。
「……あんまりだよ……勝手だよ……」
でも、という細い声が落ちる。
「逆らえるわけ、ないじゃん……!!」
慟哭した。
前を向く前に、それくらい許されたって、いいだろう……
「ねぇ、お母さん、今日も行くの?」
「ええ。毎日行くのが約束だもの」
様々な花で彩られた花束を抱えた喪服の女性が、子どもの手を引きながら、告げた。
「あなたのお父さんになるかもしれなかった人の話、またしてあげる。だから、お父さんにお花をあげようね」
「うん!!」
彼岸花が咲き誇る道を親子が歩いていく。菊と、忘れじの草──紫苑を抱えながら。
「約束通り、今日も来たわよ」
墓に語りかける女性。その手には、古い便箋があった。
「お菓子も持ってきたから、ちゃんと分けましょうね」
それに答えるように、風が通り抜け……
花を差し替えた女性は、目を細めて笑い、頭病みをしないように、と子どもと一緒に供えたものを食べた。