1話 かすがい ひなの
「おにーさん、誰 ? 」
ぼくが背中に背負っていた、三つ編みのその子は目を覚ましたようだった。薄暗い中で電灯に照らされた、僕の更に暗い影が、目の前に長く伸びている。心臓がドクドクと脈を打っているのが分かる。どうしよう。なんて答えるのが正解なんだろうか。意識していなかった、ヒグラシの鳴き声が彼女の声に反応でもしたかのように一斉に頭の中に鳴り響いて、僕の心臓の音と一緒になって反響しているみたいだ。彼女の言葉にどう返したら、僕は幼女誘拐という前科持ちにならずに済むんだろう。もう陽が落ちれば、涼しくなるはずの夏の終わりなのに、じわりと汗が滲む。
「…………お、ぉはよう、ございます……」
咄嗟に絞り出した言葉はこの更けた夕暮れに相応しくない。だのに、頭の後ろから聞こえてきた言葉はふるふるとした弾力を持って、違和感は少しも感じさせなかった。
「おはよーございまーす ! 」
「ぼ、僕は……優成って名前です。……よろしく。……君の名前は?」
「かすがいひなの ! ひなのだよ ! 」
耳のすぐ側でそこそこの大きな声を出すものだから少しうるさい。しかし割合素直そうだし、僕のことを敵視している様子もないようだ。よかった。吐息が耳の後ろにかかって擽ったい。ひなのちゃんかあ。可愛い名前。でもやっぱり彼女の顔と同じく、どこか既視感のある名前だ。ひなの、ひなの、ひなの……。遠い昔の記憶に、染み着いているような。
「ねぇ、下、おりたい」
耳元でポツッと可愛らしい声で呟かれて、下ろさないわけにはいかない。本当は温かいし、柔らかいし、……顔を見ないで話が出来るし、ずっと背負っていたかったけど。ゆっくりしゃがんで、ストンと彼女を下ろしてやる。しゃがんだまま、振り返り向き合う。
目を開いた彼女は、さっきにも増して可愛かった。大きくてパッチリとした目をしていて、スッと通った眉と合間って、利発で活発な印象を受ける。しかし目尻は少し垂れ下がって、それがキツすぎない、ふんわりとした彼女の雰囲気を醸し出している。瓶詰めした濃い蜂蜜のような瞳の色だ。とろとろと、薄い電灯の明かりに反射して、時々チカリと魅惑的な光を放つ。それが、僕をじっと見据えていた。
ふっとその瞳が宙を見つめる。心なしか少し揺らいだように見えた。
「ここ……どこ?」
さっきまで明瞭な風でしかなかった彼女の……ひなのちゃんの声が、不安に覆われて小さく震えていた。
「ここは……」
市や、町の名前を答えようとして、それから果たして彼女はそれを聞いて何を得られるんだろうかと考えて、僕は質問し返すことにした。「お父さんや、お母さんは ? 一緒にいたんじゃないの ? 」と。迷子(と思われる)の子供に対する質問としてはかなり一般的なものだろう。ひなのちゃんは、ハッとしたような顔をすると、目線を僕の頭上まで上げて、しばらくウロウロと泳がせていたと思うと、わからない、と一言呟く。
「あたし…なにもわかんないかも…」
どうしよう、そう、また呟いた瞬間、ひなのちゃんの瞳は、とうとう明らかに潤みはじめてしまった。