休息から始まるプロローグ
そこは、小さな崖だった。崖の下は、海が大した波も立てず穏やかに揺れている。崖の上は、草の緑やたくさんの花でできた様々な色が宝石のように溢れかえっていた。柔らかい風が吹くと、草花がゆったりと踊る。
そんな絵本にでも出てきそうな崖の上には、遠目からでもすぐにわかるような一本の大木があり、その下では一人の少女が木漏れ日を浴びながら大の字になって横たわっていた。
見た目から、まだ十代半ばだろう。緑のカーペットの上に放り出された長い茶髪の艶や、少女がまとっている白いワンピースといった服装から想像できる。
「……お天道様がいい気持ちですね〜」
少女は今にも眠ってしまいそうな声でそんな独り言をつぶやく。その目もとろんとしていた。ここは天国かな。そんなことを考えながら目を閉じようとした時、少女の目にあるものが映った。
それは、一匹の黒猫。黒猫はジッと少女を見つめている。彼女はそんな視線に気づいたのだろうか、黒猫の方を見ると閉じかけていた目と、口を開くと、
「あら、メルさんじゃないですか。メルさんも日向ぼっこしに来たんですか? どうぞこっちに来てください」
と言って、ポンポンと自分の横のスペースを軽く叩く。それを見て、メルと呼ばれた黒猫はコクリと頷き女の子のそばへ近寄ると──思いきり少女の額を叩いた。ポンポンなどと生易しいものではない、ゴツンである。
それはそれは、とても見事なネコパンチであった。
攻撃を受けた少女は「いたい!」と声をあげると涙目でメルをにらむ。
「もう、いきなり何するんですかメルさんっ」
「仕事だ馬鹿者」
メルは少女を完全に見下したような目で見て、そう喋った。その目には気にせず、少女は上半身だけ起き上がりメルに顔を向けた。
「お仕事……ですか?」
「ああ。依頼人は冒険者の坊主だ」
「お名前は?」
少女のその質問に、メルは目を細め少女から顔を逸らす。自らの不手際に気づいたのだろう。
「……しまった、聞くのを忘れていたな」
メルは基本的には人前では喋らない。いくらなんでも猫が喋るのは非常識だからだ。なのでメルが名前を聞くときは、喋らずに名前を書くための紙を渡すのが恒例なのだが……どうも忘れていたようだ。
「ふふっ、もうメルさんたらおっちょこちょいなんですから」
「お前にだけは言われたくないわ、リリア!」
メルは自分が「リリア」と呼んだその少女に対して、ジャンプして体全体を使った頭突きを、その額にヒットさせた。リリアは額を抑えうずくまる。
「だから痛いんですってメルさーん」
「お前が馬鹿なことを言うからだ、この天然娘。客を待たせているんだ、さっさと店に戻るぞ」
「はーい」
気の抜けた返事をしてリリアは立ち上がると、落ち着いた……いや、極めてゆったりとした足取りで自らの店に向かっていった。
「早くせんか!」
「いたいっ」
少女と黒猫の日常が、今日も始まる。