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自惚れて、そして溺れて

(お題使用)


 今まで触れ合っていた唇が離れて、あたしはまだ熱が残る自分のそれに指を這わせる。そのまましかめ面で男を睨んだ。

「……なに……?」

 車の中、暗いけど明らかに怪訝そうな顔で低い声を出した男。でも、そんなこと気にせずあたしは口を開く。

「……苦い」

「……あ?」

「苦いの煙草が。吸ったあとにキスするのやめて」


 あたしは煙草が好きじゃない。煙たいし、身体に悪いし、なにより匂いが嫌いだ。だけど、この人の煙草を持つ手に惹かれたのは他でもない、自分自身。

 最初はなんてありきたりなきっかけ、って自分でも呆れたけど。仕方ないじゃない格好良かったんだから。ごつごつしてて、少し日に焼けてて。大人の男の人の手って感じで色気があって。

 すらりと長い指が煙草を弄る仕草に何度顔が赤くなったか分からない。

 あの指に触れて欲しいって、あの指に触れたいって幾たび想像したか。

 仕事中になに考えてるの、と自分の思考回路に恥ずかしくなったけど、やはり視線はそれに向くのを止められなかった。

 だからこんなこと言うのはお門違いなのかもしれない。

 でも、一度言ってやりたかったのも事実。


「あたしが煙草嫌いなの知ってるでしょ?」

「俺が煙草好きなの知ってるデショ」


 からかうように同じ口調でそう言い返されるから、あたしの導火線はどんどん短くなっていく。

「……っ、そもそもなんでこんな狭い車の中で吸うの!?」

 普通に考えて匂いのこもりやすい車内で吸うときは同乗者に一言了承を得るのが常識でしょう?

 確かにこの車はあたしのじゃない、彼のだ。だから彼がどう扱おうと勝手だけど、少しはあたしのことも考えて欲しい。

「わざわざおまえの了承得る必要があるのか」

 それなのに、彼はあたしの儚い願いをことごとく打破する。

 あたしのことを少しでも想ってくれているなら、もしかしたら自分の好きなそれも控えてくれるかもしれないと期待していた自分が酷く馬鹿みたいに思えてきた。

 そもそもこの関係だってあたしから強く望んだ末の結果だから、心の中ではいつも不安だった。この人はあたしのことを好きになってくれているんだろうかって。

 あたしは最初に惹かれたときよりもずっとずっと、もう言葉にできないくらい好きになっている。照れくさいけど、こんなに好きになったのは今まで生きてきた中で初めてかもしれないと思うほどこの男に溺れているのに。

 それに気づいているのか、それとも気づかないふりをしているのか。

 この人はいつだって言葉にしない。態度にも表さない。だからあたしは確かめたくとも否定されるのが怖くて今までできなかった。

 だけど今、ようやく分かった。あたしは、この人にとってなんでもない存在なんだって。こんな小さなことを気にかけるほどの価値もないのだと。


 ……哀しい……。


 薄々気づいていたのかもしれない。けれど自覚してしまうのが怖くてずっと目を逸らし続けてきた現実。

 それを認めてしまえば、哀しいという気持ちしか胸の中に拡がらない。


 ……泣きたい……。


 じわりと涙が滲んでくる。こういうときだけ涙腺は感情に引きずられて活発に働く。

 泣き顔は見られたくない。面倒な女だと思われたくない。こんな些細なことで泣くような女だと思われたくない。

 あたしの部屋があるアパートの駐車場に、エンジンを切った状態で駐車している車の中、二人揃って沈黙している状況は正直居辛い。早くこの場から逃げ出したいと駆られるほどだ。

 泣き顔を悟られないよう俯いて、車から降りようとドアに手をかけたとき、右肩に違和感を感じた。そしてそのままぐいっと引っ張られる。

 痛い。

「なに――」

 『なにするの』と、続けたかった言葉はしかし掻き消えた。覆いかぶさる影に唇を塞がれたことによって。


「……んう……っ!?」


 突然もたらされた激しいキスに瞠目する。驚いて頭が働かない。もっと驚いたのは、それがいつも以上に深く、ベッドの中であたしを瞬時に黙らせる効果を持った口づけよりもさらに熱かったからで。

「う……ふっ、んん……っ」

 息ができない。酸素が回らない。頭がくらくらする。

 堪らずあたしの思考を乱す男の腕に抵抗の意味で縋るがなんの意味もなく。男の身体を押し退けて逃げようと腕を伸ばすも右手は男に掴まれ、残った左手もドアに手をかけたその上から男の手が重ねられているせいで自由を奪われたままだ。

 やっと解放されたのは、肩で息が上がるほど長く辛い時間のあと。静かな車内にあたしの荒い呼吸音だけが響く。

 呼吸が整うのを待ってゆるゆると視線を上げると、今の今まであたしを黙らせていた男が自分の唇を指で拭っていた。

 あたしはその光景にただ呆然とする。

 ただ頭の中は意外なほど冷静だった。


 ……こんなめちゃくちゃなキスは好きじゃない。

 有無も言わせないような、一方的なものなんて嫌だ。


 抗議の意味合いを多分に含んだ眼差しで男を睨めば、口の中に拡がる苦味を舌が敏感に感じ取る。無意識のまま口元に手を当てると、それに気づいた男がにやりと口元を上げた。

「……酷い」

 こんなキスもそうだし、あたしの様子を楽しんでいることも。

 煙草の苦い味は嫌いだと言ったのに、まったく気にせず舌を入れたことも。

 どれをとっても相手を思いやる気持ちがうかがえないもので、酷いと思った。

「なにが」

「……っ、全部……全部よ!」

 感情が抑えられず大きな声が出た。さっきの、自分勝手なキスをされる前までこらえていた涙もぼろぼろ零れてくる。

「ううー……」

 もう我慢できずに泣き出した。

 本当は嫌なのに。泣くことも泣き顔を見られることも。それを我慢できなかったことも全てが嫌で堪らないのに止まってはくれない。

 でも、せめてもの意地で声を殺して泣いた。俯いて、胸元をぎゅっと掴んで。

 これ以上、呆れられたくなかった。

 これ以上、煩わしい女だと記憶に残りたくない。


 するとどれくらい経ったのか。

 ぽんぽんと後頭部を撫でる感触があった。顔を上げなくても分かる。この人があたしの頭を撫でている。車内にはあたしと彼しか居ないのだから。

「……なに……」

 ぐす、っと鼻をすすりながらも顔は上げない。上げてやるものか。

「別に」

 そう言いつつも、あたしの頭から手を離そうとはしない。

「……手、退けて」

「嫌」

「退けてよ……っ」

 あたしに触れないで。お願いだから触らないで。あたしに構わないでよ、お願いだから。気持ちが傾きそうで嫌なの。

「退けたら逃げるだろ。だから退かしてなんかやらない」

 その口調はこれでもかというくらい傲慢なもので、顔を伏せたまま呆気にとられたのは数秒。次第におかしくなってくる。

 ああもう、なんであたしこの人のことが好きなんだろう。なんでこんな風に言われて腹が立つよりも先に嬉しくなっているんだろう。

「……自分勝手」

「それはおまえだろ」

「な、そんなことな……!」

 顔を上げて否定しようとしたら、ばっちり目が合ってしまった。しまったあ!

 逃がさないように顎を掴まれ、その視線から逃れられない。

「……酷い顔」

 化粧も崩れただろう泣き顔を覗き込まれて、あたしは恥ずかしさで咄嗟に顔を手で覆うが、すぐにはがされてしまう。

「だ、誰のせいだと思ってるのよ……っ」

「俺のせい?」

 まったく心当たりがありません、みたいな口調で訊き返すからまじまじと見つめ返してしまった。

 ほ……本気で言ってる?

「俺、おまえのこと泣かせるほどいじめたことないけど」

 挙句の果てにこんなことまで口にする。

 そりゃあ直接的な言葉は言われていない。だけどここまで無神経だとは思わなかった。あたしがなんで泣いたか分からないの?


「そこまで煙草吸ってる俺とキスするのが嫌かよ」

「……へ……?」


 一瞬、なんのことか分からなくてぽかんと口が開いた。あたしの顎を掴んでいた手はいつの間にか離れていて、座席に深く座り直したと思ったらむっとした顔つきで前を向いている。

 ……あれ、そういえば……。さっきまで吸っていた煙草はどこにあるんだろう。視線をずらしてみると、まだ火を点けてすぐの長い煙草が灰皿の中で押しつぶされている。

 いつもだったら片時も指から煙草が離れることはないのに、そういえばあたしが車から降りようとするときは確かに持っていたはず。だけど、それからは吸っている気配はなかった。無理やりの口づけは煙草の味がしたけど、ついさっきまで吸っていたんだ、残っているのは当たり前。

 じゃあ今は?

 あたしの頭を撫でていたときは?

 煙草、吸っていなかったの?

「つーかさ、泣くほど嫌ならそう言えよ」

「……な、んのこと、言って……」

「あ? だから俺みたいな煙草吸ってる人間とするのが嫌なんだろお前は」

 眉間に皺を寄せて、まるで拗ねた子どものようにそう言ったかと思うと、おもむろに煙草を箱から取り出した。だけどそれを口に持っていき、咥えながらも一向に火を点けないところを見ると、この人なりに少しは気を遣ってくれているのだろうか。

 なんだかそんな行動が不思議で、暫し呆然としてしまう。

 確かに煙草は苦手。服に匂いがつくし、キスすると苦い。それを我慢しなきゃいけないと思うのも苦痛だったけど、泣いた理由はそんなことじゃなくて。

 ……変に勘違いしているこの人がおかしくて、つい噴き出してしまった。

「……なに笑ってんだ」

 ぶすっとした表情であたしを見る彼。

「別に」

 そう答えても、やはり笑うことは止められない。

「笑うな」

 彼の大きな手があたしの口を塞ごうと伸びてきたけど、それを寸でのところで防いだ。

 ごつごつした手、長い指。日に焼けたその手が無性に愛しい。

「……煙草は一種の麻薬って言うだろ。俺は多分この先もずっとやめられない」

 静かに、低い声でそう続ける。

「だけど、まあおまえと一緒に居るときはなるべく本数減らすように努力する」

 あたしが掴んだままだった手が動いて、さっきまで涙が伝っていた頬をそっと指が掠める。


「だから泣くなよ、頼むから」


 ぶっきらぼうで、無愛想な言葉。だけど、あたしは今までこんな風に言ってもらったことはなかった。だから信じられなくて、胸が熱くなるほど嬉しくて、止まったと思った涙がまた滲んでくる。

「……泣くなって」

 困り果てたような彼の声が頭の上から降ってくるけど、これは辛いからとか嫌いだから涙が出てくるんじゃない。嬉しくて堪らないから涙が止まらないの。

 彼があたしのことをなんとも思っていないんじゃないかとすごく不安だった。あたしばかり好きで、この想いは一方通行かもしれないと考えるだけで切なくて。

 だから涙が溢れた、というのが正しいのだけれど。

「……泣くな」

 事実がどうだろうが、事情がどうだろうが今は関係ない。少しでもあたしのことを考えてくれただけで胸がいっぱいになったから。涙が出るほど幸せになったから。

「……うん……」

 あたしはそっと手を伸ばして、愛しい彼の指に自分の指を絡めた。




***




 それから暫く経って本人から聞いた話だけど。

 どうやら煙草を吸わない人間、特に女性が煙草の香りを漂わせていると、周りの男性からは『恋人、または配偶者が喫煙者』だと思われることがあるらしい。残り香が移るほど傍に男の存在がある。つまり、その女性には相手が居るという証に捉えられることもあるのだと。

 あたしの前で煙草を吸うのをやめなかった理由のひとつにはこの意味も含まれていると知って、あたしが前以上にあの人を好きになったのは……言うまでもない。




=終わり=





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