「お姉ちゃんだから譲りなさい」――七年間縫い続けた花嫁衣装を守り、私は愛する人のもとへ嫁ぎます
十一月の夜明けは薄氷のように冷たく、伯爵邸の裏庭にある林檎の古木は、白く乾いた霜をまとって静まり返っていた。
階下の厨房からは、朝早くから妹の婚礼を祝う料理の仕込みの匂いが漂ってくる。香草で焼く子羊の脂の匂い、甘く煮詰めた葡萄の酢の匂い。その騒がしい匂いから逃げるようにして、イレーネ・フォン・ベルンハルトは自室の細長い窓辺に立ち、銀の刺繍針をそっと針山へ戻した。
二十四歳になった彼女の指先には、七年という歳月が刻んだ細かな針の跡がいくつも残っている。
母のアンナは、イレーネが十七の春に婚約を交わした日から、いつも同じ言葉を繰り返してきた。
『あなたはお姉ちゃんなのだから、少し待ちなさい。妹のフィオナは体が弱くて、器量も人並み外れて愛らしいのだから、先に良い嫁ぎ先を決めて安心させてあげなくては。長女のあなたがさっさと嫁いでしまっては、妹の立場がなくなってしまうでしょう?』
母の言葉は、いつも氷のように整っていて、娘を労わるふりをした刃だった。
父が早くに亡くなって以来、伯爵家の見栄と財政を守ることだけに執着してきた母にとって、従順で手先が器用な長女は、屋敷の帳簿を合わせ、妹の我儘をなだめるための便利な道具にすぎなかった。フィオナが風邪をひいたと言えば婚約の儀は延期され、フィオナが舞踏会で着るドレスが足りないと言えばイレーネの花嫁支度の予算が削られた。
それでもイレーネが今日まで耐え、微笑みを絶やさずにいられたのは、婚約者であるクラウス・フォン・リンデンブルクの存在があったからだ。
クラウスはベルンハルト領の隣にある、実直な騎士爵家の当主だった。派手な社交界を好まず、領地の土を耕し、古びた水路を直すことに汗を流す彼は、母アンナから『野暮な田舎侍』と見下されていた。だが、イレーネが母の都合で結婚を一年、また一年と先延ばしにされるたび、クラウスは一度として怒ることも、イレーネを責めることもしなかった。
彼は毎年、結婚が延びるたびに、小さな小包をイレーネに届けてくれた。
中に入っているのは、彼が領地の森や丘で見つけた植物を丁寧にスケッチした、一輪の刺繍の図案と、それに合わせた色鮮やかな絹糸だった。
一年目は、雪解けの泥の中から顔を出すスノードロップ。
二年目は、春の風に揺れる青い勿忘草。
三年目は、古い石垣の隙間にたくましく根を張る野茨の花。
四年目は、初夏の陽光を集めたような黄色の水仙。
五年目は、夏の終わりに紫の穂を揺らすラベンダー。
六年目は、秋の冷気に耐えて咲く白山茶花。
そして七年目の今年、彼が贈ってくれたのは、どんな日陰でも冬を越して青い葉を広げるアイビーの蔓と小花だった。
『イレーネ、君を待つ時間は僕にとって少しも無駄ではないよ。君がこのドレスを僕の前で着てくれる日を思い描きながら、僕は毎年、君に一番似合う花を探しているんだ』
彼の手紙に添えられた不格好な文字を思い出すたび、イレーネの胸の奥には、どんな木枯らしにも消えない小さな焚火が灯った。
イレーネはその図案を、自分の手で縫い上げた純白の絹のウェディングドレスの裾へ、一針一針、祈るように刺し続けてきた。七年分の花々は、ドレスの裾をぐるりと取り囲むようにして、まるで花冠のように鮮やかな輪を描いていた。
コンコン、と乱暴に扉が叩かれた。
返事をする間もなく、扉が勢いよく開かれ、母のアンナが滑り込んできた。その後ろには、絹の部屋着をだらしなく羽織った妹のフィオナが、膨れ面をして立っている。
「イレーネ、起きているわね。ちょうどよかったわ」
母は部屋の隅に置かれた衣装掛けの前に進み出ると、イレーネのドレスを包んでいた薄布を無造作に剥ぎ取った。七年分の花々が、朝の光を浴びて一斉に輝きを放つ。
「まあ、綺麗……! お母様、私、このドレスがいいわ!」
フィオナが歓声を上げ、ドレスの絹地に乱暴に手を伸ばした。
今日の正午、フィオナは王都の富裕な商人出身の准男爵と結婚式を挙げる手はずになっていた。だが、昨晩届いたフィオナの花嫁衣装は、流行のフリルを過剰にあしらったせいで、細身のフィオナには少し重すぎたのだ。
母アンナは満足そうに顎をしゃくった。
「見事な刺繍ね。フィオナのために王都から取り寄せたドレスは、どうにも仕立てが野暮ったくて気に入らなかったのよ。イレーネ、あなたのこの花嫁衣装をフィオナに貸しなさい。今日の結婚式で、フィオナが着るわ」
イレーネは息を呑み、母の冷え切った目を見つめた。
「……私の、ドレスです」
「分かっていますよ。あなたが七年もかけて縫っていたものね。でも、あなたと違ってフィオナのお相手は王都でも名のあるお方なのよ? 恥ずかしい格好で教会の祭壇に立たせるわけにはいかないでしょう。あなたはお姉ちゃんなのだから、今日くらい妹に譲りなさい。あなたの結婚式は、まあ、来年にでもまた新しい布を買ってあげますから」
当然の施しを要求するように、母は平然と言い放った。
フィオナもまた、さも当たり前のように微笑みながらドレスに指を滑らせる。
「ありがとう、お姉様。この裾の刺繍、少し田舎臭いけれど、遠目で見れば華やかでいいわね。私の結婚式のために、お姉様が夜なべして縫ってくれたと思えば、参列の方々も『美談だ』って褒めてくださるわ」
イレーネの心の中で、何かが音を立てて冷え切っていった。
母の口から出る『お姉ちゃんだから』という言葉を、これまで何百回、何千回と聞いてきただろう。そのたびに彼女は微笑み、妹のために自分の靴を譲り、髪飾りを譲り、時間を譲り、青春の七年間を差し出してきた。
けれど、このドレスだけは違った。
この裾に咲いている花は、母のためのものでも、妹の虚栄を満たすためのものでもない。
誰にも愛されず、後回しにされ続けたイレーネという一人の女を、七年間ただひたすらに尊び、慈しみ、待ってくれたクラウスの心そのものだった。
イレーネは静かに歩み寄り、母と妹の間に割り込んだ。そして、フィオナの手をドレスの裾から静かに、だが決して逆らえない力で払いのけた。
「……お姉様?」
フィオナが驚いて目を瞬かせた。
アンナが不快そうに眉を跳ね上げる。
「何をするの、イレーネ。聞き分けのない真似はおやめなさい。フィオナの支度が遅れてしまうでしょう」
イレーネは怒鳴らなかった。
声を荒らげることも、涙を流すことも、足を踏み鳴らすこともしなかった。
ただ、背筋をすっと伸ばし、母の目を真っ直ぐに見据えた。七年間、一度も母に向けたことのない、澄み切った静かな眼差しだった。
「お母様。このドレスはお貸しできません」
「何ですって? 妹の晴れの日なのですよ!」
「ええ。フィオナの結婚式です。だからこそ、フィオナ自身のために誂えられた衣装をお召しになるべきです。これは、私の花嫁衣装です。クラウス様が七年かけて私に贈ってくださった花を、私が自分の手で刺した、私だけのものです」
「たかが田舎侍の貧相な刺繍じゃないの! あなた、誰のおかげでこの屋敷で暮らせていると思っているの? 伯爵家の長女としての務めを忘れ――」
「忘れておりません」
イレーネは母の言葉を静かに遮った。
「伯爵家の長女としての務めは、昨晩の帳簿整理をもってすべて果たしました。妹の花嫁支度も、披露宴の手配も、持参金の計算も、すべて滞りなく終わらせてございます。ですが、私の心まで妹に差し出す務めは、神の前にも誓っておりません」
「イレーネ!」
母が激昂して手を振り上げた。
だが、イレーネはその手を避けることもなく、ただ静かに見つめ返した。その瞳に宿る絶対の拒絶に呑まれたのか、母の手は空中で震え、やがて力なく振り下ろされた。
「……もういいわ! なんて恩知らずな娘なの! フィオナ、行きましょう。こんな意地汚い姉のドレスなど、借りてやる必要はありません!」
母はフィオナの腕を引いて、忌々しそうに部屋を出ていった。フィオナもまた、「お姉様なんて大嫌い!」と捨て台詞を吐いて、バタバタと廊下を駆けていく。
バタン、と重い扉が閉まり、部屋に深い静寂が戻った。
イレーネは一人、冷たい床の上に立ち尽くした。膝がかすかに震えていたが、不思議と後悔も恐怖もなかった。むしろ、胸の奥を重く塞いでいた冷たい鉛が、さらさらと砂になって崩れ落ちていくような爽快感があった。
彼女は衣装掛けに歩み寄り、ドレスを丁寧に抱き上げた。
絹の柔らかな重みが腕に伝わる。
「……もう、あなたの言いなりにはなりません」
イレーネは小さく呟いた。
彼女は机の引き出しを開け、長年貯めていたわずかな私財と、クラウスからの手紙の束を小さな旅行鞄に詰めた。母や妹から与えられた高価な装飾品は、一つとして触れなかった。
そして、彼女は自分一人で、純白の花嫁衣装に袖を通した。
背中のくるみボタンを、手探りで一つずつ留めていく。七年の歳月が流れても、クラウスのために仕立てたドレスは、今のイレーネの体に驚くほど寸分の狂いもなく寄り添った。
鏡の前に立つ。
そこには、母の顔色を窺って目を伏せる『都合の良い長女』はいなかった。
自分の足で立つ、誇り高い一人の花嫁がいた。
正午、伯爵邸の正面玄関からは、華やかな馬車に乗った母と妹が、大勢の参列者とともに王都の教会へ向かって出発していった。歓声と楽隊の音が遠ざかり、屋敷がしんと静まり返る。
イレーネは裏口から、誰にも見咎められることなく屋敷を出た。
手には小さな旅行鞄。頭には短いヴェール。裾には、七年の花々。
乾いた晩秋の土を踏みしめながら、彼女は領地の境界にある古い丘へ向かって歩いた。
冷たい風がヴェールを揺らし、ドレスの裾を翻す。スノードロップ、勿忘草、野茨、水仙、ラベンダー、山茶花、そしてアイビー。色とりどりの刺繍が、枯れ草の広がる丘の道を鮮やかに彩っていく。
丘の頂には、一本の大きな樫の木と、小さな古い石造りの礼拝堂があった。
礼拝堂の前に、一頭の馬と、黒い外套をまとった背の高い男が立っていた。
クラウスだった。
彼の手には、今朝摘んだばかりの、野生の青紫蘇の葉と野菊を束ねた小さなブーケが握られていた。
イレーネが丘を登りきると、クラウスが顔を上げた。
彼は目を丸くし、それから、今まで見たこともないほど眩しそうに目を細めて微笑んだ。
「イレーネ」
彼は大股で駆け寄り、イレーネの手を取った。その手は、冷たい風に晒されていたイレーネの手をすっぽりと包み込むほど温かかった。
「妹君の結婚式は、どうしたんだい?」
「……出ませんでした」
イレーネは少しだけ恥ずかしそうに、けれど胸を張って答えた。
「母に、このドレスを妹に貸しなさいと言われました。だから私、初めてお母様に『嫌です』とお断りしたのです。そして、このドレスを着て、ここへ逃げてまいりました」
クラウスは驚いたように瞬きをした。
それから、低く喉を鳴らして笑い出した。悪戯が成功した少年のような、晴れやかで温かな笑い声だった。
「そうか。よくやってくれたね、イレーネ」
彼は膝をつき、ドレスの裾に視線を落とした。
「見事だな。僕が贈った花が、こんなにも美しく咲いている」
彼の手が、色鮮やかな刺繍の花々を愛おしそうに撫でた。
「七年間、君を待たせてしまった僕の至らなさを、君はこんなにも美しいものに変えてくれたんだね」
「いいえ」
イレーネは首を振った。
「待っていたのではありません。私は七年間、あなたに愛されていたのです。この花の一針一針が、私にとっての幸せでした」
クラウスは立ち上がり、彼女のヴェールをそっと押し上げた。
彼の琥珀色の瞳には、イレーネの姿だけがまっすぐに映っていた。妹の美しさと比べられることもなく、母の都合に振り回されることもない、ただ世界でたった一人の、愛する女の姿が。
「行こう、イレーネ。神父様が中で待っていてくださる」
「はい、クラウス様」
二人は手を取り合い、古びた礼拝堂の重い扉を押し開けた。
参列者も、華やかな楽隊も、豪華な料理もない。
けれど、ステンドグラスから差し込む柔らかな光の筋が、二人の足元を金色の絨毯のように照らしていた。
祭壇へ向かって歩き出すイレーネの足元で、七年分の花々が、風もないのに誇らしげに揺れていた。
それは、世界で一番贅沢で、世界で一番あたたかな、二人だけの婚礼の始まりだった。




