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「私より貯金が少ないなんて、がっかり」と妻に言われたので、家計を二人で見直すことにしました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/26

 妻が見たかったのは、僕の口座残高だった。


「ねえ、今いくら入ってる?」


 夕食の食器を拭いていたら、里緒に聞かれた。

 来年の春で、今の部屋の契約が更新になる。駅から少し離れれば、同じ家賃でもう一部屋増やせるらしい。日曜に里緒が見つけてきた物件を、僕も気に入っていた。

 引っ越しの相談だと思った。


「四十二万くらい」

「うそ。給料が入る前だから?」

「いや、今がそれくらい」


 里緒が手を差し出したので、銀行のアプリを開いて渡した。

 画面を見た妻の口から、小さく息が漏れた。


「私より稼いでるのに、私より貯金ないんだ。なんか、がっかり」


 拭いていた皿を、棚の手前に置いた。


「ねえ、今まで働いてきたお金、何に使ってたの?」

「家賃とか、生活費とか」

「それは分かるけど。普通、もうちょっと残るでしょ」


 僕たちは同い年で、今年三十になった。

 結婚して三年。僕は業務用資材を扱う会社の営業事務、里緒は医療機器会社の経理をしている。

 毎月の手取りは、僕が二十八万円前後。里緒は二十三万円だと聞いていた。


「そっちは、いくら貯まった?」

「三百万くらい」

「じゃあ、二人で三百四十二万か」


 里緒が顔を上げた。


「なんで足すの?」

「結婚したとき、そういう話だっただろ。生活費は僕が出して、そっちの給料から貯めようって」

「だからって、私の貯金を当てにしないでよ」


 聞き違えたかと思った。

 里緒はスマートフォンを僕に返し、自分のものを手に取った。


「自分の分くらい、自分で貯めておいてほしかったって話」

「それなら、生活費の分担を変えたい」

「今、その話する?」

「今だと思うけど」


 画面に触れていた指が止まった。


「私が貯めてるって言った途端、お金出してって?」

「そういう意味じゃない」

「そう聞こえるよ」


 食卓には、二人分の湯飲みがあった。

 片方は、去年の旅行で里緒が選んだものだ。持ち手がないのがいい、と言っていた。僕の分も色違いで買った。

 あの旅行の代金は、僕の口座から引き落とされている。


「一度、計算しよう。毎月いくら使ってるか、二人で見てから決めたい」

「今日じゃなきゃ駄目? 疲れてるんだけど」

「じゃあ、土曜日」

「分かったって」


 里緒は画面に視線を戻した。

 僕は残った皿を拭いた。さっきから同じところばかり、布巾でこすっていた。


     *


 家計を分けようと言い出したのは、里緒だった。


「共同口座を作って、毎月お互いに振り込むの、面倒じゃない?」


 結婚前、家具屋の帰りに寄った喫茶店だった。

 里緒は家計管理についての記事を見せながら、役割を分ければいい、と言った。


「航平が生活費を出して、私は貯める係。最低でも月五万は貯める。ボーナスも、できるだけ」

「家を買うお金とか?」

「うん。子供ができたらお金かかるし。毎月の貯金は、結婚前のお金とは分けておくね」


 僕はあのとき、頼もしいと思った。

 結婚式や新居の家具には、二人とも独身時代の貯金を使った。支払いが済んだ時点で、僕の手元には二十万円ほどしか残っていなかった。

 里緒は百二十万円残ったと話していた。就職してからの積立だという。


「最初は俺の方、全然残らないかもしれないけど」

「大丈夫。二人のお金なんだから」


 そう言って、里緒は僕が持っていた家具の見積書を自分のバッグに入れた。

 それからしばらくは、何か月かに一度、通帳を見せてくれた。


「今月も五万入れたよ」

「ありがとう」

「航平も、生活費ありがとう」


 いつから、見せ合わなくなったのだろう。

 一年目の終わりには、もう口頭で聞くだけになっていた。

 二年目には、僕も聞かなくなった。


 それでも、里緒が貯めているとは思っていた。

 貯金をしているか疑ったことはない。

 何のための貯金なのかが変わっていたなんて、考えもしなかった。


     *


 土曜の朝、僕は家計の記録を印刷した。

 口座残高が心細くて、一年ほど前から表にしていたものだ。

 先月、二人の暮らしに使ったお金は二十四万六千円だった。


 家賃と駐車場で十万円。

 食費が四万八千円、光熱水費が二万二千円。日用品が八千円。外食が二万五千円、ネットと動画配信が九千円。二人で契約している保険が一万四千円。

 残り二万円は、里緒の希望で二人で行った日帰りのドライブ代だった。高速代とガソリン代、それに入園料。僕の車は独身の頃に買ったものだが、二人で使った日の費用は生活費に入れていた。


 毎月同じ金額ではない。

 この月は遊びに使ったお金が多い。外出を控えた月は、二十二万円台に収まることもあった。

 車の税金や家電の買い替え、泊まりの旅行は、賞与から出していた。


「本当に作ったんだ」


 里緒は食卓の紙を見て、椅子に座らずに言った。


「座ってくれる?」


 向かいに腰を下ろした里緒へ、紙を一枚渡した。


「二十八万からこれを出すと、三万四千円。その中から僕の携帯と、会社での昼ご飯とかを払ってる」

「食費、高くない?」

「二人分で四万八千円」

「じゃあ、外食を減らせば?」

「うん。それは減らしていいと思う」


 先週の日曜、僕が家で食べようと言ったら、里緒は出かけたついでだからとパスタの店に入りたがった。

 けれど、そこで了承したのは僕だ。

 今さらあの日の会計まで持ち出すと、口論になる。


「節約もしたい。でも、分担も考えたい」

「私だって何にも使ってないわけじゃないよ。自分の携帯代とか払ってるし」

「僕も自分の分は払ってる。ここに載せたのは、二人で使った分だけ。ほかに払ってくれてるものがあるなら、入れたいから教えて」


 里緒は紙の端を指で押さえた。


「……洗剤とか、会社帰りに買ったりするよ」

「その分は引こう。いつもありがとう」


 僕はペンを持った。

 里緒は、具体的な金額を言わなかった。


「結婚したときの約束を続けるなら、将来使うお金がいくらあるか、二人で確認したい。給料を別々に管理したいなら、二人で生活費を出そう」

「私の給料、航平より少ないんだけど」

「同じ額じゃなくていい。収入に合わせればいいと思う」

「友達は、旦那さんが全部出してるよ」

「その家でどう決めたか、僕は知らない」


 里緒は僕を見て、また紙を見た。


「洗濯とか掃除とか、私もやってるじゃん」

「うん。そこも変えるなら一緒に考えたい」


 洗濯は里緒、風呂とトイレの掃除は僕。平日の料理は、先に帰った方が作っていた。里緒の帰宅が早い日が多いから、夕食を作ってもらう回数は僕の方が多かった。

 その手間を、なかったことにするつもりはない。


「家事で僕の方が足りないなら、増やす。でも、このまま生活費を払って、貯金が少ないって笑われるのは困る」

「別に笑ってないでしょ」

「がっかりしたって言っただろ」

「そういう意味で言ったんじゃない」

「じゃあ、どういう意味?」


 里緒が椅子を引いた。


「せっかくの休みなのに、朝からお金の話ばっかり」


 そのまま寝室へ入っていった。

 僕は紙を揃えた。用意したペンは、一本も使わなかった。


     *


 昼過ぎ、里緒は実家へ出かけた。

 夕方になって、食べて帰る、とメッセージが来た。

 冷蔵庫には二人分の豚肉があった。半分を冷凍して、残りを生姜焼きにした。


 食べ終わってから、何となくXを開いた。

 里緒のアカウントは知っていた。交際中に動画を送り合うため交換したもので、結婚後も互いにフォローしたままだった。

 僕がほとんど投稿しなくなっても、里緒はよく使っているらしかった。


 二日前の投稿があった。


『夫の貯金、私の六分の一以下だった。私より給料いいのに何で? 正直ちょっと冷めた』


 その下には、今日のもの。


『貯金ないの指摘したら、生活費を分担しろって資料まで出された。そういうところなんだよね』


 知らない人から返信がついていた。


『奥さんの貯金を当てにしてるんじゃない?』


 里緒はそれに答えていた。


『ほんとそれ。こっちはちゃんと貯めてきたのに』


 冷蔵庫の音が止まった。

 部屋が急に静かになった気がして、僕はテレビのリモコンを探した。

 つけても、内容は頭に入ってこなかった。


 昼間、里緒が黙っていた間、少しは考えてくれていると思っていた。

 口では認めなくても、数字を見れば分かると思った。


 さらに下へ送ると、僕の弁当の写真があった。

 前の日の煮物と、冷凍の唐揚げを詰めたものだ。里緒の弁当は、本人がいらないと言ったので作っていない。


『夫のお昼。節約家ってこういう人のこと? 私には無理』


 里緒が笑ったのは、写真を撮っていたからだったのか。

 あの朝、僕は「何?」と聞いた。

 妻は「何でもない」と言っていた。


 僕は三つの投稿を保存して、画面を閉じた。

 残った皿を洗う気になれず、水だけ入れて流しに置いた。


     *


 里緒が帰ってきたのは、夜の九時を過ぎてからだった。


「まだ起きてたんだ」

「話がある」


 僕の声を聞いて、玄関から寝室へ向かいかけた里緒が止まった。

 食卓には家計の紙ではなく、スマートフォンを置いていた。


「これ、読んだ」


 里緒は画面をのぞき込むと、眉を寄せた。


「……見てたの?」

「前からフォローしてるだろ」


 里緒は僕の向かいに座らなかった。


「名前、出してないじゃん」

「僕が読んだら、僕のことだって分かる」

「愚痴くらい言わせてよ。航平だって会社で言ってるでしょ」

「今日のこと、どうして生活費を全部出してるって書かなかったの?」


 里緒が口を閉じた。


「そこを省いたら、僕が何に使って貯金できないのか、読む人には分からないだろ」

「長くなるし」

「うん。でも、貯金を当てにしてるって言われたら、そうじゃないって言ってほしかった」


 里緒は椅子の背を握った。


「そんな真剣に受け取るものじゃないよ。みんな適当に書いてるんだから」

「弁当も?」

「あれは別に、悪い意味じゃなくて」

「里緒が食べる分なら嫌だって言うのも分かる。僕が自分で作って持っていく弁当を、どうして知らない人と笑うの」


 声がかすれた。

 水を飲もうと立つと、里緒がやっと椅子に座った。


「分かった。消すから」


 水道からコップに水を入れた。

 蛇口を閉めるまで、返事をしなかった。


「消してほしい。でも、消せば元どおりって話でもない」

「じゃあ、どうすればいいの?」


 僕はコップを持って席へ戻った。


「あの貯金は、何のためのお金?」

「……将来のため」

「誰の?」


 里緒は答えなかった。


「僕は、二人のためだと思ってた」

「だから、そうだってば」

「じゃあ、引っ越すときはそこから出す?」

「今、引っ越しは無理じゃない? 航平にお金がないなら」


 言い終わってから、里緒は目を伏せた。

 僕も何も言わなかった。

 壁の時計の秒針が、ずいぶん大きく聞こえた。


     *


 翌朝、里緒は投稿を消したと言った。

 確認すると、確かに三つともなくなっていた。


「もう書かない」

「うん」


 僕は卵を焼いていた。

 いつもより少し焦げて、端が茶色くなった。


「それで、昨日の話なんだけど」


 里緒は椅子に座ったまま、膝の上で指を組んだ。


「急に全部変えろって言われても困るから、今月は今までどおりにして。私もちょっと考える」

「分かった。来月からのこと、月末までに決めよう」


 二週間ほど時間はあった。

 僕は二つ案を作った。

 一つ目は、それぞれ生活費を出し、貯金も毎月いくらか共同で積み立てる方法。

 二つ目は、今の役割を続けて、二人の貯金の残高と使い道を毎月確認する方法だ。

 どちらも家事の分担は別に相談すると書いた。


 紙を渡したとき、里緒は頷いた。

 その週末には見ていなかった。

 翌週の水曜に聞くと、仕事が忙しいと言われた。


 月末の日曜、僕たちは里緒の実家へ行くことになった。

 話を聞いたのは、その前日の夜だった。


「お父さんが、一回二人で来なさいって」

「家計のこと、話したんだ」

「夫婦だけだと感情的になるからって」


 少し、ほっとした。

 僕の説明が下手なのかもしれない。

 第三者がいた方が話せるなら、その方がいい。


「分かった。紙、持っていくね」


 里緒は、紙は別にいいんじゃない、と言った。

 僕は持っていくことにした。


     *


 義父は、僕たちが座るのを待って切り出した。


「航平君。里緒から少し聞いたんだけどね」


 義母が茶を出してくれた。

 僕が礼を言うと、曖昧に笑った。


「結婚してるんだから、相手の貯金を責める前に、自分の生活を見直すことも必要じゃないかな」


 隣で里緒が、小さく頷いた。


「僕が里緒の貯金を責めたと、聞いていますか」

「お金を出せと言われたんだろう?」


 義父は里緒に尋ねた。

 里緒は僕の方を見なかった。


「生活費を分担したいとは言いました。僕の貯金が少なくて情けないと言われたので、それなら今の分担を変えたいと」

「情けないとは言ってない」

「がっかり、だったね」


 里緒の肩が動いた。

 僕は鞄から紙を出した。


「生活費は、今、こうなっています」


 義父が受け取り、義母も横からのぞいた。


「この金額は、二人合わせて?」

「僕の口座から出している分です」

「里緒は別に払ってるの?」


 義母の問いに、里緒が唇を尖らせた。


「だから、私は貯める方で」

「そうです。結婚するときに、二人で決めました。僕もそれで納得しています」


 僕はスマートフォンを開いた。

 古いメッセージを探すのに、前日の夜はずいぶん時間がかかった。

 家具屋の帰りに話したあと、里緒が送ってきたものだ。


『生活費係と貯金係で、目指せマイホーム!』

『毎月五万は絶対入れるね。前からのお金とは別にする』


 その下で、僕も賛成していた。


「ところが、今は僕が貯金を当てにしていると言われています。僕は何をどう見直したらいいのか、分からなくなっています」


 義父はしばらく画面を見てから、僕へ返した。


「里緒。その貯めたお金は、どうするつもりなんだ」

「どうって、すぐ使うわけじゃないし」

「そうじゃなくて。航平君と話したことは変わったのか?」


 里緒は膝の上のバッグを置き直した。


「私が貯めてきたのは本当でしょ」

「そこは疑ってないよ」


 僕が言うと、里緒は初めてこちらを向いた。


「貯めてくれてると思ったから、僕も生活費を払ってきた。三百万あるって聞いたときは、安心したんだよ」


 義母が、里緒の湯飲みを置き直した。

 まだ半分以上入っていた。


「お母さん、航平さんがいくら払ってるか、知らなかったわ。二人で出して、里緒はその残りから貯めてるんだと思ってた」

「だって、細かく聞かなかったじゃん」


 義母は何か言いかけて、口を閉じた。


 僕は、今日こそ相談ができると思っていた。

 けれど義父が最初に言った言葉も、里緒がそれに頷いた顔も、頭から離れなかった。

 なぜ生活費のことを伏せて話すのか。

 僕を注意してもらえば、それで終わると思ったのか。


「航平君、事情も聞かずに悪かった」


 義父が頭を下げた。

 僕は慌てて首を振った。


「いえ。謝っていただきたいわけでは」


 そこまで言って、言葉が続かなかった。

 誰に何を言ってほしくて、ここへ来たのだろう。


     *


 帰りの車で、里緒は助手席の窓を見ていた。

 赤信号で停まったとき、ようやく口を開いた。


「あそこまで言わなくてもよくない?」

「何が?」

「お父さんたちの前で。私だけ悪いみたいになった」


 僕はハンドルに置いた手を握り直した。


「何を相談するって、伝えてたの」

「生活費のこと」

「僕が全部払ってることは?」

「言う前に、お父さんが一回来いって言ったから」


 信号が青になった。

 後ろの車が動くのをミラーで確認して、アクセルを踏んだ。


「今日、直せたよね」

「何を」

「お父さんが僕に言ったとき。そういう話じゃないって」


 里緒は答えなかった。


「外食、減らせばいいんでしょ」


 しばらくして、そう言った。


「減らすよ。旅行もしばらく行かない。それでいい?」

「里緒」

「何」


 家まではあと十五分だった。

 いつもなら、途中のスーパーに寄って翌日のパンを買う。

 僕は曲がらず、そのまま家に向かった。


「僕、別々に暮らしたい」


 里緒がこちらを見た。

 僕は前を向いたまま続けた。


「このまま一緒に暮らして、何もなかったことにするのは無理だと思う」


     *


「お金のことで、そこまでする?」


 家に着いてから、里緒は何度もそう聞いた。


「分担すればいいんでしょ。分かったって言ってるじゃん」

「さっきまで、その話に答えてくれなかっただろ」

「だから、今答えてるじゃない」


 僕はソファの端に座った。

 里緒は立ったままだった。


「最初の日に、そう言ってくれてたら違ったと思う」

「遅かったら、もう駄目なの?」


 言われて、すぐには答えられなかった。

 里緒と付き合い始めた日のことを思い出した。

 駅の改札前で別れたあと、僕の電車が止まったと知って、わざわざ引き返してきてくれた。

 一緒に待つと言われて、嬉しかった。


 あの人と暮らしているつもりだった。


「貯金、二人のものってことでいいよ」


 里緒が言った。


「残高も見せる。これで、ほかに何が駄目?」


 僕は顔を上げた。


「ネットで書いたことは、本当はどう思ってた?」

「だから、愚痴だって」

「僕の弁当、笑いたくなるようなものだった?」

「そんなこと気にしてるの?」


 里緒が苛立った顔をした。

 僕は黙った。

 里緒も、少し遅れて口を閉じた。


「……今のは、ごめん」


 ようやく聞けた言葉だった。

 でも、僕はそこで泣くことも、ほっとすることもできなかった。


「少し、一人で考えたい」


 すぐ離婚届を出したわけではない。

 僕は翌週から、会社に通える場所に短期の部屋を借りた。

 家具付きで、敷金と礼金はなかった。最初の一か月分と手数料で六万八千円。手元の貯金から払うと決めて、契約した。

 元の部屋の家賃は、退去するまで僕が払う。その間、里緒の食費や光熱費、日用品は里緒が出す。そう決めて、家賃の二重払いが長引かないよう、次の話し合いの日も決めた。

 余裕はなかった。それでも、元の家でこれまで払っていた分が減れば、給料で何とか続けられる計算だった。契約のことも、家具をどうするかも、そのままにはできなかった。


 一人で眠った最初の夜、何度も目が覚めた。

 知らない冷蔵庫の音が気になった。

 妻がいないから楽だ、とは思えなかった。

 ただ、朝作った弁当を、蓋を閉める前に眺めてしまった。


 昨日の残りと卵焼き。

 これを誰かに撮られることは、もうない。


     *


 別居から二週間後、僕たちは駅前の喫茶店で会った。

 里緒の提案で、結婚前にも使った店だった。

 僕が先に着いていると、彼女は迷わず向かいに座った。


「冷静になった?」


 その一言で、用意していた話の順番が分からなくなった。


「僕は、怒って飛び出しただけだと思ってる?」

「そういう意味じゃないけど」


 里緒はバッグから通帳を出した。

 結婚前からの口座と、結婚後に毎月五万円を入れていた口座。後者の残高は、ほぼ百八十万円だった。

 約束は守っていたのだ。

 見たとき、胸が詰まった。


「ちゃんと貯めてたんだね」

「だから言ってるでしょ」

「うん」


 僕は通帳を閉じた。


「これを、最初の日に一緒に見たかった」


 里緒は僕の顔を見た。

 それから、通帳をバッグにしまった。


「お金、必要なら出すから。戻ってきてよ」


 必要なら出す。

 その言い方が、気になってしまった。

 気にしすぎだろうか。もう信用できない相手だから、何を言われても引っかかるのだろうか。

 コーヒーの表面に、窓から入った光が映っていた。


「三年も一緒にいたんだよ」

「うん」

「貯金が少ないなんて、もう言わない。それでいいじゃん」


 僕はカップから手を離した。


「里緒が何に怒ってるか、僕にはまだ分からない」

「怒ってないよ」

「実家の帰りから、ずっと怒ってるように見える」


 里緒はストローの袋を折った。彼女の前には、アイスティーがあった。


「そりゃ、傷ついたよ。別居したいなんて、急に言われたら」

「僕も、がっかりしたって言われて傷ついた。投稿も、実家でのことも」


 里緒が、小さく頷いた。

 でも、そのあとに言った。


「私、そんなにひどいことしたかな」


 僕は返事を探した。

 傷ついた箇所を、また一つずつ説明すればいいのだろうか。

 何度説明したら、里緒は納得するのだろう。


「離婚したい」


 口に出すと、思っていたより小さな声だった。

 里緒は折りかけの袋をテーブルに置いた。


「……お金、半分欲しいってこと?」


 僕は首を振った。


「一緒に暮らすのを、やめたいってこと」


     *


 その後の話し合いは、二人だけでは進まなかった。

 僕は専門家に相談し、預金や支払いの資料を揃えた。里緒も、自分で相談先を探した。

 互いに確認を取りながら、書面に残していった。


 里緒は最初、口座の名義が自分なら貯金は自分のものだと思っていた。

 僕の四十二万円も、結婚前の残りや、その後の出入りを調べた。ほかの財産や支払いも一緒に整理したので、単純に残高を足して割るだけでは済まなかった。

 里緒が結婚前に貯めたお金を、僕がもらうようなことにはしなかった。


 僕たちは、合意した清算を済ませた。

 家賃も家具も、どちらかが気に入らないからと放っておけるものではなかった。部屋を引き払い、それぞれ別の住まいを決めた。

 離婚が成立したのは、別居から三か月ほど経ってからだ。


 最後に荷物を運び出した日、里緒は空になったリビングに立っていた。


「本当に、これでいいの」


 僕は玄関で靴を履きかけていた。

 立ち上がって、彼女を見た。


「うん」

「私のこと、嫌いになった?」


 答えるまでに、少し時間がかかった。


「一緒にいるのが、怖くなった」


 里緒の顔が歪んだ。

 言いすぎたかと思った。それでも、別の言葉に言い換えることはできなかった。


 差し出された鍵を受け取った。

 管理会社へ返す二本の鍵を、封筒に入れた。


     *


 一人暮らしの部屋は、一階の角部屋だった。

 以前の家より狭く、駅からも遠い。

 休日の午前中に洗濯を済ませると、もう誰の予定もなかった。


 掃除をして、スーパーへ行って、昼を食べる。

 テレビをつけ、途中で消す。

 何度か、里緒ならここで何を言うだろうと考えた。

 あんなに話が通じなかったのに、普段はどうでもいいことをよく話していた。


 月末、口座にお金が残っていた。

 清算で移ったお金を除いても、毎月の給料から六万円を別の口座へ移せた。

 翌月も、同じ金額を移した。


 休日の外食を一回増やしても、残った。

 欲しかった靴を買うまで、三週間迷った。買って帰り、玄関に置いたまま、少し笑ってしまった。

 誰に説明しなくてもよかった。


 離婚して八か月が過ぎた頃、里緒から連絡が来た。

 必要な手続きは終わっていたが、荷物の確認などがあったため、連絡先は消していなかった。


『一度会えない? 謝りたいことがある』


 僕は一日考えてから、昼間なら、と返した。


     *


 店は、駅ビルのカフェにした。

 結婚前の思い出がある喫茶店には、行きたくなかった。


 里緒は、以前と同じコートを着て来た。

 店員が注文を聞きに来る前に、僕を見た。


「今日は、それぞれで払おう」

「うん」


 注文を終えると、里緒はバッグから小さなノートを出した。


「今、家計、つけてるんだ」


 僕は頷いた。


「家賃と、電気とか、食べる分とか。全部払うと、本当に残らないね」


 ノートは開かなかった。

 表紙の角を、親指でなぞっていた。


「部屋を決めたときは、給料で足りると思ったの。前より狭いし、家賃も安いし。でも、前のまま使ってると足りなくて」


 僕はコーヒーを飲んだ。


「カードの引き落としが来て、何にこんなに使ったんだろうって。私、航平に同じこと言ったんだなって思った」


 里緒の目が赤くなった。


「服とか、外で食べるのとか、減らした。美容院も変えた。貯金、取り崩す月もあったから」


 里緒は、ノートに目を落とした。


「結婚してたとき、五万を貯金に回したら、残りは使っていいって思ってた。会社でのお昼とか、友達との食事とか、服や化粧品、美容院にネイル。ひとつずつは払えるからって、合計を見てなかった。ボーナスも、友達との旅行や買い物に使ってた」


 新しい服を見せてもらったことも、旅行の写真を見たこともある。

 約束の五万円を貯めているなら、そのほかをどう使うかは里緒が決めればいい。僕もそう考えて、聞かなかった。


「生活費が増えたのに、最初は同じように使っちゃって」

「そう」

「仕事は辞めてないよ。そこまで困ってるわけじゃなくて」


 僕の顔をうかがうように、急いで付け足した。


「……お金を借りに来たんじゃないから」

「うん」


 里緒はようやくノートから手を離した。


「私、一人で三百万貯めたと思ってた」


 声が小さくなった。


「航平が払ってくれてた分、知ってたのに。自分の口座に入ったら、自分だけのお金みたいになってた」


 僕は返事をしなかった。


「あのとき、通帳を見せるだけでよかったんだよね」


 僕が喫茶店で言ったことを、覚えていたらしい。

 里緒は口元を指で押さえた。


「お母さんにも言われた。生活費を出してもらいながら貯めたお金で、相手を見下すのは違うって。あのときは、お母さんまで航平の味方するんだって思った」


 店員が、隣の席の皿を下げに来た。

 里緒は黙って、その人が去るのを待った。


「ごめんなさい」


 僕はテーブルの上のカップを見た。

 別居前に、この言葉を待っていた夜があった。


「ネットに書いたことも。航平が全部払ってるって書いたら、自分が文句を言われるの、分かってた」


 指先が少し冷たくなった。


「実家でも?」


 里緒は頷いた。


「お父さんが最初に言ったとき、止めなきゃいけなかった。分かってた。でも、言えなかった」


 僕は息を吐いた。

 あの日、聞きたかったことだった。


「そうだったんだ」

「ごめん」


 里緒は泣いていた。

 僕は紙ナプキンを、テーブルの真ん中へ寄せた。


 落ち着くまで待って、もう一杯頼むか聞いた。

 彼女は首を振った。


「今なら、ちゃんとやれると思う」


 分かっていたのに、胸が重くなった。


「家計も、二人で見て。お金のこと、馬鹿にしたりしない。もう一度、考えてくれないかな」


 僕は、カップを置いた。


「謝ってくれたことは、受け取る」


 里緒が顔を上げた。


「でも、やり直すつもりはない」


 彼女は唇を噛んだ。


「そんなに、戻れない?」


 頷いた。

 今度は、答えるまで迷わなかった。


「今の生活を、また一緒に暮らすための待ち時間にはしたくないんだ」


 里緒はしばらく僕を見た。

 それからノートをしまい、濡れたナプキンを小さく折った。


「……分かった」


 会計は別々にした。

 店を出て、里緒は改札へ、僕は階段へ向かった。

 途中で振り返らなかった。


     *


 松岡紬と再会したのは、その翌月だった。

 以前、僕の会社で派遣社員として働いていた人だ。

 契約が終わってからは会っていなかったが、同じ部署にいた人の送別会で隣の席になった。


「岸本さん、今もお弁当ですか」

「うん。だいたいは」

「あの大きい卵焼き、まだ作ってる?」


 何のことだろうと考えて、思い出した。

 会社の電子レンジの前で、弁当の話をしたことがあった。

 卵を二個使うと言ったら、一人分に二個は贅沢だと紬は笑った。


「まだ二個」

「いいなあ。私、つい一個にして、何だか薄いものを食べてる」


 紬も僕と同い年だった。

 今は別の会社で社員として働いているという。

 離婚したことは、その席で自然に話した。

 驚いた顔はしたが、事情を細かく聞いてはこなかった。


 送別会の帰り、幹事から写真が届いた。

 紬は連絡用のグループに、店の料理の写真も足してくれた。

 僕が礼を返すと、翌日、個別にメッセージが来た。


『卵焼き用のフライパン、どこの使ってます? そろそろ買い替えたくて』


 型番を調べて送った。

 買い替えた報告が来た。

 数日後、今度は卵焼きの写真が送られてきた。少し形が崩れていた。


『道具だけの問題じゃなかったです』


 僕は電車の中で笑ってしまった。


     *


 初めて二人で昼を食べたのは、その二か月後だった。

 紬が行きたいという定食屋で、焼き魚が評判らしかった。

 僕の家からは電車で二十分ほど。駅から店へ歩く途中、小雨が降り始めた。


「天気予報、曇りって言ってたのに」


 紬はバッグから折り畳み傘を出しかけて、店の看板を見つけた。


「あそこ! 走れる?」


 軒先へ駆け込んだとき、僕たちは二人とも少し笑っていた。

 席に案内されると、紬はメニューを開いたまま動かなくなった。


「焼き魚じゃなかったの?」

「そのつもりだったんだけど、生姜焼きが」

「生姜焼きが?」

「呼んでる」


 僕が笑うと、紬も笑った。

 結局、彼女は生姜焼き、僕は鯖の塩焼きを頼んだ。


 皮の端がぱりっとして、箸を入れると中の身がほぐれた。

 大根おろしに醤油を少し垂らす。味噌汁には細く切った油揚げが入っていた。

 紬は生姜焼きをひと口食べ、ご飯を口に運んでから、強く頷いた。


「正解だった」

「鯖もおいしいよ」

「それは困る。次も迷う」


 食べ終わったあと、僕は伝票を取った。


「今日は僕が」

「え、私が誘ったのに?」


 紬が手を出した。


「じゃあ、ごちそうする」

「いや、そこまでは」

「私もそこまでは、だよ」


 伝票を間に置いて、二人で笑った。


「じゃあ、それぞれで」

「うん。でも、次に岸本さんが誘ってくれたら、相談には乗る」


 次。

 その言葉が嬉しくて、僕は店を出る前に、来月の休みを聞いた。


     *


 紬との付き合いは、すぐには始まらなかった。

 月に一度、昼を食べた。

 二度目は僕が店を探した。三度目は、紬が前から行きたかったという小さな水族館へ行った。

 昼を食べる店で迷い、二人とも空腹になって、結局すぐ近くのうどん屋に入った。


 四度目に会う約束をしたとき、僕は離婚のことをもう少し話した。

 元妻の悪口を聞かせるつもりはなかったが、何も言わないまま近づくのも嫌だった。


「家計のことで、うまく話ができなくなったんだ」


 駅前のベンチだった。

 紬は自動販売機で買ったお茶を、両手で持っていた。


「お金の話って、難しいよね」

「うん。僕も、もっと早く確認すればよかったと思う。決めたから大丈夫って、放ってた」


 紬は頷いた。


「私、家計簿、三回挫折してる」

「三回」

「四回目は、買い物したらその日のうちに入れるって決めて、今、二週間」

「続いてるね」

「まだ褒めないで。ここからだから」


 そう言ったあと、紬は少し考えた。


「私、思ってるより使ってるときあるんだよね。だから、ちゃんとしてる人です、とは言えない」

「僕も、別にちゃんとしてるわけじゃないよ」

「じゃあ、分からないことは聞こう」


 紬がこちらを見た。


「お金だけじゃなくて。何か嫌だったら、言ってほしい。私も言うから」


 僕は頷いた。

 簡単な約束だと思った。

 けれど、守り続けるにはたぶん、何度も話す必要がある。


「聞いて、すぐ直せないときもあると思う」

「それも言ってよ。黙られるより、その方が分かる」


 僕はお茶の蓋を閉めた。

 もう少し一緒にいたかった。


     *


 五度目に会った帰り、僕から付き合ってほしいと伝えた。

 紬は驚いて、それから困ったように笑った。


「今日、私から言おうと思ってた」


 僕は変な声を出してしまった。

 紬が笑い、僕も笑った。


 帰宅して、買ってきたパンを冷凍庫へ入れた。

 二人で駅の店に寄り、翌朝の分をそれぞれ選んだものだ。

 紬は買いすぎたと言いながら、袋の中を何度ものぞいていた。


 スマートフォンが鳴った。


『帰りました。パン、もう一個食べたい』


『明日の朝の分じゃなかった?』


『そうなんだけど』


 僕は椅子に座って笑った。

 結局、彼女が食べたのかは聞かなかった。


     *


 付き合って半年になる頃には、互いの家に行くことも増えた。

 僕の部屋には、紬が使うマグカップが一つ置かれた。

 紬の部屋には、僕が読みかけた本があった。


 ある土曜日、僕の家で晩ご飯を作ることになった。

 紬がスーパーの袋を台所へ置いた。


「いくらだった?」

「二千八百四十六円。レシート、袋に入ってる」


 僕が財布を出すと、紬は冷蔵庫を開けた。


「今日は全部じゃなくていいよ。牛乳、私が持って帰るから」

「牛乳?」

「朝の分、切らしたの。あと、このプリンも私の」


 袋から、小さなカップが二個出てきた。


「二個あるけど」

「一個は明日」


 僕が黙って見ていると、紬は笑った。


「欲しかった? 一個あげるよ」

「ありがとう」

「じゃあ、牛乳とプリンは私が出すから、残りを半分。細かいのは今度でいいから」


 財布から千円札と小銭を出して渡した。

 紬は受け取って、鞄へしまった。

 それで話は終わった。


 僕は玉ねぎの皮をむいた。

 隣では、紬が豚肉のパックを開けていた。


「航平、これ、どのくらい生姜入れる?」

「僕、結構入れるけど」

「私も多い方が好き。ちょっと残して、あとで足そうか」


 下ろした生姜の匂いがした。

 フライパンに肉を広げると、油が小さく跳ねた。紬が半歩下がり、僕の足を踏んだ。


「ごめん」

「大丈夫」


 二人で立つには、少し狭い台所だった。


     *


 その夜、紬がお風呂に入っている間に、僕は家計の記録をつけた。

 買い物の分を入力して、今月の残りを確認する。

 以前と同じ表だ。

 使う人の欄だけ、一人分になっている。


 口座の残高は、あの頃より増えていた。

 でも、紬に見せて、自分はもうがっかりされない男になったと証明したいわけではなかった。


 風呂場の扉が開いた。


「あ、ごめん。何かしてた?」

「家計簿。もう終わった」

「偉い。私、昨日の入れるの忘れた」


 紬は鞄から財布を取り出し、レシートを二枚抜いた。

 食卓の端の椅子に座って、自分のスマートフォンへ打ち込み始めた。


「うわ。今月、本買いすぎた」

「何冊?」

「聞かないで」


 僕が顔を向けると、紬は画面を傾けた。


「六冊。まだ二冊しか読んでない」

「僕の家に置いていった本は?」

「それ入れて七冊。忘れてた」


 笑いながら数字を直していた。

 僕はパソコンを閉じて、冷蔵庫からプリンを二つ出した。


「今、食べる?」

「食べる」

「明日の分も、食べていいの?」

「うん。やっぱり今、二人で食べよう。スプーン、私が出す」


 引き出しが開く音がした。

 僕は食卓の紙を端へ寄せて、二人分の場所を空けた。


~完~

お読みいただき、ありがとうございました。


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