婚約破棄ですか? では、王国の借金もお返しくださいませ
「クラリス・フォン・アルヴェイン! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王立学院の卒業記念舞踏会。
国王夫妻をはじめ、国内の有力貴族が見守る大広間で、第一王子レオナルドは高らかに宣言した。
彼の腕には、桃色の髪をした男爵令嬢ミレイユが寄り添っている。
対するクラリスは、扇を閉じると静かに首を傾げた。
「婚約破棄、でございますか」
「とぼけるな! 貴様がミレイユを階段から突き落とし、教科書を破り、さらには毒を盛ろうとしたことも分かっている!」
「まあ」
クラリスは驚いたように目を瞬かせた。
だが、その顔に焦りはない。
むしろ、どこか退屈そうですらあった。
ミレイユがレオナルドの胸に顔を伏せる。
「わ、わたしはクラリス様を責めたくありません。ただ、殿下がわたしのために怒ってくださるお気持ちが、うれしくて……」
「ミレイユ。君はどこまでも優しい」
「殿下……」
二人は見つめ合った。
卒業舞踏会の会場でなければ、そのまま接吻でも始めそうな雰囲気である。
クラリスは小さく息を吐いた。
「殿下。婚約破棄そのものについては、承知いたしました」
「ふん。ようやく己の罪を認めたか」
「いいえ。わたくしは何ひとつ認めておりません。ただ、婚約の継続を望まないという点で、殿下と意見が一致しただけでございます」
会場がざわめく。
レオナルドの顔が赤くなった。
「この期に及んで強がりを!」
「強がりではございません」
クラリスは侍女に目配せした。
運び込まれたのは、黒い革で装丁された分厚い帳簿だった。
「それでは、婚約解消に伴う精算を始めましょう」
「精算だと?」
「はい。まず、殿下が学院入学以降にお使いになった交際費、衣装代、宝飾品代、狩猟大会の開催費用。そのうち王家の予算を超過した分は、すべてアルヴェイン公爵家が立て替えております」
クラリスが帳簿を開く。
「金貨四万八千二百枚でございます」
笑みを浮かべていたレオナルドの頬が引きつった。
「な、何を馬鹿な……」
「続きまして、北部飢饉の際に我が公爵家が貸し付けた救援金が、金貨十二万枚。王都の水路整備費が八万枚。国境砦の修繕費が五万六千枚」
ページがめくられるたび、宰相の顔から血の気が引いていく。
「さらに、殿下がミレイユ様へお贈りになった首飾り、絹のドレス、別邸、白馬三頭についても、公爵家の商会に代金が支払われておりません」
「嘘よ!」
ミレイユが叫んだ。
「殿下は全部、ご自分のお金で買ってくださったわ!」
クラリスは彼女の首元に視線を向ける。
「その首飾りの留め金をご覧くださいませ。小さな鷹の刻印があるでしょう?」
ミレイユが震える手で首飾りを外した。
確かに、留め金には鷹が刻まれていた。
「アルヴェイン公爵家の宝石商が扱った品である証です。代金は金貨二千枚。まだ一枚もいただいておりません」
「レオナルド!」
ついに国王が立ち上がった。
王子は青ざめ、後ずさる。
「ち、父上。これはクラリスの罠です! それより、彼女がミレイユにした悪事を……」
「では、そちらも確認いたしましょう」
クラリスが扇を一度鳴らした。
大広間の扉が開き、学院の警備責任者と医務官、数名の侍女が入ってくる。
最初に口を開いたのは警備責任者だった。
「ミレイユ嬢が階段から落ちたとされる時刻、クラリス様は図書塔におられました。入退室記録と、司書を含む十二名の証言がございます」
続いて医務官が進み出る。
「教科書については、ミレイユ嬢ご本人が古書店へ売却した記録が見つかりました。破られたとされる本は、それとは別の本です」
最後に、クラリスの侍女が銀の小瓶を掲げた。
「毒物とされていたものは、砂糖水でございました」
レオナルドが目を見開く。
「そんなはずはない! ミレイユ、君は確かに毒を飲まされたと……」
「わ、わたしは……」
ミレイユの瞳が泳ぐ。
クラリスは穏やかに問いかけた。
「毒を盛られたはずの日、ミレイユ様は三日間も意識不明だったそうですね」
「そ、そうです!」
「では、なぜ翌朝、王都の菓子店で限定の蜂蜜菓子を購入なさったのですか?」
会場のあちこちから失笑が漏れた。
「購入証明書がございます。店員も、あなたがご自身で来店したと証言しております」
「それは……体調がよくなったから……」
「毒による意識不明から一晩で回復し、朝から菓子店に並べるとは、驚異的な生命力ですこと」
笑い声が大きくなる。
ミレイユは真っ赤になった。
レオナルドはその肩をつかむ。
「どういうことだ。君は私に嘘をついたのか?」
「だって!」
ミレイユは涙を浮かべた。
「殿下が、クラリス様さえいなければわたしを妃にできるっておっしゃったから! だから、わたし……殿下のために!」
「私は、そこまでしろとは言っていない!」
「うそ! 証拠なんてどうとでもなるって笑っていたじゃない!」
大広間が静まり返った。
レオナルドの口が半開きになる。
国王はこめかみを押さえた。
「この愚か者を連れていけ」
「父上!」
「第一王子レオナルド。お前を王位継承者から外す。虚偽の証言によって公爵令嬢を陥れ、王家の信用を傷つけた責任は重い」
近衛兵がレオナルドの両脇を固める。
ミレイユも逃げようとしたが、侍女たちに取り押さえられた。
「待って! わたしは未来の王妃なのよ!」
「いいえ」
クラリスが微笑む。
「あなたは、王家から横領した品々を身につけた債務者です」
「嫌よ! こんなのおかしいわ!」
「おかしくありません。借りたものは返す。嘘をつけば信用を失う。当然のことでしょう?」
ミレイユの首から宝石が外される。
耳飾りも、指輪も、髪飾りも。
最後に残ったのは、男爵家から持ってきた質素な靴だけだった。
華やかな舞踏会の中央で、彼女は泣き崩れた。
一方、レオナルドはなおもクラリスを睨みつけていた。
「貴様は私を愛していたはずだ! これほどの恥をかかせて、後悔しないのか!」
クラリスはしばらく彼を見つめた。
昔の自分なら、その言葉に傷ついていたかもしれない。
十歳で婚約して以来、彼女は王妃となるために生きてきた。
歴史、外交、法律、経済。
眠る時間さえ削り、誰よりも努力した。
それなのに彼は、その努力を「可愛げがない」の一言で片づけた。
愛していたのは、きっと彼ではない。
彼とともに築けると信じた、この国の未来だった。
「後悔などいたしません」
クラリスは晴れやかに答えた。
「わたくしが愛していたレオナルド殿下は、誠実で、責任感があり、民を思いやる立派な方でした」
王子の表情に、かすかな希望が浮かぶ。
しかし、クラリスは続けた。
「そのような方は、最初からどこにもいなかったようです」
近衛兵たちがレオナルドを連れていく。
彼の叫び声は、重い扉が閉まると同時に聞こえなくなった。
国王は疲れ切った顔でクラリスに向き直った。
「クラリス嬢。愚息のしたことについて、王家を代表して謝罪する。どうか貸付金については、これまでどおりの返済期限で……」
「陛下」
クラリスは優雅に一礼した。
「婚約は、両家の信頼を前提としたものでございました。その婚約が破棄された以上、特別な支援を続ける理由はございません」
「では……」
「貸付金は契約どおり、婚約解消から三十日以内に一括でご返済くださいませ」
国王は椅子に崩れ落ちた。
王国に、それだけの金はない。
返済のためには、王家が所有する広大な直轄地と鉱山の一部を手放すしかないだろう。
そのとき、隣国からの来賓として舞踏会に参加していた第二皇子アレクシスが前へ出た。
「クラリス嬢。この国との話が終わったのなら、私にも少し時間をもらえないだろうか」
「どのようなご用件でしょう」
「我が帝国では、新しい通商制度を任せられる人物を探している。あなたほど数字と契約に強い者は見たことがない」
アレクシスはクラリスの前にひざまずいた。
差し出したのは求婚の指輪ではなく、帝国商務長官の紋章だった。
「まずは私の国で、あなたの力を貸してほしい。結婚の申し込みは、私があなたから信頼を得てからにする」
クラリスは目を見開き、それから楽しそうに笑った。
「筋の通ったお申し出ですこと」
その一年後。
クラリスが主導した新通商路により、帝国の税収は倍増した。
功績を認められた彼女は正式に商務長官となり、そのさらに二年後、何度も求婚を断られながら誠実に努力を続けたアレクシスと結婚した。
一方、レオナルドは王位継承権を失い、辺境の小領地へ送られた。
だが、帳簿の読み方すら知らない彼に領地経営ができるはずもない。
ぜいたくをやめられず、一年で借金まみれになったという。
ミレイユは詐欺と窃盗の罪で家名を失い、宝石商への返済のため、長く働くことになった。
後年、二人はそれぞれクラリスへ手紙を送った。
レオナルドは復縁を求め、ミレイユは自分を侍女として雇ってほしいと懇願した。
クラリスは手紙を一読すると、秘書に尋ねた。
「本日の予定は?」
「陛下との経済会議のあと、アレクシス殿下との晩餐でございます」
「そう。では、その手紙は処分しておいて」
「返事はなさらないのですか?」
クラリスは窓の外を見た。
整備された街道を荷馬車が行き交い、市場には人々の明るい声が響いている。
彼女がかつて夢見た以上の未来が、そこにはあった。
「返事なら、もう差し上げましたわ」
クラリスは微笑んだ。
「借りたものは返す。嘘をつけば信用を失う。そして、捨てた宝石は二度と戻らない。それだけのことです」
彼女は過去を振り返ることなく、光の差す執務室へと歩いて
第二部 捨てた宝石を欲しがる者たち
第一章 届かなかった二通の手紙
帝国商務長官クラリス・フォン・アルヴェインの朝は、夜明け前に始まる。
窓の外がまだ藍色に沈んでいるころ、彼女は執務室へ入り、前日に届いた報告書に目を通す。
北方街道の通行量。
港湾都市に入った外国船の数。
小麦、鉄、塩、羊毛の相場。
書類に並ぶ数字は、クラリスにとって人々の暮らしそのものだった。
小麦の値段が上がれば、パンが買えずに泣く子どもが増える。
鉄の輸送が滞れば、農具を直せない農民が出る。
街道の通行量が減れば、宿屋も食堂も仕立屋も仕事を失う。
かつてのレオナルドは帳簿を見るたびに、「数字など退屈だ」と顔をしかめていた。
けれどクラリスは知っていた。
数字を軽視する為政者は、やがて数字に復讐される。
「長官閣下」
秘書官のエミリアが、銀盆に二通の封書を載せて入ってきた。
「例の手紙でございます」
「例の?」
「レオナルド元殿下と、ミレイユ嬢からのものです」
クラリスは羽根ペンを止めた。
二人が失脚してから、すでに四年が過ぎている。
レオナルドは辺境に小さな領地を与えられたものの、ぜいたくを改められず、わずか一年で破産した。
その後は王都の古びた屋敷へ移され、名目上は貴族でありながら、実質的には監視下に置かれている。
ミレイユは詐欺と窃盗の罪を問われ、宝石商への返済のために働いているはずだった。
「内容は?」
「元殿下は復縁を。ミレイユ嬢は、クラリス様の侍女として雇ってほしいと」
「そう」
クラリスは封を開けなかった。
「処分しておいてちょうだい」
「よろしいのですか?」
「構いません」
それだけ答え、クラリスは再び報告書へ目を落とした。
だがエミリアは立ち去らなかった。
「まだ何か?」
「差出人の印章が、通常と異なります」
エミリアは二通の封書を裏返した。
赤い封蝋の中央に、翼を広げた三つ首の鴉が刻まれている。
クラリスの表情が変わった。
「この印章は」
「西方諸国で活動している秘密結社、黒鴉商会のものです」
黒鴉商会。
商会を名乗ってはいるが、実態は密輸、贋金、買収、暗殺まで請け負う犯罪組織だった。
近年、帝国が新しい通商制度を導入したことで、密輸によって利益を得ていた者たちは大きな打撃を受けた。
その制度を作ったのがクラリスである。
「手紙を検査室へ」
「かしこまりました」
「それから、王国にいる密偵へ連絡を。レオナルドとミレイユの周囲を調べさせなさい。本人たちには気づかれないように」
エミリアが一礼し、退室しようとする。
「待って」
クラリスは少し考えてから付け加えた。
「手紙は処分しないで。二人とも、返事が来ると思わせておきましょう」
「罠を仕掛けるのですね」
「いいえ」
クラリスは封蝋の鴉を見つめた。
「罠にかかったふりをするのよ」
その日の午後、皇宮から呼び出しが届いた。
皇帝との経済会議である。
会議室には皇帝、財務卿、外務卿、軍務卿、そして第二皇子アレクシスがそろっていた。
クラリスが入室すると、何人かの大臣が不快そうに眉を寄せる。
外国から来た若い女性が、帝国の経済政策を取り仕切っている。
その事実を快く思わない者は、今も少なくなかった。
「商務長官」
財務卿バルトロメウスが口を開いた。
「また東部港湾の拡張費を増やすおつもりだとか」
「増やすのではありません。三年後に予定されていた予算を前倒しするのです」
「同じことでしょう」
「まったく違います。今なら北方連邦の造船不況により、資材と技術者を安く確保できます。三年後には最低でも二倍の費用がかかるでしょう」
「未来の価格など、誰にも分かりません」
「分からないから予測するのです」
「あなたはいつも数字が正しいと考えているようだ」
「いいえ」
クラリスはバルトロメウスを正面から見た。
「間違う可能性があるからこそ、数字と根拠を示しています。異論がおありなら、どうぞ数字でお話しください」
財務卿が言葉に詰まった。
アレクシスが笑いをこらえるように口元へ手を当てる。
皇帝は机を指で軽くたたいた。
「港の拡張については、クラリスの案を採用する」
「陛下!」
「三年前、お前たちは新通商路の計画に反対した。その結果がどうなった?」
誰も答えなかった。
新通商路の開設により、帝国の税収は二倍近くまで増えている。
「今回も結果で判断する。クラリス、頼んだぞ」
「承知いたしました」
会議が終わると、アレクシスが廊下まで追ってきた。
「相変わらず見事だ」
「財務卿を怒らせただけです」
「数字を出せと言われて怒る財務卿のほうが問題だと思うが」
「彼にも立場があります。外国出身のわたくしに主導権を握られたままでは、支持者に顔向けできないのでしょう」
「君は冷静だな」
「感情的になれば、相手の思うつぼですもの」
二人は並んで回廊を歩いた。
窓の外には、咲き始めた白い薔薇が見える。
アレクシスは何かを言おうとした。
しかし、ためらった末に口を閉じる。
クラリスは横目で彼を見た。
「何でしょう」
「いや。今夜の晩餐に、君の好きな葡萄酒を用意した。それを伝えようと思っただけだ」
「ありがとうございます」
「それだけだ」
アレクシスはそう言って笑った。
その笑顔に、クラリスはわずかな違和感を覚えた。
彼は何かを隠している。
しかもそれは、仕事のことではない。
けれどクラリスは追及しなかった。
信頼とは、相手の秘密をひとつ残らず暴くことではない。
話せる時まで待つこともまた、信頼の形だと知っていたからである。
その夜。
クラリスの執務室から回収された二通の手紙を運ぶ馬車が、何者かに襲撃された。
護衛は眠り薬を嗅がされ、手紙だけが奪われた。
翌朝、その報告を受けたクラリスは静かに笑った。
「予定どおりね」
奪われた手紙は偽物だった。
そして封筒の内側には、肉眼では見えない特殊な粉が塗られていた。
粉は手に付着し、洗っても三日は落ちない。
特定の薬液をかけると青く浮かび上がる。
「さて」
クラリスは窓を開けた。
朝の光が帝都を照らしている。
「鴉がどこへ帰るのか、見せてもらいましょう」
第二章 愚かな王子の最後の夢
レオナルドは、古びた館の鏡に映る自分を見つめていた。
かつては王国一と称賛された金髪も、今は手入れが行き届いていない。
上等だった衣装は袖口がすり切れ、新調する金もなかった。
それでも彼は、何度も自分に言い聞かせていた。
自分は王子だ。
今は王位継承権を失っていても、血は変わらない。
クラリスさえ戻れば、すべてを取り戻せる。
「レオナルド様」
部屋へ入ってきたミレイユは、以前とはまるで別人だった。
桃色の髪にはつやがなく、手は労働で荒れている。
かつて身につけていた宝石はひとつもない。
「黒鴉商会から連絡が来ました」
「クラリスは手紙を読んだのか?」
「返事はまだです。でも、商会の方は必ず心が動いていると言っています」
レオナルドは満足げにうなずいた。
「当然だ。あれは私を愛していた」
「でも、もうアレクシス皇子と結婚しています」
「政略結婚に決まっている。クラリスのような冷たい女を、本気で愛する男などいるものか」
ミレイユは黙った。
かつてなら、一緒になってクラリスを悪く言っただろう。
しかし今は、その言葉を聞くたびに胸の中で何かが冷えていった。
働き始めて、初めて分かったことがある。
自分が身につけていた一着のドレスを作るため、何人もの仕立職人が何日も働く。
ひとつの首飾りが完成するまで、鉱夫、研磨師、金細工師、運搬人、商人が関わる。
自分は何も知らずに、それらを当然のように受け取っていた。
クラリスは最初から知っていた。
だから帳簿をつけ、借金を請求した。
あれは嫌がらせではなかった。
労働に対する正当な対価を求めただけだったのだ。
「レオナルド様」
ミレイユはおそるおそる尋ねた。
「本当に、これでいいのでしょうか」
「何がだ」
「黒鴉商会の人たちは、クラリス様を連れ戻せると言っています。でも、その方法は教えてくれません」
「お前は余計なことを考えなくていい」
「もし、クラリス様に危害を加えるつもりなら」
レオナルドはテーブルをたたいた。
「またあの女の味方をするのか!」
ミレイユが肩を震わせる。
「お前が余計な嘘をついたせいで、私は王子の地位を失ったのだぞ」
「でも、殿下も証拠はどうにでもなると」
「黙れ!」
部屋の隅に置かれていた花瓶が投げつけられた。
ミレイユの足元で砕ける。
「クラリスが戻れば、私は復権できる。帝国の商務長官を妻に持つとなれば、父上も私を無視できない。すべて元どおりになるのだ」
元どおり。
その言葉を聞いて、ミレイユはようやく理解した。
この人は何も変わっていない。
失ったものを惜しんではいるが、自分の過ちを悔いてはいない。
だから、また同じことを繰り返す。
「お前も助かるのだぞ」
レオナルドが言った。
「クラリスに紹介状を書かせれば、お前も帝国で暮らせる。今のようなみじめな労働から解放される」
以前のミレイユなら、喜んだだろう。
だが今は、その言葉がひどく醜いものに聞こえた。
働くことは、みじめではない。
人を欺き、奪ったもので着飾っていた過去こそ、みじめだった。
「少し、外の空気を吸ってきます」
「勝手にしろ」
ミレイユは館を出た。
門の前には、一台の黒い馬車が止まっている。
御者台には、三つ首の鴉を胸元に刺繍した男が座っていた。
「おや、ミレイユ嬢」
男が笑った。
「ちょうどよかった。あなたにお願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「クラリス様に会いたくはありませんか?」
差し出された箱の中には、帝国行きの通行証が入っていた。
「あなたの手で、すべてを終わらせるのです」
その下には、小さな銀の瓶が隠されていた。
ミレイユは瓶を見つめた。
震える指で、通行証を取り上げる。
そして微笑んだ。
「分かりました」
第三章 皇子が隠していたもの
黒鴉商会の足取りを追う中、帝都で奇妙な事件が相次いだ。
穀物倉庫の放火。
輸送馬車の襲撃。
商務長官が発行したとされる、存在しない特別許可証。
さらに市場には、帝国銀貨とよく似た贋金が大量に出回った。
贋金を受け取った商人たちは損失を補うため、商品の値段を上げる。
帝都市民の不満は、自然と通商制度を作ったクラリスに向けられた。
「外国女を追い出せ!」
「帝国の富を奪う魔女!」
街角には、そんな言葉を書いた紙が貼られるようになった。
財務卿バルトロメウスは、緊急会議の席でクラリスを責め立てた。
「あなたの制度が混乱を招いたのです!」
「贋金の発行者は制度とは無関係です」
「しかし、これほどの事件が起きている。責任者が責任を取るべきではありませんか」
「責任を取るとは、辞任することではありません。問題を解決することです」
「解決できるのですか?」
「いたします」
クラリスは言い切った。
けれど会議を終えて執務室に戻った瞬間、机に手をついた。
眠っていない。
三日間、ほとんど休息を取っていなかった。
「クラリス」
アレクシスが後を追ってきた。
「今日は休め」
「できません」
「君が倒れれば、解決できるものもできなくなる」
「今休めば、その間にも市民が贋金をつかまされます」
「それでもだ」
アレクシスは彼女の手から書類を取り上げた。
クラリスが奪い返そうとすると、彼は珍しく声を荒らげた。
「君は自分を何だと思っている!」
クラリスの動きが止まった。
「私は、君を失うために結婚したのではない」
静かな執務室に、アレクシスの荒い呼吸が響いた。
「君が有能なのは知っている。誰よりも強いことも。だが、強い者は壊れないわけではない」
「殿下」
「夫だ」
彼は傷ついたような顔をした。
「もう結婚して二年になる。二人きりの時くらい、名前で呼んでほしい」
クラリスは返事ができなかった。
アレクシスはいつも、彼女の意思を尊重してくれた。
結婚を急かさず、彼女が仕事を続けることにも異を唱えなかった。
それなのにクラリスは、彼と向き合うことをどこかで避けていた。
誰かを信じきったとき、また裏切られるのが怖かったから。
「あなたも何かを隠しているではありませんか」
思わず、そんな言葉が出た。
アレクシスの顔から表情が消える。
「気づいていたのか」
「当然です」
「そうか」
彼は観念したように、胸元から一通の書状を出した。
皇帝の印がある。
「兄上が病に倒れた」
アレクシスの兄、第一皇子ヴィクトル。
皇位継承者である。
「命に別状はない。しかし、長期間の静養が必要だ。父上は私を皇太子に立てようとしている」
クラリスは息をのんだ。
「なぜ、わたくしに話さなかったのです」
「君が皇太子妃になりたくないことを知っているからだ」
かつてクラリスは、王妃になるためにすべてを費やした。
その結果、最後に待っていたのが公開の場での婚約破棄だった。
「私は皇位を望んでいない」
アレクシスは続けた。
「兄上が復帰するまで代行することはできる。だが、父上はこれを機に継承者を変えるおつもりだ。兄上もそれを受け入れている」
「あなたは、どうしたいのですか」
「断るつもりだった」
「わたくしのために?」
「ああ」
クラリスは机の端を握った。
「それは、優しさではありません」
アレクシスが目を見開く。
「あなたが本当に皇帝になるべき方なら、わたくしの過去だけを理由に退くべきではありません」
「だが」
「わたくしは王妃という座が嫌だったのではありません。王妃になるために努力するわたくしを、当の婚約者が踏みにじったことが苦しかったのです」
クラリスはアレクシスへ歩み寄った。
「あなたは、わたくしの努力を踏みにじりますか?」
「決して」
「意見が違えば、話し合ってくださいますか?」
「約束する」
「わたくしが間違っていれば、指摘してくださいますか?」
「もちろんだ」
「ならば、何を恐れる必要があるのでしょう」
アレクシスは長い間、彼女を見つめた。
「君は本当に、私とともに歩いてくれるのか」
クラリスは彼の手を取った。
結婚式の日でさえ、これほど自分から強く握ったことはなかった。
「ひとりで先に決めてしまわず、次からは相談してくださいませ」
「分かった」
「それから」
クラリスは少しだけ頬を赤らめた。
「今夜は休みます。ですから、あなたも一緒に夕食を召し上がってください、アレクシス」
初めて名前を呼ばれた皇子は、帝国一の宝石を贈られたような顔で笑った。
「喜んで」
その夜、二人は久しぶりに仕事の話をせずに食卓を囲んだ。
そして翌朝。
十分に眠ったクラリスは、贋金事件を終わらせるための策を完成させた。
第四章 偽りの銀貨
クラリスは帝都市内の商人を集め、ひとつの布告を出した。
「現在流通している銀貨を、十日以内に新しい銀貨と交換いたします」
財務卿は猛反対した。
「そんなことをすれば、国庫が混乱する!」
「贋金と本物を選別するより早い方法です」
「黒鴉商会が贋金まで交換しに来たらどうするのです」
「来てもらうのです」
新しい銀貨には、帝国の技術者が開発した特殊な溝が刻まれていた。
表面だけを削って模倣することはできない。
古い銀貨を新銀貨へ交換する際、持ち込んだ者の名前と取引元が記録される。
正当な商売で得た銀貨なら、取引を追跡できる。
だが、密輸と贋金で集めた銀貨は説明できない。
黒鴉商会は二つの選択を迫られた。
銀貨を捨てるか。
危険を承知で交換するか。
彼らは後者を選んだ。
十日目の夕刻。
帝都南部の両替所に、荷馬車十二台分の銀貨が持ち込まれた。
名義は地方商会。
しかし、申告された取引先の半数は存在していなかった。
警備隊が倉庫へ踏み込む。
そこには大量の贋金と、放火に使われた油、偽造された通商許可証が保管されていた。
捕らえられた者たちの手に薬液をかけると、青い染みが浮かび上がった。
クラリスの手紙に塗られていた粉である。
だが、黒鴉商会の首領はいなかった。
代わりに発見された帳簿には、不可解な支払いの記録があった。
毎月、決まった額が帝国財務省の関係者へ送られている。
その受取人を示す記号は、ただ一文字。
「B」
エミリアが帳簿を見てつぶやいた。
「バルトロメウス財務卿でしょうか」
「可能性はあります」
クラリスは答えた。
「けれど、これだけでは証拠になりません」
そのとき、護衛が駆け込んできた。
「長官閣下。王国から女性が参りました。どうしてもお会いしたいと」
「名前は?」
「ミレイユと名乗っております」
部屋の空気が張りつめた。
ミレイユは両手を縄で縛られた状態で連れてこられた。
荷物から毒物が発見されたためである。
彼女はクラリスを見ると、深く頭を下げた。
「お久しぶりでございます」
「わたくしを毒殺しに来たのですか?」
「その薬を渡されたのは事実です」
ミレイユは顔を上げた。
「ですが、飲ませるつもりはありません」
「どうやって信じろと?」
アレクシスが冷たく尋ねる。
ミレイユは唇をかみしめた。
「信じてもらえないのは分かっています。わたしは以前にも、毒を使われたと嘘をつきましたから」
「では、何をしに来たのです」
クラリスの問いに、ミレイユは靴の底から折り畳まれた紙を取り出した。
「黒鴉商会の連絡先と、王国内の協力者です。レオナルド様は、彼らに王家の古い地下道を教えました」
「地下道?」
「国境を越え、王宮の地下に続いているそうです。昔、王族が戦争から逃げるために造られたと」
クラリスは紙を受け取った。
「なぜ、これをわたくしに?」
ミレイユの瞳に涙が浮かんだ。
「働いて、初めて分かったのです」
「何をですか」
「自分がどれほど多くの人から奪っていたのかを」
ミレイユは震えながら続けた。
「わたしは貧しい男爵家で育ちました。きれいな服も、宝石も、立派な屋敷も欲しかった。だから、殿下に選ばれたとき、自分は特別になったのだと思いました」
クラリスは何も言わずに聞いていた。
「でも、特別だったのではありません。殿下にとって、わたしは都合がよかっただけです。わたしも、殿下を利用しました」
「それに気づいたから、罪が消えると?」
「いいえ」
ミレイユは即座に答えた。
「消えません。だから、せめてこれ以上、誰かを傷つける前に止めたいのです」
クラリスは紙の内容を確認した。
書かれている名前の中に、驚くべき人物がいた。
財務卿バルトロメウス。
そして、第一皇子ヴィクトル付き侍医。
「第一皇子の病も、彼らの仕業です」
ミレイユが言った。
「命を奪う毒ではなく、衰弱させる薬を使ったと聞きました。アレクシス殿下を皇太子にして、その妃であるクラリス様に贋金事件の責任を負わせる。お二人が失脚したあと、財務卿が幼い皇族を傀儡として立てる計画です」
アレクシスが剣の柄へ手をかけた。
「証拠はあるのか」
「黒鴉商会の首領が持っています」
「首領は誰です?」
クラリスが尋ねる。
ミレイユの顔がこわばる。
「バルトロメウス財務卿の娘です」
「娘?」
「三年前、病死したと発表されたセレナ・バルトロメウスです」
クラリスは記憶を探った。
セレナは幼いころから財務の才を示した女性だった。
だが、女性であることを理由に後継者とは認められず、父親から政略結婚を命じられていた。
その直前に病死したと聞いている。
「彼女は死を偽装し、黒鴉商会を乗っ取りました」
ミレイユは言った。
「すべては父親への復讐のためです」
「お待ちなさい」
エミリアが眉をひそめる。
「それでは、なぜ財務卿と協力を?」
「協力しているふりをしているのです。最後にはすべての罪を父親にかぶせ、自分は帝国の財政を裏から支配するつもりです」
クラリスは帳簿の「B」を見つめた。
黒鴉商会の首領セレナ。
財務卿バルトロメウス。
互いに利用し合い、互いを裏切ろうとしている父娘。
「ミレイユ」
クラリスは静かに呼びかけた。
「あなたには法に従った取り調べを受けてもらいます」
「はい」
「罪が軽くなる保証もありません」
「分かっています」
「それでも証言しますか?」
ミレイユはまっすぐクラリスを見た。
「はい」
かつて階段から突き落とされたと嘘をついた少女の目ではなかった。
クラリスは衛兵に命じた。
「彼女を牢ではなく、証人保護室へ。食事と医師を用意しなさい」
ミレイユが驚く。
「どうして」
「あなたを許したわけではありません」
クラリスは答えた。
「ですが、正しい行動には、正当な評価が与えられるべきです」
ミレイユは何度も頭を下げた。
その涙を、今度は誰も演技だとは言わなかった。
第五章 再び開かれた断罪の場
帝国議会の大広間。
かつてクラリスが婚約を破棄された舞踏会場よりも、さらに巨大な空間だった。
壇上には皇帝と皇族が並び、その下に大臣、貴族、各都市の代表者が座っている。
議題は、商務長官クラリスの罷免だった。
バルトロメウス財務卿は、自信に満ちた顔で演説した。
「贋金、放火、物価高騰。これらはすべて、急進的な通商改革が招いたものです」
議場から同意の声が上がる。
「クラリス長官は優れた才をお持ちだ。しかし、帝国の伝統を理解していない。彼女は我々の国を、帳簿の数字だけで動かそうとしているのです!」
拍手が起きた。
クラリスは中央に立ち、黙って聞いていた。
四年前の舞踏会とよく似ている。
大勢の人々。
一方的な告発。
彼女の隣には、今回も男性が立っていた。
けれどアレクシスは、彼女を断罪するためではなく、ともに責任を負うためにそこにいた。
「クラリス・フォン・アルヴェイン」
皇帝が尋ねた。
「申し開きはあるか」
「はい、陛下」
クラリスは一礼した。
「財務卿のおっしゃるとおり、帝国は帳簿だけで動くものではございません」
バルトロメウスが勝ち誇ったように笑う。
「帝国を動かすのは、そこで暮らす人々です。だからこそ、わたくしはその人々の営みを記録する帳簿を重視しております」
クラリスが合図すると、議場へ十数冊の帳簿が運び込まれた。
「ここに、押収した黒鴉商会の取引記録がございます」
バルトロメウスの笑みが消える。
「記録によれば、商会は三年前から財務省内部の協力者へ資金を送っています」
「偽造だ!」
「まだ、受取人があなたとは申し上げておりませんが」
議場に笑いが漏れた。
財務卿の顔が赤くなる。
「受取人は記号で記されています。ですから帳簿だけでは証拠になりません」
クラリスはあえて認めた。
「しかし、資金が支払われた日には、ある共通点がございます」
壁に大きな帝国地図が掲げられた。
黒い印が各地に打たれている。
「支払いの三日後、必ず財務省の監査対象から特定の倉庫が外されています。その倉庫は、黒鴉商会が密輸品を保管していた場所でした」
「偶然だ」
「三十二回も?」
「部下が買収されたのだろう!」
「では、部下をお呼びしましょう」
財務省の官吏たちが連れられてくる。
全員が、監査対象の変更は財務卿から直接命じられたと証言した。
バルトロメウスは叫んだ。
「こいつらはクラリスに買収されている!」
「では、こちらはいかがでしょう」
次に現れたのは、第一皇子の侍医だった。
彼は青ざめ、震えている。
「第一皇子殿下へ衰弱薬を処方するよう、財務卿から命じられたと証言しております」
議場が騒然となった。
「知らん! そんな男は知らん!」
「あなたの署名が入った指示書があります」
「偽造だ!」
「そうおっしゃると思いました」
クラリスは別の紙を取り出した。
「署名は偽造されています」
バルトロメウスが一瞬、安堵した。
「ほら見ろ!」
「ですが、偽造を命じたのはあなたです」
「何を言っている?」
「第一皇子毒殺未遂の罪を、最終的に黒鴉商会へ押しつけるためです。違いますか」
バルトロメウスの目が泳ぐ。
クラリスは議場の扉へ向き直った。
「黒鴉商会首領、セレナ・バルトロメウス。入場してください」
扉が開いた。
黒い衣装をまとった女性が、衛兵に囲まれて入ってくる。
財務卿は立ち上がった。
「セレナ」
「お久しぶりです、お父様」
「死んだはずでは」
「あなたにとっては、娘など最初から死んでいたのでしょう?」
セレナは冷たく笑った。
「私がどれだけ財務を学んでも、女に家を継がせることはできないと言った。老いた伯爵へ売り渡そうとした。だから死んだことにして差し上げました」
「私の名前を使ったのか!」
「ええ。あなたが私を利用したように、私もあなたを利用しました」
セレナは自らの罪を認めた。
贋金を作ったこと。
倉庫へ火を放ったこと。
クラリスを失脚させようとしたこと。
第一皇子に薬を盛るため、侍医を買収したこと。
ただし、計画の発案者はバルトロメウスだったと証言した。
「嘘だ!」
「証拠もございます」
セレナが差し出したのは、父親から届いた手紙の束だった。
筆跡。
印章。
紙に残った財務卿専用の透かし。
すべてが本物であることを示している。
「なぜだ、セレナ」
バルトロメウスは崩れ落ちた。
「お前は私の娘ではないか」
「娘だから従うとお思いでしたか」
「私はお前のためを思って」
その言葉を聞いた瞬間。
セレナの顔から笑みが消えた。
「その言葉が、一番嫌いでした」
財務卿は反逆、横領、第一皇子毒殺未遂の罪で逮捕された。
セレナも、犯罪組織の首領として連行される。
去り際、彼女はクラリスの前で足を止めた。
「あなたがうらやましかった」
「わたくしが?」
「同じ女で、同じように数字を学んだ。なのに、あなたは表舞台で認められた」
クラリスは静かに答えた。
「わたくしも、最初から認められたわけではありません」
「それでも、あなたには手を差し伸べる者がいた」
セレナはアレクシスを見た。
「私にはいなかった」
「だから、他人から奪ったのですか」
「そうするしかなかった」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「道を選んだのはあなたです」
セレナがにらみつける。
「恵まれた人間の言葉ね」
「わたくしは婚約者に裏切られ、罪人にされかけ、故国を去りました」
クラリスの声は穏やかだった。
「それでも、無関係の人々を傷つけることは選ばなかった」
セレナは何も言えなかった。
「あなたの苦しみは本物だったのでしょう。けれど苦しんだことは、他者を苦しめてよい理由にはなりません」
セレナはうつむき、衛兵に連れられていった。
議場に静寂が戻る。
皇帝が立ち上がった。
「クラリス・フォン・アルヴェイン」
「はい」
「帝国は、そなたの働きにより大きな危機を免れた。商務長官としての功績を認め、改めてその地位を保証する」
クラリスは深く一礼した。
すると、皇帝はアレクシスへ目を向けた。
「そして、第二皇子アレクシスを皇太子に任命する。第一皇子ヴィクトルも同意している」
議場の視線が二人に集中した。
アレクシスはクラリスへ手を差し出した。
彼女はためらわず、その手を取った。
今度は誰かに決められた婚約ではない。
互いに選び、話し合い、ともに歩むと決めた関係だった。
「皇太子妃として、私を支えてくれるか」
「支えるだけではございません」
クラリスは微笑んだ。
「間違っていると思えば、容赦なく止めます」
議場に笑いが起きる。
アレクシスも笑った。
「それでこそ、私の妻だ」
第六章 愚者の王冠
事件は終わったかに思われた。
しかし、最後の一人が残っていた。
レオナルドである。
黒鴉商会の計画が失敗したことを知ると、彼は王家の地下道を使い、王宮へ侵入した。
目的は国王を人質に取り、自らを王位継承者へ戻させることだった。
「私は正当な第一王子だ!」
玉座の間に響いた彼の声は、以前の威厳を失っていた。
十数名の傭兵を引き連れ、王冠を手にしている。
玉座の前では、年老いた国王が剣を突きつけられていた。
「レオナルド」
国王は疲れた声で言った。
「お前は、まだ分からぬのか」
「黙れ! すべて父上が悪いのだ!」
レオナルドは王冠を頭に載せた。
大きさが合わず、少し傾いている。
「私から継承権を奪った! クラリスを帝国へ行かせた! 私の人生を壊したのは、父上だ!」
「違う」
玉座の間の扉から声がした。
レオナルドが振り向く。
クラリスが立っていた。
隣にはアレクシスと帝国の護衛、その後ろには王国の近衛兵がいる。
地下道の情報は、ミレイユからすでに伝えられていた。
「クラリス」
レオナルドの顔に歓喜が浮かぶ。
「やはり来たか。私を迎えに来たのだな!」
「陛下を解放してください」
「そんな必要はない。私はもう王だ」
傭兵たちが顔を見合わせる。
彼らが報酬として渡された金貨は、黒鴉商会の贋金だった。
すでに新銀貨との交換期限は過ぎており、何の価値もない。
「その者についていても、報酬は得られません」
クラリスが傭兵たちへ告げる。
「武器を捨てれば、今回に限り命は保証します」
「だまされるな!」
レオナルドが叫ぶ。
「私は王だ。国庫からいくらでも払える!」
「国庫に自由に使える金がないことは、あなたも知っているでしょう」
クラリスは冷静に答えた。
「そもそも、あなたの失政と借金により、王家の財政は今も再建の途中です」
傭兵の一人が剣を捨てた。
続いて二人、三人と武器を置く。
「臆病者ども!」
レオナルドがわめく。
やがて最後の一人まで降伏し、彼だけが玉座の前に残された。
国王は近衛兵に保護される。
レオナルドは剣を抜き、クラリスへ突進した。
「お前さえいなければ!」
アレクシスが前へ出ようとする。
だが、その前にクラリスは一歩退いた。
レオナルドの足元には、自らが落とした王冠があった。
彼は王冠を踏み、体勢を崩す。
剣が床を滑った。
次の瞬間、近衛兵が彼を取り押さえた。
「放せ! 私は王だぞ!」
床に押さえつけられたまま、レオナルドは叫び続けた。
王冠は階段を転がり、国王の足元で止まった。
クラリスは彼を見下ろした。
「どうしてだ」
レオナルドの声が震える。
「どうして、お前は私を選ばない」
「まだ、お分かりにならないのですか」
「私は王子だ。お前は王妃になりたかったはずだ」
「わたくしが望んだのは、王妃という名前ではありません」
クラリスは言った。
「民を守り、国を豊かにし、次の世代へよりよい未来を渡すことです」
「ならば私とすればいい!」
「あなたは民を、自分のぜいたくを支える道具としか見ていない」
「変わる。今度こそ変わる!」
「四年前にも、その機会はありました」
レオナルドは息を止めた。
「辺境へ送られたとき、あなたは領民のために働くことができました。破産したあとも、生活を改めることができました。黒鴉商会から声をかけられたとき、断ることもできました」
クラリスの声に怒りはなかった。
あるのは、揺るがない事実だけだった。
「あなたは何度でも選べたのです。そして、そのたびに楽な道を選んだ」
「私は、だまされただけだ」
「ミレイユに。黒鴉商会に。そして今度は傭兵に?」
レオナルドは答えられない。
「皆があなたをだましたのだとしても、その甘い言葉を信じると決めたのはあなたです」
「やり直したい」
初めて、彼の声から傲慢さが消えた。
「昔に戻りたい」
クラリスはしばらく彼を見つめた。
十歳のころ、二人で庭園を歩いた記憶がある。
レオナルドは木から落ちた小鳥を助けようとして、服を泥だらけにした。
あの優しい少年は、確かにいたのかもしれない。
けれど人は、過去の一瞬だけで評価されるものではない。
日々の選択が、その人を作る。
「過去には戻れません」
クラリスは静かに告げた。
「ですが、これからどう生きるかは選べます」
レオナルドの目に光が宿る。
「では、許してくれるのか」
「いいえ」
光はすぐに消えた。
「罪には罰が必要です。あなたが変わるとすれば、罰を免れたときではなく、罰を受け入れたときでしょう」
レオナルドは反逆罪により、すべての身分と財産を失った。
国王は息子の処刑を望まなかった。
クラリスもまた、命を奪うことが最善とは考えなかった。
彼は北方の修道院へ送られ、生涯にわたって労働に従事することになった。
そこでは誰も彼を殿下とは呼ばない。
食事を得るには畑を耕し、寒い冬を越すには薪を割らなければならない。
彼が本当に変わったのか。
それは、クラリスの知るところではなかった。
もう知る必要もなかった。
第七章 償いは誰のために
事件後、ミレイユへの裁判が開かれた。
彼女が黒鴉商会から毒物を受け取り、帝国へ持ち込んだのは事実である。
ただし、自首に近い形で計画を明かし、帝国と王国を救う重要な証言をした。
裁判所はそれらを考慮し、彼女に三年間の奉仕労働を命じた。
送り先は、孤児や貧しい女性へ読み書きと職業技術を教える施設だった。
判決の日、ミレイユはクラリスを訪ねた。
「寛大な処分を働きかけてくださったと聞きました」
「誤解です」
クラリスは書類から顔を上げた。
「わたくしは、あなたの協力を正当に評価するよう求めただけです」
「それでも、ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
ミレイユは小さく笑った。
「クラリス様は、変わりませんね」
「あなたは変わりました」
「そうでしょうか」
「以前のあなたなら、三年も働くなんて耐えられないと泣いていたでしょう」
「きっと、そうですね」
ミレイユは自分の手を見た。
働き始める前は柔らかかった手に、今は固いたこがある。
「もう、楽をしたいとは思わないのですか」
クラリスが尋ねる。
「思います」
ミレイユは正直に答えた。
「朝はゆっくり寝たいですし、おいしいお菓子も食べたい。きれいな服だって、今でも欲しいです」
「そう」
「でも、誰かから奪ってまで欲しいとは思いません」
クラリスはわずかに微笑んだ。
「十分ではありませんか」
ミレイユは扉へ向かった。
しかし、退出する前に振り返る。
「クラリス様。わたしのことを、いつか許してくださいますか」
クラリスはすぐには答えなかった。
「あなたの償いは、わたくしに許されるためのものなのですか?」
ミレイユの顔がこわばる。
「もし、わたくしが一生許さなければ、あなたは正しく生きることをやめますか」
「いいえ」
時間をかけて考えたあと、ミレイユは答えた。
「もう、やめません」
「ならば、わたくしの許しは必要ありません」
冷たい言葉にも聞こえる。
けれどミレイユは、なぜか救われたように笑った。
「はい」
三年後。
奉仕労働を終えたミレイユは、そのまま施設で教師になった。
貴族の礼儀作法。
読み書き。
計算。
そして、甘い言葉を使って近づく人間を見分ける方法。
彼女には、自分の失敗から教えられることがたくさんあった。
やがて施設を卒業した女性たちは、商会、工房、役所などで働き始めた。
そのうちの何人かは、クラリスの通商制度を支える優秀な官吏となった。
ミレイユは二度と宝石を身につけなかった。
ただ、施設の創立十周年の日。
教え子たちから、小さな桃色の石がついた髪飾りを贈られた。
高価な宝石ではない。
全員が少しずつ給金を出し合い、感謝を込めて選んだものだった。
ミレイユは髪飾りを胸に抱き、長い間泣いた。
かつて身につけていたどんな宝石より、それは美しく見えた。
終章 返す必要のないもの
それから十五年が過ぎた。
皇帝の崩御により、アレクシスは帝位を継いだ。
クラリスは皇后となったが、商務長官の地位を手放さなかった。
前例がないと反対する者もいた。
彼女は笑って答えた。
「前例がないのなら、わたくしが前例になります」
帝国と王国の間には、新しい同盟が結ばれた。
かつて借金返済のために手放された王家の鉱山は、帝国と王国の共同管理となり、利益の一部が学校と病院の建設に使われた。
直轄地を失った王家は、以前ほど華美な暮らしができなくなった。
しかし、皮肉なことに国は以前より豊かになった。
王家が浪費をやめ、税の使い道を公開するようになったからだ。
クラリスが築いた通商路には、毎日数えきれないほどの荷馬車が行き交った。
物だけではない。
技術。
知識。
文化。
そして人々の夢が、国境を越えて運ばれていく。
ある春の日。
クラリスは皇宮の庭園で、一通の手紙を受け取った。
差出人は、北方修道院の司祭だった。
レオナルドが病で亡くなったという。
最期まで王子へ戻ることを望んでいたのか。
それとも、どこかで己の過ちを認めたのか。
手紙には、こう記されていた。
晩年のレオナルドは畑仕事を教える役目を担い、新しく来た者には辛抱強く接していた。
自分がかつて何者だったのかは、ほとんど話さなかった。
ただ一度だけ、司祭にこう語ったという。
自分は宝石の価値を知りながら、それが自分のものだと思い込んだ。
だから、手放したあとで取り返せると思ってしまった。
本当は最初から、自分のものではなかったのだ、と。
クラリスは手紙を閉じた。
悲しいのかと問われれば、分からない。
喜ばしいわけでもない。
ただ、長く続いていた物語の最後の一行を読み終えたような、静かな気持ちだった。
「母上!」
庭園の向こうから、十二歳になる皇女が駆けてきた。
銀色の髪をなびかせ、両手には泥のついた木箱を抱えている。
「見てください。市場の商人から、新しい計算機を借りてきました」
「借りてきた?」
クラリスが眉を上げる。
皇女は慌てて付け加えた。
「期限は三日です。借用書も書きました。返却予定日も記録しています」
「よろしい」
その後ろからアレクシスが歩いてきた。
皇帝となっても、彼は二人きりのときには昔と変わらない笑顔を見せる。
「相変わらず厳しいな」
「借りたものを返すのは当然です」
「では、私が君から借りたものも、返さなければならないだろうか」
「何をお貸ししましたか?」
アレクシスはクラリスの手を取った。
「人生だ」
クラリスは笑った。
「それは貸したのではありません」
「では?」
「差し上げたのです」
アレクシスが目を細める。
「ならば、私の人生も君に」
「いただきます」
「返却期限は?」
「ございません」
皇女があきれたように二人を見た。
「父上と母上は、いつもそうなのですか」
「どのように?」
「最初は難しい話をしているのに、最後には二人だけで分かる話になります」
「あなたもいつか分かります」
クラリスは娘の髪をなでた。
「大切なのは、自分を選んでくれる人ではありません」
「違うのですか?」
「自分も選びたいと思える人です」
風が吹き、庭園の白薔薇が揺れた。
かつてクラリスは、誰かに選ばれるために努力していた。
立派な王妃になれば。
完璧な婚約者になれば。
彼にふさわしい女性になれば。
きっと愛してもらえると信じていた。
けれど本当に必要だったのは、選ばれることではなかった。
自分が何を望み、誰と歩み、どのように生きるのかを、自分自身で選ぶことだった。
失った婚約。
離れた故国。
傷つけられた誇り。
そのどれも、なかったことにはならない。
けれど傷ついた過去は、未来まで不幸にすると決まっているわけでもない。
過去を変えることはできない。
だが、過去の意味は、その後の生き方によって変えられる。
あの卒業舞踏会の日。
クラリスは捨てられたのではなかった。
間違った未来から解放されたのだ。
「クラリス」
アレクシスが呼ぶ。
「今夜、港湾都市から使節団が来るそうだ」
「承知しております。歓迎式典の準備はすでに」
「仕事の話ではない」
彼は困ったように笑った。
「会議が終わったあと、二人で食事をしないか」
「予定を確認いたします」
「皇帝の誘いでも?」
「皇帝だからといって、商務長官の予定を勝手に変えてはいけません」
「では、夫として頼む」
クラリスは少しだけ考えるふりをした。
「仕方ありませんね」
「本当か?」
「はい。今夜は早めに仕事を終わらせます」
アレクシスはうれしそうに笑った。
皇女が父のまねをして、同じように笑う。
クラリスも、つられて笑った。
遠くから鐘の音が聞こえる。
新しい船が港へ到着したことを知らせる鐘だった。
クラリスは愛する家族と並び、皇宮へ戻っていく。
その足取りに、迷いはない。
借りたものは返さなければならない。
嘘をつけば、信用を失う。
捨てた宝石は、二度と戻らない。
けれど。
互いに贈り合った信頼と愛だけは、返す必要がない。
それは誰かに与えるほど減るものではなく、分かち合うほど豊かになっていくものだから。
かつて悪役令嬢と呼ばれた女性は、その後、帝国史上もっとも賢明な皇后として長く語り継がれた。
美しかったからではない。
地位が高かったからでもない。
彼女は、国の富とは倉庫に眠る金貨ではなく、人々が安心して明日を信じられることだと証明した。
そして、自らの人生をもって、もうひとつの真実を残した。
誰かから不当に価値を決められても、それが自分の本当の価値になるわけではない。
自分を捨てた者の前で、いつまでも輝き続ける必要もない。
ただ、自分が選んだ場所で。
自分を大切にしてくれる人々とともに。
胸を張って、幸福に生きればいい。
それこそが、何より鮮やかな復讐なのだから。
完




