凍った女領主が溶けるまで
私は、血の通っていない「凍った女領主」として民から慕われている。
温もりのない声のせいだろう。
失礼な呼び名だけれど、残念ながら否定はできない。
お邸の玄関の扉を開ける。
すると、冷えた空気が飛びこんできた。
さすがは、帝国最北端の辺境だ。立っているだけで身震いする。
「ラーサ様、お出かけですか」
お付きの侍女が平坦な声で訊ねてきた。
「ええ、そうね。今日も、少し散歩しようと思って。サボりではないわよ?」
いつも通り、政務は午前中に片付いた。だから、散歩くらいしか、この退屈をなくす術がなかった。
舞い落ちる雪は、白く、冷たい。
それでも、雪を踏み歩いて進む。
ああ、まただわ。
ひとりで歩いていると、いつも頭に浮かんでしまう。
昨日のことのように覚えている。
あの方と過ごしたわずかな日々――もう10年も前の話だけれど。
**
10年前のアシス王国。
当時13歳だった私は、お城に住んでいた。
アルハベル公爵家の長女として、王宮で暮らしていたのだ。
私を産んでくださったお母さまは、もともと王宮の侍女だった。だから、平民生まれの令嬢として見下げられていた。
みんなが目を向けるのは華やかな妹、ルミアの方だ。正妃との間で生まれた美貌端麗のご令嬢だった。
特徴の乏しい平凡な私は、そんな妹の影でひっそりと生きていた。
婚約者の違いは、私たちの未来を如実に示している。
妹のルミアは、このアシス王国の第2王子――オーエン殿下の婚約者だ。22歳という若さで、外交や政治に関わっており、騎士道にも精通したお人である。
一方、私は30も離れた侯爵のもとに嫁ぐことになっている。
それも、侯爵とは名ばかり。日々放蕩にふけるろくでなしと噂の、とっても素晴らしいお方だ。彼の噂を聞くたび、体がずんと重くなる。
正式な結婚に向けて、お父さまは私に淑女としてのたしなみを強いた。
言われた通り、私はあらゆる教養を身につけた。自室で何冊もの本を読み、1日のほとんどを過ごした。
なのに、「父親の傀儡みたい」なんて、城の住人たちに噂される。
ほんと、やってられない。
**
お母さまが亡くなったのをきっかけに、お父さまの愛情は、再婚したお義母さまとその娘であるルミアへいっそう傾いた。
その一方で、私は嫁がせるための道具のように扱われる。まさに、お父さまの傀儡だ。お義母とルミアからは、庶民生まれの娘だと嘲笑われ、いつも見下げられる。
未来に希望なんて見いだせるはずもなかった。
けれど、そんな私でも、ささやかな楽しみがあった。城の中庭にある花壇の世話だ。お母さまが大切に世話されていた花だった。だから、代わりに私が手入れを引き継いでいる。
花壇に植えているのは、小さな花々だ。スノードロップという、白い釣り鐘の形をした多年草だった。寒い場所でよく育つお花だ。
王城の外壁で日中陰になっているこの場所は、生育に最適だった。
ある日の午後、いつもどおり水やりをしていると声をかけられた。
「その花、綺麗だな」
静かな低い声がした。
振り向くと、しなやかな痩躯の男性がいた。幽かな香りのせいか、冴えざえとした気品を感じる。背の真ん中あたりまで流れる白銀の髪は、絹糸のよう。
純白を基調とした上衣が、品位の高さを暗示していた。
彼は、花壇の花を見て、紅い色の目を丸くしていた。
でも、その時の私はもっと目を見開いていただろう。
「王子殿下……!」
はっと頭を下げる。
心臓がばくばくと言っていてうるさい。
「よい。楽にしてくれ。それより、その花はなんという?」
くれぐれも失礼のないようにしなくては!
ぴんと背筋をのばし、私は答える。
「あ、ありがとうございます。……この花は、スノードロップといって、冬にだけ咲く花なんです」
「冬にしか?」
「はい。母が故郷から持ってきた花でして。王都の周辺では滅多に見かけない、珍しい花なんだそうです」
「なんと。ならば、ここで見られるのは貴重だな」
「ええ、まあ。けれど、中央にあるお花畑の方が、色とりどりで綺麗ですわ。珍しいお花もたくさんありますし」
城門前には大きな花園がある。華やかで綺麗な場所だ。お義母さまやルミアは、いつもあそこでお茶を楽しんでいる。
「だが、あそこに白い花はない」
「白?」
「俺は白が好きだ。自由な感じがしてな」
屈託なく笑う彼に、しばし見入ってしまった。
「ところで、そなた。名は?」
はっとして、胸の高鳴りを落ち着かせ、カーテンシーを行う。
「これは失礼いたしました。アルハベル公爵家が長女、ラーサと申します」
「アルハベル……となると、ルミア殿の?」
「はい。ルミアは私の妹でございます」
「なるほど。では、俺とルミアが結婚すれば、ラーサ殿とも親縁の仲となるのか」
「……そう、なりますね」
でも、私が王族と親縁だなんて、まるで実感がわかない。
「そうか、そうか! では、俺のことは兄とでも呼ぶといい」
王子様の破顔は、花のつぼみがほころぶようだった。
それがお兄さま……いえ、アシス王国の第2王子、オーエン様との出会いだった。
**
あの日から、オーエン様とこっそり会うようになった。
花壇の水やりをしている私の下に、オーエン様が声をかけてくる。お勤めが早く終わった日には、城内を歩いているらしい。
「お、ラーサではないか!」
名を呼ばれると、思わず息が詰まる。
けれど、私を見つけたとき、オーエン様は頬をゆるませる。
それを見ると、私はいつも体がふわりと浮いてしまいそうになる。
「スノードロップは、冬によく見られるんですよ」
水やりを終えた後は、ふたりで花壇の辺りを散歩する。
人通りの少ない城庭の角だから、誰かに見咎められることもない。
「ラーサは物知りだな。いや、俺が不勉強なだけか」
「いえ、そんなことはありませんわ。殿下の方がずっと博学でいらっしゃいます」
一緒に花に水をあげて、お話をして。
お話と言っても、私のできる話は、お花のこと……後は、読んだ本の内容くらいのもの。
対して、オーエン様のお話は種類豊富で、聞いていて飽きない。
外国については弁を弾ませ、兄君に剣の稽古で勝てた日には、得意げに自慢してきた。
無邪気に語る彼の姿を見ていると、聞いている私まで心が躍る。
一番記憶に残ったのは、国王陛下の愚痴、もといお褒めの言葉だった。
「父上は周りから堅物だと誤解されているが、とても憶病でな。特に、雷が苦手だ。雷雨の日には俺の布団に駆け込んでくる。可愛らしいお方だ」
堅物といえば、オーエン様に対する私の印象もそうだった。
社交界で見たときはお堅い雰囲気で、雲の上の人だと思っていた。けれど、いざ話してみると緊張しない。むしろ、話すうちに心臓の鼓動が落ち着いてくる。
半年が経った頃には、私より花壇に先に来たオーエン様が、花に水やりをするようになった。
「元気に育てよ」と言いながら。
声をかけるより前、その優しげな微笑みをこっそり見るのが、私のひそかな楽しみだった。
でも、彼との散歩は、いつもあっという間に終わってしまう。
別れの時は、決まって例の花壇の前だった。
彼の姿が見えなくなってから、私はひとりうなだれる。
スノードロップみたいに。
**
「この、卑しい娘が!」
お義母さまの平手が頬に直撃する。
じんとした痛みが顔中に広がった。
「どういうことなの!? お姉さま!」
お義母さまの後ろでは、ルミアが声を荒らげている。
オーエン様とこっそり会っているのが、家族に露見したのだ。
「人様の婚約者を口説き落とそうなんて、躾が足りなかったようね」
「そうよ。矜持がなさすぎますわ。それでもアルハベル公爵家の人間ですの?」
彼女らの罵声が、降り注ぐ。
露見までの経緯はこうだ。
王宮の廊下でオーエン様を見つけたルミアが、後を付けていた。私と会っているのを目撃したルミアは、お父さまとお義母さまに告げ口する。
迂闊だった。
だけど、尾行する人に、矜持がどうとかは言われたくない。
「申し訳、ございません」
私は、謝罪を口にした。
だけれども、お義母さまとルミアは、表情を険しくさせるばかりだ。
「謝って許されるとお思い!?」
「出来損ないのくせに、態度だけは傲慢。あの女とそっくりね。きっと、平民の血が混ざっているのだわ」
「オーエ……殿下とは、ただ少し世間話に花を咲かせていただけです。誓って、それ以上の関係ではございません」
自分で口にした瞬間、心がずきりと痛んだ。
お義母さまたちにいくら罵倒されたところで、何も感じなかったというのに。
でも、いけない。
このことが国王夫妻の耳にまで入ったら取り返しがつかなくなる。
だから、もう、会うのはやめないと。
殿下とは二度と顔を合わせない。
私はお義母さまたちにそう訴え続けた。
すると、さらに何度か頬を叩かれた後、彼女らは部屋を出ていった。
痛みは感じなかった。
あるのは、心にぽっかりと空いた穴だけだった。
**
あの日以来、自室に閉じこめられて、部屋から出してもらえなくなった。
庭にも行けず、部屋にこもって編み物するくらいしか、やることがない。
「ラーサ、ラーサ!」
何もない部屋でいつも通り、編んでいると、窓際から声がした。
ふとカーテンを開けてみれば、そこにはオーエン様がいた。
「い、いったい、何をなさっているのですか!?」
思わず大声を出してしまったと気づき、私は口元を両手で押さえる。
「久しぶりに、ラーサに会いたくてな。よかった、元気そうで。心配していたのだぞ?」
彼はさして動じた様子もなく笑った。
確かに元気ではあるが、衝撃のあまり今にも卒倒しそうだ。
「いけません。危険ですから、すぐに下りてください……!」
声をひそめ、私は言葉を急ぐ。
ここは王宮の上階だ。落ちれば無事では済まないだろう。
「問題ない。これくらいで怖気づいていては、王子など務まらない」
窓の縁を掴みながらオーエン様は、笑った。
そんな顔をされても、ちっとも安心できない。
「大問題です。殿下、もう私とは会わないでください」
「どうして?」
「私などと会い続ければ、王家の威信にも関わります。きっとご迷惑でしょう」
「迷惑なものか。……ラーサと話していると心が落ち着く。だから、もう会わぬなどと――」
「いいえ、お会いできません。お父さまから、外出を禁じられていますし」
「では俺がここから連れ出してやる!」
そう言って、オーエン様は私の腕を掴む。
「おやめください!」
私は、彼の手を強く振り払った。
「ラーサ……」
彼の伏せた眉毛を見て、私はたじろぐ。
けれども、これ以上、殿下に迷惑はかけられない。
いつまでもはっきりしない態度では、彼をこの場に留めてしまうだけだ。
「オーエン様、あなたと過ごした日々は、一生の宝です。私にはもったいないくらいの」
「俺も同じだ。俺もラーサのことを――」
「やめてください」
私はその言葉を強く遮った。
「ラーサ……」
「そのお言葉だけで……十分です」
自由のない毎日をくり返し、一生を終えるのだと思っていた。
けれども、彼に会えた。それで満ち足りている。彼との思い出は、きっと何十年経っても忘れない。
「ラーサ様、お食事をお持ちしました」
部屋のドアの向こうから、声が聞こえてきた。
いけない。このままでは、見つかる。
「侍女がすぐそこにいます。オーエン様、どうかお帰りください。もう、私の下には来ないで」
「そんなの納得できん! 俺はラーサとならば、国を抜け出しても構わぬ!」
「抜け出すって……それでは、まるで誘拐犯ではありませんか」
「嫌か? 俺に攫われるのは……」
嫌かどうかと問われれば、嫌だ。
暗い未来しか思い浮かばない。
けれど、今にも泣きだしそうな表情を見て、口の端を結ぶ。
「殿下に、これ以上ご負担をかけたくないのです。どうか、ルミアとお幸せになって」
誰かの婚約者を奪う盗人になんて、なりたくはない。
だから、あふれ出る内側の熱を抑え、私は彼に告げる。
「……なら、せめて。ひとつだけ、約束してほしい」
「約束?」
「もし、生まれ変わったら、もう一度会って話してはくれないか? その時は、俺は王族じゃないだろう。君も、違う身分にいるかもしれない」
「……それは」
「お願いだ。また一緒に花たちの世話をしたい。共に語らいながら庭を歩きたい。ラーサと、一緒に生きたいのだ!」
矢継ぎ早に、彼は言い募る。
私の衝撃は、お義母さまの平手打ちなど霞むほど。口からは何の言葉も出てこない。
けれど、彼の語った未来が現実になったら……想像するだけで心が躍る。
素敵な、本当に素敵な夢物語だ。
「……ええ、そうですわね。生まれ変わったら、私も殿下と――」
言い終わるより前に、私は部屋の窓を閉めた。
滲んだ目元を見られたくなかったから。
再び、カーテンを開けた時、彼はそこにいない。
いつかまた、会えると言ったけれど、それが叶うのかも分からない。
唇を噛む。彼にもらった最後の言葉を、身に刻むようにして。
**
一国が滅びるのは、なんて呆気ないものなのだろう。
オーエン様との別れから1年後。
アシス王国は、隣のノルランド帝国からの侵攻を受けた。
アシスの騎士達は果敢に戦った。
けれど、強大な帝国の戦力を前にしては為す術もない。瞬く間に、国土は帝国のものと化していった。
帝国軍はわずか3日で王城に達した。
誰よりも早く城から逃げ出したのは、国王夫妻だ。
以前オーエン様に聞いたとおりの臆病っぷりだった。
次に、父やルミアをはじめとした宮廷貴族たち。宝石やら壺やらを大事そうに抱え、我先にと走り去っていく。なるほど、これが、貴族としての矜持なのか。
城内には、まだ侍女や料理人など、城勤めの者たちがいた。
非武装の彼らを残して、逃げる気なんてない。
お父さまたちと同類になるくらいなら、この城と一緒に滅んでやる。
城にまで入ってきた帝国軍の兵士たちは、あっという間に私の目の前まで来た。
「この城は我が軍が包囲した! お前たちの希望は潰えている。
なおも我らに歯向かう死にたがりは前に出よ」
怒号を上げたのは、巨体の男だった。豪勢な鎧を身にまとい、頭には冠が乗っている。
ノルランド帝国の皇帝だ。
私は一歩、前に出た。別に死にたいとは思わなかったけれど。
「ほう、肝の据わった小娘だ。貴族の出で立ちに見えるが?」
「はい。私は、アルハベル公爵家長女、ラーサにございます」
「アルハベル……あの騒々しい男の娘か」
皇帝は得心のいったような顔をした。
「父をご存じ、なのですか?」
「ああ。我が軍に囲まれて必死に泣きわめいて命乞いしておったわ」
お父さまは、ルミアやお義母さまと共に逃亡していたそうだ。そこを帝国軍の騎士に捕らえられ、保護されたらしい。
この国の貴人共は情けない、と、皇帝陛下は首を横に振る。
家族を侮辱されても、私の心は微塵も動かなかった。
ただ、身内としては恥ずかしい。
オーエン様のことも聞こうと思ったけれど、怖くて聞けなかった。
もしも彼が無事でなかったら?
考えるだけで、寒気がする。
「恐れながら陛下、ひとつ、お願いがございます」
「よかろう。申せ」
「城に残された者たちの命を、どうかその寛大な御心でお救いください。その代わり、この身と父が溜め込んでいた財宝をすべてお譲りいたします。どうか、ご一考を」
「ふーむ、どちらも興味はないが、戦は終わった。早々に、城内から去れ」
慈悲深い皇帝陛下のお許しを受け、城の者たちは歓声を上げて出ていった。
そうして短い侵略戦争は収束した。
**
アシス王国の貴族は、帝国によって爵位を剥奪された。
皇帝から有益と判断された一部の者たちは、新しく地位を与えられた。
実はあの方も、そのひとりらしい。
しかし、命惜しさに逃げた者には、手厳しい処遇が待っていた。
例えば、アルハベル公爵家の財産はすべて修道院への寄付金に代わり、一文無しだ。身ぐるみをはがされたお父さまやお義母さまさま、ルミアは、鉱山労働者として勤しんでいる。
一方、私は皇帝から「民を置いて逃げぬ勇ましさは、称賛に値する」と評された。
後に、統治に活かせる才媛と認められる。
そして伯爵位を頂戴し、片田舎の領地を治める任を授かった。そこは、お母さまの生まれ故郷でもあった。
元王国の北の端にある、冷気の漂う場所だ。冬になると、特にそう感じる。公道は凍り、家々の屋根は雪で覆われ、商人の荷馬車も一切見られなくなる。
女領主となった私は、10年間のほとんどを小さなお邸の中で過ごした。
感情のこもらない声のせいか、『凍った女領主』として名を馳せている。
確かに、凍っているのかもしれない。もともと低めの体温が、日に日に失われている気がする。
田舎の領主の政務は、少しの書き仕事だけ。冬の備蓄や税の管理と、稀に起きる裁判の処理くらいのものだ。
あとは、たまに鉱山労働者が押しかけてくることもある。「お姉さま、どうかお慈悲を」と。そうした貧しい領民に、生活資金を分け与える慈善活動も行っていた。
こうした日々のお仕事は、午前中には終わる。
お昼以降は、ただ雪の降る外の景色を眺めるくらいしか、やることがない。本当に退屈な日々だ。
王城が陥落したあの夜が、昨日のことのように思える。アシス王国の名が地図から消えて10年も経ったなんて信じられない。
深いため息をつき、私は雪の上を歩いていた。
寒いけれど、ずっとお邸の中にいては落ち着かない。体を動かさねば、自分が生きていることすら忘れてしまいそうだった。
石橋の上を歩いていると、馬蹄の音が聞こえてくる。
やがて1頭の白馬が、目の前に見えた。乗っているのは、御者ひとりだけ。その顔は、ローブに覆われて見えない。
こんな寒い日に、商人? 珍しい……いや、盗人かもしれない。
そう思いはしたけれど、私の胸に焦りはなかった。だって、盗まれて困るようなものなんてないし。
ところがだ。
その何者かがローブをばさりと取ったとき、容貌が露わとなる。
「え……」
白い吐息とともに、驚きの声が漏れた。
私は彫刻さながらに身動きができなかった。
夢? それとも、幻覚……?
そのまま呆然と立ち尽くしていれば、彼はさっと馬から降りた。
こちらに近づいてくる彼の足取りを、時が遅くなったように見つめていた。
「ラーサ! 久しぶりだな……!」
毅然としたその眼差しは、あの頃とまったく変わっていない。
オーエン様は、無邪気な笑顔を浮かべていた。
**
オーエン様と隣り合って歩く。
頬をつねらずにはいられなかった。
あの元王子様が目の前にいる。まったく現実味がない。生きているのは知っていたけれど、私はあまり信じていなかったらしい。
こうして目の前にいる今では、信じざるを得ないのだけど。
あの夜、オーエン様は、終戦まで戦い続けた。
逃げた父王に代わり、王国の騎士達を率いる勇姿は、今や英雄譚にもなっている。その活躍ぷりは、この辺境の地に住む領民も知るほどだ。
皇帝陛下も、オーエン様の勇猛さを惜しいと思ったらしい。
だから爵位を与え、領地を治めさせたそう。当然ながら、ルミアとの婚約は白紙となった。
私と同じような境遇だが、彼の場合、それだけでは留まらない。
後に、帝国内の内乱で功績を収め、侯爵という地位にまで上り詰めた。最近では、皇帝の腹心とまで言われ、厚く信頼されているらしい。
「まさか、こんな辺境にいるとはな」
皇帝陛下とお近づきになれたおかげで、私の所在が分かったそうだ。
でもまさか、ずっと探していてくれたなんて。
彼は、雪の積もった辺りの景色を見渡していた。
「こうしてると、城の庭を思い出す」
つい、ビクッと身をすくめてしまった。
私も、ちょうど、同じことを考えていたから。
「殿下……」
「もう、俺は王族じゃない。昔のようにオーエンで構わない」
その気さくな微笑みを見れば、硬い顔周りの筋肉が和らぐ。
最後に笑ったのはいつだっただろうか。
「相変わらず強引ですわね、オーエン様」
彼の名を口にした途端、足取りが一気に軽くなった。
そうして歩いていると、オーエン様がふと立ち止まる。
「ん、あの白い花……」
私も足を止め、ゆっくりと頷く。
この辺りではたびたび見かける。まだ春はもう少し先だが、雪を押しのけるようにして咲いていた。
「ここは、母の故郷なんです。寒い土地ですから、育ちやすいのです」
「そうか。ふ、あの花を見ていると、昔を思い出す。……本当に、綺麗な花だ」
「そう、ですね」
「ラーサみたいだ」
「……そうですかしら?」
相も変わらず、率直な物言いだ。
いや、もう王子様ではなかった。
けれど、あの花を見るといつも息苦しくなってしまう。彼と最後に会った夜の記憶がよみがえってしまうから。
私は歩調をゆるめ、うつむいた。
そうして歩いていると、オーエン様に名を呼ばれた。
「花を見かけるたびに、ラーサのことを思い出す。……また、ラーサと一緒に、花たちの世話をしたい」
「花壇はもうありませんわよ?」
「俺が作ってやろう。雪の下には、石が転がっているはずだ」
「侯爵さまにそのようなことをさせられません。皇帝陛下に叱られてしまいますわ」
ふふ、と小さな笑い声が、静かな辺りに響く。
こうしていると、昔に戻ったみたい。
「あの日の約束、覚えているか? 君の部屋の窓に押しかけた時」
少し気恥ずかしそうにしながら、彼は問いかけてきた。
「忘れられるはずがありませんわ。あの時は本当にひやひやしましたもの」
と言いつつ、私もなんだかいたたまれなくなって顔をそらす。
「そうか、よかった」
彼はほっとため息をついた。
そして、彼は自身の胸元に手を置く。
「俺はあの日、君に言った。生まれ変わったら、必ずまた会えると」
当然、覚えている。
あの言葉がなかったら、私は今日まで生きて来られただろう。
来世では彼と――そう信じ続けていた。
「言った通りになっただろう? 生まれ変わって、また会えた」
「別に、生まれ変わっては……」
「いないか? 俺はもうアシスの王子ではないし、君も、今はこの地の領主。こうして二人で歩いていても、とやかく言う者もいない」
ふっと息を吸い、彼は再びこちらに目を向ける。
私も、彼の紅い瞳に釘付けとなっていた。
「……」
冷たい風が辺りの雪をさらう。
そっと息を吐くのと同時に、彼は告げる。
その視線はまっすぐと私に向けられていた。
「だから、ラーサ。あの日の約束、果たしてはくれないか?」
聞いた途端、胸がほっと温かくなった。
ずっと、自分のことを生きる屍みたいと思っていた。最近じゃ味覚すら感じないくらいだ。自分の内側が、どんどん枯れていくようだった。
「……私、この地に住む方々から、凍った女と呼ばれていますのよ?」
「なぜだ。ラーサは凍っていない」
「冷たい声で、いつも鉄面皮。だから、陰でそう言われていますの」
「この地の者共の目はどうかしている。目に、雪でも詰まっているのではないか?」
「いえ、本当のことですから。笑わないし、優しくもないし、これといって特技もない。この何もない土地と同じですわ」
「ならば、俺が笑わせてやろう、俺が目いっぱいに愛してやろう。ラーサの花を育てる腕前を、帝国中に知らしめてやろう」
「普通に恥ずかしいからやめてください。でも、そうですわね……」
迷いながら、私は口にする。
「少しだけ愛してくだされば、つい笑ってしまうかも」
微笑むと、体がふわりと軽くなった。
空を見上げれば、いつの間にか雪が止んでおり、雲の合間から光が差し込んでいた。




