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凍った女領主が溶けるまで

作者: 星川ホキ
掲載日:2026/05/17

 私は、血の通っていない「凍った女領主」として民から慕われている。

 温もりのない声のせいだろう。

 失礼な呼び名だけれど、残念ながら否定はできない。


 お邸の玄関の扉を開ける。

 すると、冷えた空気が飛びこんできた。

 さすがは、帝国最北端の辺境だ。立っているだけで身震いする。


「ラーサ様、お出かけですか」


 お付きの侍女が平坦な声で訊ねてきた。


「ええ、そうね。今日も、少し散歩しようと思って。サボりではないわよ?」


 いつも通り、政務は午前中に片付いた。だから、散歩くらいしか、この退屈をなくす術がなかった。


 舞い落ちる雪は、白く、冷たい。

 それでも、雪を踏み歩いて進む。


 ああ、まただわ。

 ひとりで歩いていると、いつも頭に浮かんでしまう。


 昨日のことのように覚えている。


 あの方と過ごしたわずかな日々――もう10年も前の話だけれど。


**


 10年前のアシス王国。

 当時13歳だった私は、お城に住んでいた。

 アルハベル公爵家の長女として、王宮で暮らしていたのだ。


 私を産んでくださったお母さまは、もともと王宮の侍女だった。だから、平民生まれの令嬢として見下げられていた。

 みんなが目を向けるのは華やかな妹、ルミアの方だ。正妃との間で生まれた美貌端麗のご令嬢だった。 

 特徴の乏しい平凡な私は、そんな妹の影でひっそりと生きていた。


 婚約者の違いは、私たちの未来を如実に示している。

 妹のルミアは、このアシス王国の第2王子――オーエン殿下の婚約者だ。22歳という若さで、外交や政治に関わっており、騎士道にも精通したお人である。


 一方、私は30も離れた侯爵のもとに嫁ぐことになっている。

 それも、侯爵とは名ばかり。日々放蕩にふけるろくでなしと噂の、とっても素晴らしいお方だ。彼の噂を聞くたび、体がずんと重くなる。


 正式な結婚に向けて、お父さまは私に淑女としてのたしなみを強いた。

 言われた通り、私はあらゆる教養を身につけた。自室で何冊もの本を読み、1日のほとんどを過ごした。

 なのに、「父親の傀儡みたい」なんて、城の住人たちに噂される。


 ほんと、やってられない。


**


 お母さまが亡くなったのをきっかけに、お父さまの愛情は、再婚したお義母さまとその娘であるルミアへいっそう傾いた。


 その一方で、私は嫁がせるための道具のように扱われる。まさに、お父さまの傀儡だ。お義母とルミアからは、庶民生まれの娘だと嘲笑われ、いつも見下げられる。

 未来に希望なんて見いだせるはずもなかった。


 けれど、そんな私でも、ささやかな楽しみがあった。城の中庭にある花壇の世話だ。お母さまが大切に世話されていた花だった。だから、代わりに私が手入れを引き継いでいる。

 花壇に植えているのは、小さな花々だ。スノードロップという、白い釣り鐘の形をした多年草だった。寒い場所でよく育つお花だ。

 王城の外壁で日中陰になっているこの場所は、生育に最適だった。


 ある日の午後、いつもどおり水やりをしていると声をかけられた。


「その花、綺麗だな」


 静かな低い声がした。

 振り向くと、しなやかな痩躯の男性がいた。幽かな香りのせいか、冴えざえとした気品を感じる。背の真ん中あたりまで流れる白銀の髪は、絹糸のよう。

 純白を基調とした上衣が、品位の高さを暗示していた。


 彼は、花壇の花を見て、紅い色の目を丸くしていた。

 

 でも、その時の私はもっと目を見開いていただろう。


「王子殿下……!」


 はっと頭を下げる。

 心臓がばくばくと言っていてうるさい。


「よい。楽にしてくれ。それより、その花はなんという?」


 くれぐれも失礼のないようにしなくては! 

 ぴんと背筋をのばし、私は答える。


「あ、ありがとうございます。……この花は、スノードロップといって、冬にだけ咲く花なんです」


「冬にしか?」


「はい。母が故郷から持ってきた花でして。王都の周辺では滅多に見かけない、珍しい花なんだそうです」


「なんと。ならば、ここで見られるのは貴重だな」


「ええ、まあ。けれど、中央にあるお花畑の方が、色とりどりで綺麗ですわ。珍しいお花もたくさんありますし」


 城門前には大きな花園がある。華やかで綺麗な場所だ。お義母さまやルミアは、いつもあそこでお茶を楽しんでいる。


「だが、あそこに白い花はない」


「白?」


「俺は白が好きだ。自由な感じがしてな」


 屈託なく笑う彼に、しばし見入ってしまった。


「ところで、そなた。名は?」


 はっとして、胸の高鳴りを落ち着かせ、カーテンシーを行う。


「これは失礼いたしました。アルハベル公爵家が長女、ラーサと申します」


「アルハベル……となると、ルミア殿の?」


「はい。ルミアは私の妹でございます」


「なるほど。では、俺とルミアが結婚すれば、ラーサ殿とも親縁の仲となるのか」


「……そう、なりますね」


 でも、私が王族と親縁だなんて、まるで実感がわかない。


「そうか、そうか! では、俺のことは兄とでも呼ぶといい」


 王子様の破顔は、花のつぼみがほころぶようだった。


 それがお兄さま……いえ、アシス王国の第2王子、オーエン様との出会いだった。


**


 あの日から、オーエン様とこっそり会うようになった。

 花壇の水やりをしている私の下に、オーエン様が声をかけてくる。お勤めが早く終わった日には、城内を歩いているらしい。


「お、ラーサではないか!」


 名を呼ばれると、思わず息が詰まる。

 けれど、私を見つけたとき、オーエン様は頬をゆるませる。

 それを見ると、私はいつも体がふわりと浮いてしまいそうになる。


「スノードロップは、冬によく見られるんですよ」


 水やりを終えた後は、ふたりで花壇の辺りを散歩する。

 人通りの少ない城庭の角だから、誰かに見咎められることもない。


「ラーサは物知りだな。いや、俺が不勉強なだけか」


「いえ、そんなことはありませんわ。殿下の方がずっと博学でいらっしゃいます」


 一緒に花に水をあげて、お話をして。

 お話と言っても、私のできる話は、お花のこと……後は、読んだ本の内容くらいのもの。


 対して、オーエン様のお話は種類豊富で、聞いていて飽きない。

 外国については弁を弾ませ、兄君に剣の稽古で勝てた日には、得意げに自慢してきた。

 無邪気に語る彼の姿を見ていると、聞いている私まで心が躍る。


 一番記憶に残ったのは、国王陛下の愚痴、もといお褒めの言葉だった。


「父上は周りから堅物だと誤解されているが、とても憶病でな。特に、雷が苦手だ。雷雨の日には俺の布団に駆け込んでくる。可愛らしいお方だ」


 堅物といえば、オーエン様に対する私の印象もそうだった。

 社交界で見たときはお堅い雰囲気で、雲の上の人だと思っていた。けれど、いざ話してみると緊張しない。むしろ、話すうちに心臓の鼓動が落ち着いてくる。


 半年が経った頃には、私より花壇に先に来たオーエン様が、花に水やりをするようになった。

「元気に育てよ」と言いながら。

 声をかけるより前、その優しげな微笑みをこっそり見るのが、私のひそかな楽しみだった。

 

 でも、彼との散歩は、いつもあっという間に終わってしまう。


 別れの時は、決まって例の花壇の前だった。

 彼の姿が見えなくなってから、私はひとりうなだれる。


 スノードロップみたいに。


**


「この、卑しい娘が!」


 お義母さまの平手が頬に直撃する。

 じんとした痛みが顔中に広がった。


「どういうことなの!? お姉さま!」


 お義母さまの後ろでは、ルミアが声を荒らげている。

 オーエン様とこっそり会っているのが、家族に露見したのだ。


「人様の婚約者を口説き落とそうなんて、躾が足りなかったようね」


「そうよ。矜持がなさすぎますわ。それでもアルハベル公爵家の人間ですの?」


 彼女らの罵声が、降り注ぐ。


 露見までの経緯はこうだ。

 王宮の廊下でオーエン様を見つけたルミアが、後を付けていた。私と会っているのを目撃したルミアは、お父さまとお義母さまに告げ口する。


 迂闊だった。


 だけど、尾行する人に、矜持がどうとかは言われたくない。


「申し訳、ございません」


 私は、謝罪を口にした。

 だけれども、お義母さまとルミアは、表情を険しくさせるばかりだ。


「謝って許されるとお思い!?」


「出来損ないのくせに、態度だけは傲慢。あの女とそっくりね。きっと、平民の血が混ざっているのだわ」


「オーエ……殿下とは、ただ少し世間話に花を咲かせていただけです。誓って、それ以上の関係ではございません」


 自分で口にした瞬間、心がずきりと痛んだ。

 お義母さまたちにいくら罵倒されたところで、何も感じなかったというのに。


 でも、いけない。

 このことが国王夫妻の耳にまで入ったら取り返しがつかなくなる。


 だから、もう、会うのはやめないと。


 殿下とは二度と顔を合わせない。

 私はお義母さまたちにそう訴え続けた。


 すると、さらに何度か頬を叩かれた後、彼女らは部屋を出ていった。


 痛みは感じなかった。

 あるのは、心にぽっかりと空いた穴だけだった。


**


 あの日以来、自室に閉じこめられて、部屋から出してもらえなくなった。

 庭にも行けず、部屋にこもって編み物するくらいしか、やることがない。


「ラーサ、ラーサ!」


 何もない部屋でいつも通り、編んでいると、窓際から声がした。

 ふとカーテンを開けてみれば、そこにはオーエン様がいた。


「い、いったい、何をなさっているのですか!?」


 思わず大声を出してしまったと気づき、私は口元を両手で押さえる。


「久しぶりに、ラーサに会いたくてな。よかった、元気そうで。心配していたのだぞ?」


 彼はさして動じた様子もなく笑った。

 確かに元気ではあるが、衝撃のあまり今にも卒倒しそうだ。


「いけません。危険ですから、すぐに下りてください……!」


 声をひそめ、私は言葉を急ぐ。

 ここは王宮の上階だ。落ちれば無事では済まないだろう。


「問題ない。これくらいで怖気づいていては、王子など務まらない」


 窓の縁を掴みながらオーエン様は、笑った。

 そんな顔をされても、ちっとも安心できない。


「大問題です。殿下、もう私とは会わないでください」


「どうして?」


「私などと会い続ければ、王家の威信にも関わります。きっとご迷惑でしょう」


「迷惑なものか。……ラーサと話していると心が落ち着く。だから、もう会わぬなどと――」


「いいえ、お会いできません。お父さまから、外出を禁じられていますし」


「では俺がここから連れ出してやる!」


 そう言って、オーエン様は私の腕を掴む。


「おやめください!」


 私は、彼の手を強く振り払った。


「ラーサ……」


 彼の伏せた眉毛を見て、私はたじろぐ。

 けれども、これ以上、殿下に迷惑はかけられない。

 いつまでもはっきりしない態度では、彼をこの場に留めてしまうだけだ。


「オーエン様、あなたと過ごした日々は、一生の宝です。私にはもったいないくらいの」


「俺も同じだ。俺もラーサのことを――」


「やめてください」


 私はその言葉を強く遮った。


「ラーサ……」

「そのお言葉だけで……十分です」

 

 自由のない毎日をくり返し、一生を終えるのだと思っていた。

 けれども、彼に会えた。それで満ち足りている。彼との思い出は、きっと何十年経っても忘れない。


「ラーサ様、お食事をお持ちしました」

 

 部屋のドアの向こうから、声が聞こえてきた。

 いけない。このままでは、見つかる。


「侍女がすぐそこにいます。オーエン様、どうかお帰りください。もう、私の下には来ないで」


「そんなの納得できん! 俺はラーサとならば、国を抜け出しても構わぬ!」


「抜け出すって……それでは、まるで誘拐犯ではありませんか」


「嫌か? 俺に攫われるのは……」


 嫌かどうかと問われれば、嫌だ。


 暗い未来しか思い浮かばない。

 けれど、今にも泣きだしそうな表情を見て、口の端を結ぶ。


「殿下に、これ以上ご負担をかけたくないのです。どうか、ルミアとお幸せになって」


 誰かの婚約者を奪う盗人になんて、なりたくはない。

 だから、あふれ出る内側の熱を抑え、私は彼に告げる。


「……なら、せめて。ひとつだけ、約束してほしい」


「約束?」


「もし、生まれ変わったら、もう一度会って話してはくれないか? その時は、俺は王族じゃないだろう。君も、違う身分にいるかもしれない」


「……それは」


「お願いだ。また一緒に花たちの世話をしたい。共に語らいながら庭を歩きたい。ラーサと、一緒に生きたいのだ!」


 矢継ぎ早に、彼は言い募る。

 私の衝撃は、お義母さまの平手打ちなど霞むほど。口からは何の言葉も出てこない。

 けれど、彼の語った未来が現実になったら……想像するだけで心が躍る。


 素敵な、本当に素敵な夢物語だ。


「……ええ、そうですわね。生まれ変わったら、私も殿下と――」


 言い終わるより前に、私は部屋の窓を閉めた。


 滲んだ目元を見られたくなかったから。

 再び、カーテンを開けた時、彼はそこにいない。

 いつかまた、会えると言ったけれど、それが叶うのかも分からない。

 

 唇を噛む。彼にもらった最後の言葉を、身に刻むようにして。


**


 一国が滅びるのは、なんて呆気ないものなのだろう。


 オーエン様との別れから1年後。

 アシス王国は、隣のノルランド帝国からの侵攻を受けた。


 アシスの騎士達は果敢に戦った。

 けれど、強大な帝国の戦力を前にしては為す術もない。瞬く間に、国土は帝国のものと化していった。

 帝国軍はわずか3日で王城に達した。

 誰よりも早く城から逃げ出したのは、国王夫妻だ。

 以前オーエン様に聞いたとおりの臆病っぷりだった。


 次に、父やルミアをはじめとした宮廷貴族たち。宝石やら壺やらを大事そうに抱え、我先にと走り去っていく。なるほど、これが、貴族としての矜持なのか。


 城内には、まだ侍女や料理人など、城勤めの者たちがいた。

 非武装の彼らを残して、逃げる気なんてない。


 お父さまたちと同類になるくらいなら、この城と一緒に滅んでやる。


 城にまで入ってきた帝国軍の兵士たちは、あっという間に私の目の前まで来た。


「この城は我が軍が包囲した! お前たちの希望は潰えている。

 なおも我らに歯向かう死にたがりは前に出よ」


 怒号を上げたのは、巨体の男だった。豪勢な鎧を身にまとい、頭には冠が乗っている。

 ノルランド帝国の皇帝だ。


 私は一歩、前に出た。別に死にたいとは思わなかったけれど。


「ほう、肝の据わった小娘だ。貴族の出で立ちに見えるが?」


「はい。私は、アルハベル公爵家長女、ラーサにございます」


「アルハベル……あの騒々しい男の娘か」


 皇帝は得心のいったような顔をした。


「父をご存じ、なのですか?」


「ああ。我が軍に囲まれて必死に泣きわめいて命乞いしておったわ」


 お父さまは、ルミアやお義母さまと共に逃亡していたそうだ。そこを帝国軍の騎士に捕らえられ、保護されたらしい。


 この国の貴人共は情けない、と、皇帝陛下は首を横に振る。

 家族を侮辱されても、私の心は微塵も動かなかった。

 ただ、身内としては恥ずかしい。


 オーエン様のことも聞こうと思ったけれど、怖くて聞けなかった。

 もしも彼が無事でなかったら?

 考えるだけで、寒気がする。


「恐れながら陛下、ひとつ、お願いがございます」


「よかろう。申せ」


「城に残された者たちの命を、どうかその寛大な御心でお救いください。その代わり、この身と父が溜め込んでいた財宝をすべてお譲りいたします。どうか、ご一考を」


「ふーむ、どちらも興味はないが、戦は終わった。早々に、城内から去れ」

 

 慈悲深い皇帝陛下のお許しを受け、城の者たちは歓声を上げて出ていった。

 そうして短い侵略戦争は収束した。


**


 アシス王国の貴族は、帝国によって爵位を剥奪された。

 皇帝から有益と判断された一部の者たちは、新しく地位を与えられた。

 実はあの方も、そのひとりらしい。


 しかし、命惜しさに逃げた者には、手厳しい処遇が待っていた。

 例えば、アルハベル公爵家の財産はすべて修道院への寄付金に代わり、一文無しだ。身ぐるみをはがされたお父さまやお義母さまさま、ルミアは、鉱山労働者として勤しんでいる。


 一方、私は皇帝から「民を置いて逃げぬ勇ましさは、称賛に値する」と評された。

 後に、統治に活かせる才媛と認められる。

 そして伯爵位を頂戴し、片田舎の領地を治める任を授かった。そこは、お母さまの生まれ故郷でもあった。


 元王国の北の端にある、冷気の漂う場所だ。冬になると、特にそう感じる。公道は凍り、家々の屋根は雪で覆われ、商人の荷馬車も一切見られなくなる。


 女領主となった私は、10年間のほとんどを小さなお邸の中で過ごした。

 感情のこもらない声のせいか、『凍った女領主』として名を馳せている。

 確かに、凍っているのかもしれない。もともと低めの体温が、日に日に失われている気がする。


 田舎の領主の政務は、少しの書き仕事だけ。冬の備蓄や税の管理と、稀に起きる裁判の処理くらいのものだ。

 あとは、たまに鉱山労働者が押しかけてくることもある。「お姉さま、どうかお慈悲を」と。そうした貧しい領民に、生活資金を分け与える慈善活動も行っていた。


 こうした日々のお仕事は、午前中には終わる。

 お昼以降は、ただ雪の降る外の景色を眺めるくらいしか、やることがない。本当に退屈な日々だ。


 王城が陥落したあの夜が、昨日のことのように思える。アシス王国の名が地図から消えて10年も経ったなんて信じられない。


 深いため息をつき、私は雪の上を歩いていた。

 寒いけれど、ずっとお邸の中にいては落ち着かない。体を動かさねば、自分が生きていることすら忘れてしまいそうだった。


 石橋の上を歩いていると、馬蹄の音が聞こえてくる。

 やがて1頭の白馬が、目の前に見えた。乗っているのは、御者ひとりだけ。その顔は、ローブに覆われて見えない。

 こんな寒い日に、商人? 珍しい……いや、盗人かもしれない。


 そう思いはしたけれど、私の胸に焦りはなかった。だって、盗まれて困るようなものなんてないし。


 ところがだ。


 その何者かがローブをばさりと取ったとき、容貌が露わとなる。


「え……」


 白い吐息とともに、驚きの声が漏れた。


 私は彫刻さながらに身動きができなかった。

 夢? それとも、幻覚……?

 そのまま呆然と立ち尽くしていれば、彼はさっと馬から降りた。


 こちらに近づいてくる彼の足取りを、時が遅くなったように見つめていた。


「ラーサ! 久しぶりだな……!」


 毅然としたその眼差しは、あの頃とまったく変わっていない。

 オーエン様は、無邪気な笑顔を浮かべていた。


**


 オーエン様と隣り合って歩く。


 頬をつねらずにはいられなかった。

 あの元王子様が目の前にいる。まったく現実味がない。生きているのは知っていたけれど、私はあまり信じていなかったらしい。

 こうして目の前にいる今では、信じざるを得ないのだけど。


 あの夜、オーエン様は、終戦まで戦い続けた。

 逃げた父王に代わり、王国の騎士達を率いる勇姿は、今や英雄譚にもなっている。その活躍ぷりは、この辺境の地に住む領民も知るほどだ。


 皇帝陛下も、オーエン様の勇猛さを惜しいと思ったらしい。

 だから爵位を与え、領地を治めさせたそう。当然ながら、ルミアとの婚約は白紙となった。

 私と同じような境遇だが、彼の場合、それだけでは留まらない。

 後に、帝国内の内乱で功績を収め、侯爵という地位にまで上り詰めた。最近では、皇帝の腹心とまで言われ、厚く信頼されているらしい。


「まさか、こんな辺境にいるとはな」


 皇帝陛下とお近づきになれたおかげで、私の所在が分かったそうだ。

 でもまさか、ずっと探していてくれたなんて。


 彼は、雪の積もった辺りの景色を見渡していた。


「こうしてると、城の庭を思い出す」


 つい、ビクッと身をすくめてしまった。

 私も、ちょうど、同じことを考えていたから。


「殿下……」


「もう、俺は王族じゃない。昔のようにオーエンで構わない」


 その気さくな微笑みを見れば、硬い顔周りの筋肉が和らぐ。

 最後に笑ったのはいつだっただろうか。


「相変わらず強引ですわね、オーエン様」


 彼の名を口にした途端、足取りが一気に軽くなった。

 そうして歩いていると、オーエン様がふと立ち止まる。


「ん、あの白い花……」


 私も足を止め、ゆっくりと頷く。

 この辺りではたびたび見かける。まだ春はもう少し先だが、雪を押しのけるようにして咲いていた。


「ここは、母の故郷なんです。寒い土地ですから、育ちやすいのです」


「そうか。ふ、あの花を見ていると、昔を思い出す。……本当に、綺麗な花だ」


「そう、ですね」


「ラーサみたいだ」


「……そうですかしら?」


 相も変わらず、率直な物言いだ。

 いや、もう王子様ではなかった。

 けれど、あの花を見るといつも息苦しくなってしまう。彼と最後に会った夜の記憶がよみがえってしまうから。


 私は歩調をゆるめ、うつむいた。

 そうして歩いていると、オーエン様に名を呼ばれた。


「花を見かけるたびに、ラーサのことを思い出す。……また、ラーサと一緒に、花たちの世話をしたい」


「花壇はもうありませんわよ?」


「俺が作ってやろう。雪の下には、石が転がっているはずだ」


「侯爵さまにそのようなことをさせられません。皇帝陛下に叱られてしまいますわ」


 ふふ、と小さな笑い声が、静かな辺りに響く。


 こうしていると、昔に戻ったみたい。


「あの日の約束、覚えているか? 君の部屋の窓に押しかけた時」


 少し気恥ずかしそうにしながら、彼は問いかけてきた。


「忘れられるはずがありませんわ。あの時は本当にひやひやしましたもの」


 と言いつつ、私もなんだかいたたまれなくなって顔をそらす。


「そうか、よかった」


 彼はほっとため息をついた。

 そして、彼は自身の胸元に手を置く。


「俺はあの日、君に言った。生まれ変わったら、必ずまた会えると」


 当然、覚えている。

 あの言葉がなかったら、私は今日まで生きて来られただろう。

 来世では彼と――そう信じ続けていた。


「言った通りになっただろう? 生まれ変わって、また会えた」


「別に、生まれ変わっては……」


「いないか? 俺はもうアシスの王子ではないし、君も、今はこの地の領主。こうして二人で歩いていても、とやかく言う者もいない」


 ふっと息を吸い、彼は再びこちらに目を向ける。

 私も、彼の紅い瞳に釘付けとなっていた。


「……」


 冷たい風が辺りの雪をさらう。

 そっと息を吐くのと同時に、彼は告げる。

 その視線はまっすぐと私に向けられていた。


「だから、ラーサ。あの日の約束、果たしてはくれないか?」


 聞いた途端、胸がほっと温かくなった。

 ずっと、自分のことを生きる屍みたいと思っていた。最近じゃ味覚すら感じないくらいだ。自分の内側が、どんどん枯れていくようだった。


「……私、この地に住む方々から、凍った女と呼ばれていますのよ?」


「なぜだ。ラーサは凍っていない」


「冷たい声で、いつも鉄面皮。だから、陰でそう言われていますの」


「この地の者共の目はどうかしている。目に、雪でも詰まっているのではないか?」


「いえ、本当のことですから。笑わないし、優しくもないし、これといって特技もない。この何もない土地と同じですわ」


「ならば、俺が笑わせてやろう、俺が目いっぱいに愛してやろう。ラーサの花を育てる腕前を、帝国中に知らしめてやろう」


「普通に恥ずかしいからやめてください。でも、そうですわね……」


 迷いながら、私は口にする。


「少しだけ愛してくだされば、つい笑ってしまうかも」


 微笑むと、体がふわりと軽くなった。


 空を見上げれば、いつの間にか雪が止んでおり、雲の合間から光が差し込んでいた。

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― 新着の感想 ―
継子苛めする義母義異母妹より、平民と分かっていて娶って子まで作ったのに守らない父が問題だよなぁ。
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