帰宅中のトイレ
昔、経験したことを参考にして書いてみました。
午後6時半。会社を出たばかりの僕は、普段なら少しゆっくりと帰れる時間帯だが、今日は違った。退勤ラッシュのピークに巻き込まれ、電車は異常なほど混雑していた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々が、まるで無理に押し込まれたパズルのピースのようだ。肩をぶつけ合い、他人の息が頬に当たる。その不快感に、普段なら慣れているはずだが、今日はどうもそれが耐えられない。
何かが違う。
その何かが、突然、僕の腹に感じられた。軽い違和感が、すぐに痛みに変わった。最初はただの腹部の圧迫感だと思ったが、次第にその痛みは鋭く、そして強くなった。まるで腸が引きつるような感覚。僕は思わず腰を少し曲げ、立っているだけで汗がじんわりとにじんできた。
ああ、まずい。これは本格的な腹痛だ。
普段からお腹が弱いわけではないけれど、今日はなぜか調子が悪かった。昼食のカレーが少し辛すぎたのか、それとも昼間のストレスが影響しているのだろうか。だが、そんなことを考えている余裕はない。痛みがますますひどくなり、ついには腹部が波打つように痙攣を始めた。
周りの人々は、満員電車に押し込まれたことに耐え、スマホを見ていたり、ただ立ち尽くしていたりする。誰も僕に気づくことはないだろう。しかし、今、僕が感じている痛みはまさしく人知れず僕の体を支配していた。
僕は必死に平静を保とうとした。無理にでも顔を引き締め、呼吸を深くする。心の中で「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。でも、それだけでは追いつかない。
体が要求している。トイレに行け、と。
だが、この状況ではそれは無理だ。どうにかしてトイレに辿り着くまで耐えなければならない。次の駅が遠いわけではないが、それまで耐えられる自信がない。僕はその場で目を閉じ、必死に頭の中でシミュレーションを始める。
「次の駅……最寄り駅で降りて、すぐにトイレへ……。」
そのイメージが脳内を駆け巡る。でも、実際にはその駅までの数分が、今の僕にとっては何時間にも感じられた。痛みが周期的に強くなり、冷や汗が額を伝う。足元がふらつきそうになり、僕は無意識に人の肩に手を置く。
その時、車両が揺れる。
僕は思わず体を支えたが、その瞬間、内臓が一度ひどくねじれるような感覚に襲われる。「ああ、これ以上無理かもしれない……」と、頭の中で弱音が出かけた。しかし、ここで諦めてしまったら、恥ずかしすぎる。
必死に耐えていると、視界がぼやけてきた。心の中で「耐えろ、もうすぐ駅だ」と何度も言い聞かせるが、その言葉すら空しく響いていく。まるで痛みが、僕を試すように強さを増していった。
電車は次の駅に近づき、ドアの前に立つ人々が動き出した。降りる準備をする声がかすかに耳に入るが、僕にはそれどころではない。痛みに集中することで精一杯だ。
そして、ついに電車が最寄り駅に到着した。
ドアが開き、少しだけ人々が流れ込むように降りる。その間隙を縫って、僕も降りなければならない。しかし、足元がしっかりしているわけではなく、痛みが襲うたびに視界が霞んでいく。もう耐えられない、こんなに痛いのは初めてだ。
無意識に、僕はホームに一歩踏み出した。
最寄り駅にはトイレがある。必ずそこに行かなければ……
ドアが開き、人々が次々に降りていく。僕もその流れに身を任せ、思わず体を前に進めた。もう足元がしっかりしていないのに、ただひたすらに、トイレを目指して歩かなくてはならなかった。
「次はどこだ?」
駅のホームに足を踏み出した瞬間、目の前が急に広がったような気がした。しかし、それも一瞬。腹痛が再び波のように襲ってきて、視界が一瞬ぼやけた。目の前にある階段、改札、そしてそれを見守るように立つ駅員たち。全てが今、僕の痛みに反応しているように感じられた。
無理だ、無理だ。こんなに痛いなんて。どこだ、トイレは?
僕はもう動けないのかと思った。でも、体は勝手に動き出す。左手を改札の壁に触れ、駅構内を必死に歩く。周囲の通勤客の顔が、すれ違うたびにひしひしと僕の神経を刺激する。人々は自分のペースで歩き、目の前を通り過ぎるが、僕にはそのスピードが恐ろしいほど速く感じられた。
「トイレ、トイレ……」
必死に呟きながら、改札を越えて駅の中央に向かって進む。案内板がやけに遠く感じる。それでも、確かにあの方向にトイレがあるはずだ。頭の中で反復して、どうしてもそこにたどり着くことを決意する。
通り過ぎる人々の顔が、僕の中で遠ざかっていく。駅構内の雑踏が、何もかも遠いものに感じる。この混雑した駅で、こんなに焦っているのは僕だけだろうか。こんなにも全身が痛みに引き寄せられているのは、今この瞬間だけだろうか。
トイレ、トイレ、トイレ。
その言葉が頭をぐるぐる回る。そして、その時、案内板に「トイレ」の文字が見えた。今、ここで感じている痛みが、瞬時に希望に変わる。僕はその方向に足を速めた。
だが、ここからがまた別の問題だった。
あれ? どうしてこんなに長い?
トイレの案内が示す先には、無数の人々が並んでいるのが見えた。どうしてこんな時間に、こんなにも多くの人がトイレを待っているのだろうか。僕の焦りはますます強くなる。
その時、さらに腹部がひどく痙攣した。何もかもが逆さになったように感じられ、足が一歩踏み出せない。その瞬間、視界がふわりと揺れる。
「や、やばい、もう耐えられない。」
小さな声で呟くと、必死に動き出した。トイレの入り口まで、まだ数メートル。もう体が限界を迎えようとしていた。背後の人々の視線を感じながら、急いで列に並ぶ。
その時、駅員の姿が目に入った。何かが引っかかったような気がして、思わず顔を上げると、駅員は僕の様子に気づき、そして軽く首をかしげた。
僕はただ黙って、列に並び続けるしかなかった。痛みがどんどん強くなるたびに、意識が少しずつ遠くなる気がする。
早く、早く、お願いだから。
その願いが、何度も心の中で繰り返された。
列に並んでいる間、もう体は限界だった。周りの人々が僕を避けるように少しだけスペースを開けてくれるが、それすらもありがたみを感じる余裕がない。足がガクガクして、腰が浮いてきた。痛みが周期的に襲うたび、視界が暗くなるのを感じる。
あと、少し、あと少し。
無意識に、心の中で自分に言い聞かせる。けれども、その言葉すらも効かなくなっていた。トイレに着くまで、何度も足を踏み外しそうになり、壁に手をついて耐える。周りの人々が何も知らずに普通に立ち、スマホを見たり、会話を交わしたりしている。その光景が、僕にとってはまるで異次元のもののように思えた。
「次、どうぞ。」
ようやく順番が来て、扉が開かれる。顔を上げると、中の清潔感が目に入る。空間がどこか安心感をもたらすように感じるが、その感じ方もすぐに薄れていく。痛みはまだ収まらない。
僕は急いでトイレの中に足を踏み入れ、ドアを勢いよく閉めた。すぐにズボンを下ろし、便座に腰を下ろす。と同時に、ふっと力が抜けるのを感じた。お腹の中から、もう止められないような衝動が湧き上がり、体が自然にその要求に応え始めた。
ああ、やっと。やっとだ。
しかし、その瞬間に、思わず目を閉じた。気を抜いてしまったのか、体が一瞬ふわりと浮き、平衡感覚が失われそうになる。しかし、トイレの床にぺたんと座り込み、何とか体を支える。温かさと冷たさが混ざり合った空間の中で、痛みが少しずつ引いていくのを感じる。
「ふう……。」
その安堵のため息を漏らした途端、すべてが静かになった。音もなく、ただ僕の心臓の音だけが響く。トイレの中の無音が、僕にとってはまるで静寂の中の優しさのように思えた。目を開けると、壁に貼られた清掃後の張り紙が、何故か妙に現実的に感じられる。
これが普通の光景だ。これが、今の僕にとっての安堵だ。
だが、トイレでのこの瞬間は、あまりにも長く、あまりにも短く感じる。痛みが徐々に引いていくのに従って、僕の意識も少しずつ取り戻されていく。やっと、体が元に戻ったと実感できる。それでも、時折、再び襲い来る軽い痛みに、ちょっとした恐怖を感じながら、僕は静かに時間を過ごす。
そのうち、最初の一瞬の緊張感が和らぎ、まるで音楽のように身体の中でリズムが戻っていくのを感じる。ゆっくりと、落ち着きながら、必要なだけ自分を解放していく。この解放感は、どこかで慣れてしまっているはずだが、今日は何故か新鮮に感じられる。
まるで長い間、無理に我慢していた荷物をようやく下ろしたような気分だ。
最初のうちは、ただひたすらに耐えなければならなかった痛みが、今ではようやく過去のものとして消えていく。体の中から何かが抜け落ちていく感覚、まるで解放されたような心地よさに包まれる。
ああ、こんなにもホッとするのか。
その安堵に浸る間もなく、ふと気づくと、トイレットペーパーが足りないことに気づく。少しだけ冷や汗をかきながら、周囲を見渡すが、トイレットペーパーのストックが置いてある場所を見つけることができない。焦りと共に、何度も手を伸ばしてみるが、どうしても届かない。
「う、うわっ……」
次第に、再び別の不安が胸に広がっていく。痛みを乗り越えた安心感を得たと思った瞬間、今度はこんな問題が立ちはだかる。自分でトイレットペーパーを取りに行く勇気が出ない。
今度は、これで焦ることになるのか。
思わず笑いそうになるが、口をつぐむ。こんな些細なことでさえ、僕にとっては、いったん止まってしまうような問題だ。
そのとき、どこかから人の声が聞こえた。トイレの外で話し声が近づいてきて、僕はまた思わず顔をしかめる。音が耳に入り始めると、急にその場の静けさが破られ、また周囲の気配に敏感になってしまう。
「もう少し、もう少しだ。」
改めて自分に言い聞かせる。少しだけ落ち着きを取り戻す。体が、またひとときの静寂に包まれて、次第に落ち着きを取り戻すのを感じる。時間が経つと、体調が正常を取り戻してきたことが実感できる。痛みが完全に消えたことに安堵し、残りの時間でゆっくりと処理を終わらせ、やっと自分を再び整えられた。
トイレの中で、何度も深呼吸を繰り返し、ようやく体調が安定してきた。振り返ると、ついさっきまでの緊迫した状況が嘘のようだ。あの痛みが、あんなにも耐えがたかったとは、今では少しばかりの遠い記憶になったように感じる。
「ふう…」
静かにため息をつくと、背筋を伸ばしてハンカチで手を拭き、用を済ませた証として軽く手を洗う。水のひんやりとした冷たさが、ようやく心地よく感じられた。手を洗う間、鏡に映った自分の顔をぼんやりと見つめた。少しだけ顔色が悪いが、それでも今は落ち着いている。頭の中もようやくクリアになってきた。
「よかった…」
その言葉が自然に口をついて出た。まるで自分を褒めるように呟くと、少し笑みが浮かんだ。しかし、その笑顔もすぐに消えた。ふと、他の人たちがどんな顔をしているのか、また周囲の人々が自分にどんな目を向けるのか、急に不安になった。
もう大丈夫、もう普通の顔で外に出よう。
心の中で言い聞かせ、手を止めて深呼吸を一つ。そしてドアを開けると、再び駅の雑踏が目の前に広がった。何事もなかったように、人々が行き交う。あれだけ焦っていた自分が少し恥ずかしく感じるが、それでも心の中では安堵感が広がっていた。
あれから、どれくらい時間が経ったんだろう。
時計を見ると、5分も経っていなかったことに気づき、思わず自嘲気味に笑う。あんなにも長く感じられたあの苦しみの時間が、実際にはほんの数分だったという現実が、少しだけ滑稽だった。外の世界は変わらず、電車が行き交い、通勤客たちは慌ただしく足早に歩いている。
改札口の前に立つと、電車の次の便が見えてきた。駅構内のアナウンスが耳に入り、僕は意識的にその音を無視するように歩き出す。
ああ、今度は無事に帰れる。
その瞬間、ふと背後で大きな音がした。振り返ると、次の電車のアナウンスが流れ、どこかから急いで電車を目指す人々が走っている。それでも、僕はもうその群れの一部になることなく、自分のペースでゆっくりと歩き出す。あの電車の中で感じた苦しみから解放された今、少しだけ肩の力が抜ける。
やっと、心と体のどちらも解放された。
さて、無事に帰れるぞ。
ふと、そんなことを考えながら、駅の出口に向かって歩き出す。その足取りは、最初の頃のように不安定でもなく、痛みに引きずられることもない。ただ、自分のペースで、ただひたすらに前に進むことができる。それだけが、今はありがたかった。
改札を抜け、駅の外に出ると、冷たい空気が顔をかすめた。夜の街に一歩足を踏み入れた瞬間、あの混雑した電車の中でのすべてが、ほんの小さな出来事のように感じられた。
明日は、きっと普通の一日が待っているだろう。
心の中でそう思いながら、僕は駅前の広場を抜けて、帰路に着いた。
The End.
ここはこうした方がいいなどのアドバイス、誤字脱字があればぜひ感想欄に。