02 祖父の教え
帰宅した晴翔は、祖父が宮司を務める近所の神社へと向かった。
軽く一礼して朱色の鳥居をくぐると、空気が清浄なものに変わったのを感じる。手水舎で手を清めてから参道を進むと、本殿の前に一対の狛犬ならぬ狛狐が鎮座している。左側のお狐像は鍵をくわえており、右側のお狐像は玉をくわえている。
晴翔は周囲に誰もいないのを確認すると、お狐像に向かって挨拶をする。
「カギ様、タマ様、ただいま戻りました」
すると晴翔の視界に、宇迦之御魂神――ウカノミタマノカミ――の御使が女性の姿で現れた。平安時代の装束に身を包んだ御使たちを、晴翔は出会った時からそれぞれ「カギ様」「タマ様」と呼んでいる。
『おかえり、はるちゃん』
『今日も学校で怪異はあったか?』
人懐こい笑顔で答えるタマさまと、キリリとした表情で問いかけるカギ様に、晴翔はうなずく。
『あら、よろしくないわね〜』
『宮司に相談した方が良いかもしれぬな』
「もう慣れました。あれも日常風景のひとつになっています」
晴翔が肩をすくめて応えると、カギ様が心配そうに呟く。
『このまま何もしてこないのならいいのだが――』
『はるちゃん、祓っちゃいなよ』
タマ様が明るく言うので、晴翔は困り顔で応えた。
「そんな力は、僕にはありませんよ」
「晴翔、帰ってきておったか」
竹ほうきを持った祖父が、本殿奥の柱の陰からひょっこりと顔を出す。
「じいちゃん、ただいま」
背筋をピンと伸ばした姿勢の祖父は、白髪だが年齢より若く見える。神職の普段着である白衣と袴を着用していて、笑いじわのある目元は、相手に柔和な印象を与える。
「わしに、相談ごととな? カギ様とタマ様に心配をかけちゃぁいけないよ」
祖父にもカギ様とタマ様は見えているのだ。そして話も聞こえていたらしい。
晴翔は本殿で参拝した後、カギ様とタマ様の前を辞して授与所兼社務所の方に向かって歩き始める。
祖父に歩調を合わせながら、晴翔は高校で感じるじっとりとした空気や晴翔にしか見えない生首のことを詳しく話す。祖父は話を静かに聴いていた。そして袂からこの神社の御守りを取り出して、晴翔に渡した。
「とりあえず、持っておきなさい」
「祓ってくれるんじゃないの?」
「学校から依頼がない限り、わしが勝手に乗り込むわけには行かないさ」
「そっか」
「そうさ」
授与所兼社務所ではこの神社のおみくじや御守り、お札や絵馬などが販売されている。普段は外出が多い祖父に代わって母が詰めているのだが、今日は祖父がいた。外出のない日だったらしい。
祖父は御朱印帳を手に取り、晴翔に向き直った。
「実はな、晴翔に御朱印書きを手伝ってもらいたいと思ってるんだよ。書き置きタイプのほうをね」
御朱印とは参拝したことを証明するものだ。昨今のブームもあってか、この神社の御朱印を所望する参拝者も増えている。
「え、ムリ……じいちゃんの直書きじゃないと嫌っていう参拝者いるし」
この神社では祖父が書いた御朱印を書き置きしているのだが、どうしても直書きがいいという参拝者は一定数いる。晴翔も授与所で詰めていた時に、何人か直書き好きの参拝者を見かけている。
「それはごく少数で、こだわらない参拝者のほうが多いよ。やってみてはくれないかい?」
「じいちゃん、御朱印の字が下手だと、ネットに晒される時代だよ。参拝者にがっかりされたくないよ」
「晴翔の字は綺麗だよ」
「なんていうか、僕が書いたらありがたみないっていうか……」
「御朱印を書くにあたって必要なのは、良い気持ちを抱いて書くことだよ。そうだな、参拝者に対する感謝の気持ちといえばいいかな。考えてみてくれないかい?」
「うぅ――じゃぁ、ちょっとだけ……」
「ありがとな、晴翔」
祖父は晴翔の肩を、満面の笑顔で軽く叩いた。
次々と逃げ道を塞がれる形で、晴翔は書き置きの御朱印を引き受けることになってしまった。
御朱印を書くにあたって特別な力はいらないし、免許もいらない。しかし、感謝の気持ちを込めるってどうすればいいのだろう。
「そう堅くなることない。感謝の想いを心に浮かべるんだよ。想いは力だし、想いをこめた文字もまた力だ」
祖父の書いた護符は効く。このあいだ参拝に訪れた方がそう言っていたのを晴翔は思い出す。何がどう効いたのか詳しくは忘れてしまったが、祖父には特別な力があるのだろう。見えるだけではない。神通力を祖父が持っていても納得できる。常日頃から晴翔は祖父から、静かだが燃える焔のような強さを感じている。
「想いは力、想いを込めた文字も力――か」
神前で神職がお祓いや祈祷をした護符。祖父が祈って依代に想いを込めた護符が、何らかの力を発動させたのだろう。一般的に護符には神の分霊が宿るとも言われている。この世には、未だ科学で証明されていないことが多くあるようだ。
子供の頃読んだある古い絵本のことを、晴翔はふっと思い出す。
その古い絵本のタイトルは確か『三枚のおふだ』だったか。山で山姥に襲われた小僧が、和尚からもらった三枚のおふだを使って山姥から逃げる話だったと記憶している。子供心にお札のありがたみを感じたものだ。おふだがなかったら小僧は山姥に捕まっていたはずだから。
晴翔は祖父からもらったばかりの御守りを見つめた。中にはおそらく祖父直筆の小さなお札が納められているだろう。
まさかこのご時世に山姥と出くわすことはないだろうけれど、一応持っておこうと制服のポケットに入れておいた。