01 見える体質
どんよりとした雲が重く垂れこめる灰色の空を、森下晴翔は教室の窓から見上げた。今日もあれが落ちてくるだろうかと、教室内の丸時計に視線を移す。
午前十時五十五分。
このところ、あれを見るのが日課になっているが、別に待ち望んでいるわけではない。自分にはどうすることもできないし、どうしてやることもできない。
授業中の教室内は静かだ。教師の声と黒板を滑るチョークの音。授業を熱心に傾聴する生徒もいれば、あくびを噛み殺している生徒もいる。退屈だが平穏そのものだ。
ただ初夏にしては幾分涼しい気がするのは気のせいだろうか。
いや、おそらく気のせいではないだろう。この高校に入学した当初から感じていたある種の寒気を、晴翔はこの時も感じていた。
午前十一時。
晴翔は再び窓の外に視線を戻す。
やはり今日も落ちてきた。長い髪を振り乱した落武者の生首。
スローモーションのように感じるが実際はほんの一瞬だ。その目には絶望が映されていた。階下へと、そして地面へと消えてゆく。
他の生徒がそれに気づいて騒いだり悲鳴をあげたりすることはない。あれが見えるのは今のところ晴翔だけのようで、教室は静かなままだ。
入学したての頃、晴翔が初めてあれを見たときは腰を浮かしかけて教師に注意されたものだが、こうして毎日落ちてくるのでいい加減慣れた。
晴翔に何かを訴えているのだろうけれど、見ることができるだけで何の力もない自分を、晴翔はもどかしいと思っている。
自分にはどうすることもできないし、どうしてやることもできない。
幼い頃から晴翔には、見えた。
晴翔が公園の遊具で遊んでいると、フェンスの向こうに晴翔と同じくらい幼い男の子が居る。この辺では見ない色の園服だ。
深緑色の園服を来た男の子の、遊びたそうな視線に気づいた晴翔は、その子に話しかけた。
するとその子はフェンスと通り抜け、晴翔の隣に来た。
「あれ、やろう?」
晴翔が回転する球型のジャングルジムを指す。深緑色の園服の子は嬉しそうにうなずいた。
母はママ友と談笑中だ。同じ公園の中で縄跳びをしていたこ女の子が、一人で大きな回転ジャングルジムを動かす晴翔を見て感嘆の声を上げる。
「わあーはるとくん、すごい!」
その声に気づいた母は、幼児ひとりで回すには重いはずの回転ジャングルジムを、軽々と回している息子に違和感を覚えたようだった。
ママ友の一人も感心したように言う。
「晴翔くん、細いのに力持ちね」
晴翔の母は、眉をひそめて叫んだ。
「晴翔! こっちにいらっしゃい!」
「えー? やだよー。今、ヒデヒコくんと遊んでるもん」
深緑色の園服のヒデヒコくん。
縄跳びを持った女の子が首を傾げる。
「ヒデヒコくんて、だれー?」
母は、冷たい汗をかきながら再度叫んだ。
「いいから! こっちにいらっしゃい!」
晴翔はしぶしぶ回転ジャングルジムから降りると、ヒデヒコくん向かって手を振った。
「バイバイ、またね」
その夜、何となく目が覚めた晴翔は、居間から明かりが漏れていることに気づく。戸の隙間からそっと覗くと、母が父とダイニングデーブルで何か話し込んでいるのを見えた。昼間の公園での話をしているようだった。
「あの子、変なのよ。ひとりごとが多いっていうか、まるで幻覚でも見えてるんじゃないかしら。脳の病気とかなのかしら。一度病院で検査を――」
「そう深刻に考えなくてもいいんじゃないか?」
「だってあなた、もし何かの病気だったら――」
動揺する母を父が宥めている。
当時の幼かった晴翔には内容はよくわからなかったが、『びょうき』『びょういん』という言葉は聞き取れた。
母には、晴翔が幻覚を見る病気かもしれないと思えるのだろう。母と父の前では、見えないフリをしようと幼い晴翔は決心したのだった。
今思えば、幽霊が見えない母なりに、晴翔を心配いていることは理解できる。
とりあえずこの件で病院に連れて行かれることはなかった。
それから晴翔が小学校に上がる頃、祖母に先立たれた祖父と暮らすため、母と父と晴翔は、父の実家に引っ越した。
祖父は、とある神社で宮司をしている。会社員をしながら禰宜として神事を兼務している父は晴翔の頭に手を置いて穏やかに言ったのだ。
「見えるのは隔世遺伝かもしれないな。父さんにはあまりはっきりとは見えないから、お前の力は心強い」