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第8話:オルフェウスの檻〈前夜〉

 


 ——銃声が響いた。


 視界の端に揺れる髪。

 引き金を引いたのは自分。相手は撃てなかった。だから、こちらが撃った。


 そのとき、確かに見えた。

 銃口を向けていたはずのその兵士の目は、震えていた。怒りでも、殺意でもない。

 戸惑いと、苦悩。


『なぜこんな子どもが……』


 言葉にならなかったその表情は、何かを問いかけていた。




 レクスは跳ねるようにして目を覚ました。


 車内。簡易寝台に横たわる彼の頬を、ひとすじの涙の跡が静かに伝っていた。

 イリスは助手席から振り返り、何も言わずに彼の顔を見つめた。


「……また、同じ夢を見ていた」


 そのまま、レクスは静かに目を閉じたまま、思考を巻き戻すように息をついた。


 ——あれは、「オルフェウスの檻」作戦の最中だった。


 12歳の自分は、「亡霊通信士」として前線基地の補助記録ユニットに待機していた。

 そこに現れたのが、敵国の特殊工作兵部隊。


 あの兵士たちは、こちらの通信拠点を奇襲するために潜入してきた。


 その中にいたのが——リアム・アシュリー。


 銃撃はほぼ同時だった。だが、相手の引き金は明らかに早かった。

 一瞬、体が硬直する。間に合わない——そう直感した。


 その瞬間、レクスは確かに“死”を意識した。

 初めてだった——ああ、僕が死ぬんだ、と思った。


 けれど、それは訪れなかった。


 リアムの引き金は、途中で止まった。


 ほんの刹那、動きが遅れた。


 代わりに、命令が先に来た。

 こちらは命令通り撃った。ただ、それだけのはずだった。


 だがあの目は、明らかに“優しい人間”の目だった。


 彼はこちらを殺さなかった。そして——僕が、殺した。


 感情を捨てろとは言われなかった。

 最初から“感情がない”という前提で、命令は下された。


 あのときの敵兵、リアム・アシュリー。

 年は若く、優しげな目をしていた。


 引き金を引けなかった。

 だから——僕が、撃った。


 倒れたリアムのポケットから転がり出たのは、銀色の認識票と、古びたロケットペンダントだった。

 中には少女と写る写真。まだあどけない表情の少女が、笑っていた。


 彼は守ろうとしていた。


 レクスはそれを拾い、胸元にしまった。

 いまもずっと、手放せずにいる。




 今、レクスが所属する記録制度——S.C.R.I.B.E.(Specialized Codex for Reconstruction, Interpretation, and Behavioral Evaluation)は、

 統一戦争後の感情と言語の復元を目的に設けられた戦後処理機関だ。


 人々が言葉を失い、文化も分断された世界で、「記録者リソグラファー」と呼ばれる者たちは、

 他者の感情を翻訳し、過去を記し、心の“証言”を残す。


 だが、その礎には、戦争の狂気を生き延びた“記録されなかった者”たちの沈黙が積み重なっている。

 レクスもその一人だった。


 だが今——彼は、胸ポケットに仕舞い込んだままの銀色の認識票をそっと指先でなぞった。

 メイと笑う、リアムの妹の写真。名前も知らなかったあの少女の顔が、今もはっきりと脳裏に焼き付いている。


 あれからずっと、返すべきだとわかっていた。

 だが言葉にできる理由がなかった。


 ——もう、逃げる理由もない。


 レクスはそっと起き上がり、ロケットを取り出して光にかざした。


「……会いに行こう。彼女に」


 その声に、イリスが振り返る。


「……やっぱり、リアムって人のこと、ずっと覚えてたんだ」


「忘れられるわけがない」


 レクスの声は低く、けれどはっきりとしていた。


 イリスはしばらく黙ってから、窓の外に目をやった。


「返したら、終わりにできると思う? それとも……始まっちゃうかな」


「……わからない。ただ、記録者として、渡すべきだと思った」


「ふーん。じゃあ、私は“見届け役”ってことで、いい?」


 レクスはわずかにうなずいた。






【監視報告:IRIS-08】

 対象:レクス・ヴァレリア観察任務記録 第8ログ


 概要:

 対象は過去の記録を想起する夢を見て覚醒。対象の発言および生体データから、心理的負荷の再浮上が確認される。


 観察ポイント:


 過去の作戦「オルフェウスの檻」における殺害対象——リアム・アシュリーの記憶が明瞭に再浮上。


 対象は明確な“死の予感”を自覚し、それを回避した代償として“殺す側”となった責任意識を抱えている。


 認識票およびロケットペンダントの保有継続は、未解決感情への執着を示す。


 本件において対象は、「記録者」としての役割ではなく、「個人」として向き合う意思を示した。


 心理評価:


 対象の内的変化は顕著。これまでの“翻訳者”としての姿勢から、“証人”または“贖罪者”としての色が濃くなっている。


 イリスとの対話では、対象が自己感情の表出にわずかながら積極性を示した点が注目される。


 備考:


 本件は記録局の監視対象における感情進展フェーズの転機として分類可能。


 今後、メイ・アシュリーとの接触を経た場合の反応に特段の注意が必要。


 継続監視を強く推奨。







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