第6話:灯の残る場所
乾いた風が、地表をさらった赤い砂ごと巻き上げていく。
レクスとイリスは、記録局の新たな指令で北方第七収容区へ向かっていた。廃線となった軌道を転用した二人乗りの簡易輸送車。振動はひどく、車窓から見える景色はひたすらに錆びと灰色に染まっている。
「こんなところにも、人が住んでるんだねぇ……って、言葉の通じる人じゃないかもだけど」
イリスが軽口をたたきながら、フードの内側で風を避けていた。
「……任務内容は?」
「記録再生依頼。言語混成記録の翻訳……だってさ」
レクスは端末を見つめながら、わずかに目を細めた。
その行先には、“亡き妻の声を翻訳してほしい”と願う、あるひとりの老人が待っていた。
収容区の外縁にある仮設住宅は、くすんだ布と金属片でつぎはぎされたような構造だった。
レクスたちを出迎えたのは、皺深い顔に無精髭をたくわえた初老の男——元・通信兵のミカエルだった。
「ようこそ。記録局から来てくれたのか……ありがたい。あの人の“声”だけが、わたしの全部でな」
ミカエルは、小さな端末をレクスに手渡した。
その中には、20年以上前に録音された音声データが入っていた。
家の残骸から奇跡的に見つかった古い録音端末に残されていたが、すでに部分的に破損しており、再生環境も限られていた。
さらに年月によるデータの劣化で、音声はノイズ混じりの断片となっていた。
「自動翻訳じゃ意味が通らなくてな。けど……どんな形でもいい、“あのときの想い”が知りたいんだ」
イリスが音声ファイルを再生する。
女性の声。かすれて、ところどころノイズにまぎれていた。
だが確かに、何かを伝えようとする温度がそこにはあった。
「——…おまえ……あたしは、……まだ……、いるから……」
「言語処理アルゴリズムが……ダメ、データが破損してる。構文が繋がらない……」
イリスは端末の波形を覗き込んで眉をひそめ、画面に手をかざしてノイズ領域を示した。
「ファイルそのものが壊れてる部分もあるし……意味があるのか無いのか、聞いてるだけじゃ判断できないよ。これ、言葉じゃなくて、“想い”そのものに近いかも」
彼女は小さく舌打ちして、再び波形を巻き戻しながらそっと呟いた。
「……ねえレクス。これは辞書の出番じゃない。たぶん、君の出番だよ」
彼女はバシバシと自分のこめかみを叩いて、再起動のふりをしてみせたが、目元には本気で悔しがる色も浮かんでいた。
レクスは黙ったまま、目を閉じて再生された声を聴き直した。
呼吸の速さ、語尾の震え、言葉と沈黙の間にある無音の“気配”。
「怒ってるように聞こえる。でも……これは、怒りじゃない。震えてる。怖がってるんだ、自分が……消えることを」
イリスが目を丸くした。
「今の、感情を……感じたの?」
レクスは答えなかった。だがその目は、わずかに揺れていた。
「この声は、彼女の最後の記録です。言葉ではなく……心の形を、伝えようとしていた」
彼女は、何かを訴えていた。
それは“忘れないで”という願いではなかった。
“あなたのそばに、私はいた”という確かさ。
そして“今も、ここに残っている”という叫び。
愛していた。
心から、誰よりも。
だからこそ、自分がいなくなることが怖かった。
あなたの記憶から、自分が消えてしまうことが、たまらなく怖かった。
その震えた声は、“命が終わっても、愛は残る”と、そう伝えていた。
……戦火が町を飲み込んだあの日、ミカエルは最前線の通信塔にいた。
妻は避難勧告の直前、家にある旧式の録音端末に声を残していた。
彼女は知っていた。
このまま外に出れば戻れない。
でも、伝えたかったのだ。
どれだけ恐ろしくても、声だけは遺せると信じて。
——愛してる。だから、あなたの記憶に、私は残る。
その言葉のすべては録音されなかった。
けれど、その“意志”は確かに音に焼きついていた。
ミカエルは無言でうなずいたが、その目元は静かに濡れていた。
彼は震える手で端末を握りしめると、しばらく何も言えなかった。
「……声を聞いた瞬間に、あの頃の空気が戻ってきたんだ……食卓の匂いも、雨の音も、何気ない朝のことも……全部、あの声が運んできてくれた」
彼の声はかすれていた。だがその一言一言に、確かに歳月を越えた“想い”が宿っていた。
「……もう一度だけ、聴けてよかった。誰かに“翻訳”してもらえるなんて、思ってもみなかったよ」
レクスは何も言わず、そっと端末を操作する。
彼の指が一文字ずつ綴るその姿を、イリスはじっと見つめていた。
その目には、ただの記録行為としてではなく、レクスが“何かを受け取って返そうとしている”瞬間だと映っていた。
彼女は息をのんだまま、音も立てずにそばに寄り添った。
ふだんなら茶化す場面だ。肩を叩いて「気取りすぎじゃない?」と笑い飛ばすだろう。
けれどこのときばかりは、何も言えなかった。
イリスにも、その“ぬくもり”が伝わっていたから。
そして新たな記録が、記録者によって加えられる。
《記録006:『翻訳されなかった言葉に、あなたのぬくもりは宿っていた』》
その瞬間、記録者の背中がわずかに震えたことに、誰も触れなかった。
だが、そこには確かに——心があった。
帰り道。
沈む夕陽に照らされながら、輸送車は砂地を戻っていく。
「ねえレクス、今ちょっと優しかったよね」
「……気のせいだ」
それでもイリスは微笑んだ。
記録者の手が、ほんのわずかに震えたことに、彼女は気づいていた。
【監視報告:IRIS-06】
対象:レクス・ヴァレリア
観察任務記録 第6ログ
対象は北方第七収容区にて、民間人からの感情翻訳依頼を遂行。
記録音声は言語としての再現が困難な混成データであったが、対象は非言語要素(呼吸・抑揚・沈黙)を通じて“伝えたかった心”を抽出。
行動特記:
対象は音声再生中、視線固定・瞳孔収縮・体表微振動を示す。
感情の推定と表現において、記録者規範を逸脱する主観的補完を加えているが、依頼者の反応より“適正な翻訳”とみなされる。
記録006の執筆は対象の自主的行動であり、記録局プロトコルに沿ったものではない。
心理評価:
対象は“記録”を情報記録行為としてではなく、“誰かの想いの再構築”として受け止め始めている。
感情の認知・記述・返還において、従来よりも高い内的共鳴反応が見られる。
本任務は対象にとって“共感の初歩的再獲得”の兆候を示すものであり、今後の観察指標となる。
継続監視を推奨。






