第4話:記録されなかった母
夜の収容区は昼よりも静かだった。人の声も機械音も遠く、まるで街全体が息を潜めているようだった。
レクスは窓辺の椅子に腰掛け、月の光を受けながらただ虚空を見つめていた。思考ではなく、記憶でもなく、そこにある“何か”を探しているように。
「……まだ、起きてるんだ」
イリスの声が背後から落ちてきた。カップを片手に、小さな湯気が彼女の胸元を揺らしている。
「珍しいね。任務明けなのに」
「……少し、気になることがあって」
「お母さん?」
レクスは答えなかった。
「昼間、君があの人を見たとき……すごく変な顔してた。あれが“感情”じゃなければ、なに?」
「……記録局の端末で、照合してみたい」
イリスの目が輝いた。
「おっけー。やろう」
記録局の簡易端末はイリスの手によって素早く操作されていく。顔認識、服装、滞在エリア、年齢層などから一致するデータが一件だけ浮かび上がった。
「いた……けど、変だね。IDが欠番。所属なし。履歴も空欄」
イリスの指先が一瞬止まる。画面に表示された情報欄には、本来なら並ぶはずの個人履歴、移動記録、発話履歴、家族構成すら存在しない。
ページ全体が歪に空白を残したまま、いびつな枠線だけが表示されている。まるで“誰か”が強引にデータを引きはがした痕のようだった。
「……これ、普通の削除じゃない。初期化と偽装が同時にかかってる。しかもシステム改竄の痕跡が検出されないように“上書き再構成”されてる……」
「つまり、誰かが本気で“存在そのもの”を消そうとしたということか」
「……削除されたのか」
「でも一部のデータが残ってる。誰かが“完全には消さなかった”ってことじゃない?」
レクスの拳が膝の上で握られた。
「……彼女は、かつて俺を軍に提出した人物だ」
イリスが動きを止めた。
「……自分の意思で?」
「わからない。でも、母親であることに変わりはない」
その翌朝、イリスはひとりで収容区へ向かった。
レクスは迷っていた。母と向き合うべきか、それとも記録者としての距離を守るべきか。
だからこそ、イリスは行動した。
「……見過ごすわけには、いかないよ」
彼女は心の中でそう呟いた。レクスが見てしまった過去に背を向けるなら、代わりに彼女が正面から見つめておこう。そうすれば、彼がもう一度それに触れる時、少しでも“逃げ道”になれるかもしれない。
そして彼女は、配給所の出入り口から少し離れた場所に立った。空気はひんやりとして、朝露が舗装の割れ目に滲んでいた。
彼女は配給所の出入り口から少し離れた場所に立ち、端末のカメラを起動。自動ログ記録モードをオンにし、群衆の動きを追う。
「……目視開始。対象確認できるかも」
やがて、列の後方に一人の女性が現れた。
痩せていて、目の下には深い隈。けれど背筋はまっすぐで、どこか気品をまとっていた。
イリスの指が素早く端末を操作し、位置情報と共にレクスへ転送する。
十数分後、レクスの足音が近づいてくる。
彼は列の中にいるその女性を見つけた瞬間、空気が張り詰めたように感じた。群衆のざわめきが遠のき、世界が一瞬、音を失う。
女性はレクスの姿を見た途端、配給の列を離れ、小走りで近づいてきた。
足元はふらつき、息は乱れている。だが、彼女の目はひたすらにまっすぐだった。
「レクス……! レクス! やっぱり、あなた……! 本当に生きてた……!」
女性は叫ぶように名前を呼ぶと、次の瞬間には駆け寄ってきて、迷いなくレクスに抱きついた。
その身体は細く、軽かった。何年もの飢えと不安が、その背中に刻まれていた。
彼女の腕は震え、嗚咽がレクスの胸元に染み込む。
「ごめんね……ずっと……ずっと会いたかった……」
レクスは動かない。抱きしめ返すことも、拒絶することもせず、ただその場に立ち尽くしていた。
その眼差しは、どこまでも冷静だった。
それでもレクスは、彼女の体温、呼吸の乱れ、声の震え、背中に残る痩せた骨格の動き──すべてを“読み取って”いた。
彼女の涙は過去の罪への後悔であり、声の滲みは赦されぬ願いだった。
抱きしめる腕には、迷いよりも“今だけは放したくない”という確かな感情が宿っていた。
レクスの感情は、動かなかった──はずだった。
だが、彼女の抱擁にこもる“どうしようもない祈り”を読み取ったとき、レクスの中に微かな“ひずみ”が走った。
理解ではなく、反応でもない。
それは、ごくわずかな“遅延”として、脈拍のリズムに現れた。
彼自身さえ気づかないほどの揺れ。
ほんの一瞬、ただの記録では処理できない“何か”が、胸の奥をかすめていた。
レクスはその場に立ち尽くしていた。母と視線を交わした瞬間、彼の足は自然と止まっていた。声は聞き覚えがある。記憶の底に、かすれた歌声のように残っていた。
レクスは無表情のまま、ただじっと女性を見つめていた。
その視線に、女性の息が止まる。
「……レクス……? レクス……あなた、でしょ……?」
声は確信と不安の狭間で揺れていた。
レクスはわずかにまばたきをして、静かに口を開いた。
「はい、確かに僕はレクーー「……生きていたのね!よかった」」
彼女は目を閉じ、そして小さく頷いた。だがその直後、言葉を発したレクスの冷たく整った声に、顔を上げた。
彼女の目は困惑に揺れた。
「……あなた、そんな顔で……。私を見てるの?」
レクスの表情は変わらない。だが、その無表情がかえって彼女の心をえぐる。
「レクス……あなたは、私に何も……言ってくれないの?」
彼女は一歩、また一歩と近づき、まるで試すようにレクスの目を覗き込んだ。
その視線は冷たくもなく、暖かくもない。ただ、静かに彼女の反応を待っていた。
その沈黙に耐えきれなかったように、母が勝手に語り始めた。
「……連れていかれるって、最初に言われたとき、何が起きてるのか分からなかった。官僚たちは“国家に資する才能”とか、“安全な施設”とか、きれいな言葉ばかり並べて……」
彼女の声が震え始める。
「でも、あの人たちは“命令”だったの。私に拒否権なんてなかった。口を開けば、“反逆の疑い”って言われて……!」
レクスは微動だにしない。その姿に焦りを感じたのか、母はさらに言葉を重ねた。
「それでも……あなたを守らなきゃいけなかったって……今になって、思うの。あのとき、怖かった。でも、それ以上に……何もできなかった自分が、悔しくて……!」
レクスの拳がわずかに震えた。
だがその声は淡々としていた。
「……命令には、逆らえなかったんですね」
彼女は目を逸らさずに言った。
「私には、選べる自由はなかった……それでも……それでも、私は……!」
彼女の声が震え、膝から力が抜けたように地面に崩れ落ちた。
「私は、母親として、あなたを……あなたを守ることができなかった……!」
地面に手をつき、涙をぼたぼたと落としながら、震える声で言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、レクス……あのとき、怖かったの。助けたら、私たち二人とも消されると思って……! それでも、あなたに背を向けたのは、私……私なの……!」
沈黙。
イリスが近づいてきた。
彼女の目には戸惑いと怒り、そして哀しみが混ざっていた。
「ねえ……あなた、本当に母親なの? あのとき、この子に何がされたか、知ってる?」
母親は涙で顔を濡らしたまま、イリスを見上げるだけだった。
イリスは続けた。「私……ずっとそばで見てた。この子は、命令されるたびに、自分の感情を切り捨ててきた。あなたが“差し出した”その先で、何を失ったか、あなた……!」
「イリス」
レクスが静かに口を挟んだ。
「もういい。感情をぶつけることが記録にはならない」
「……私は、償えるとは思っていない。でも……せめて、あなたの記録に、私が“いた”という事実だけを残してほしい。母だったと、ほんの一瞬でも……そう呼ばれたことがあったと……」
レクスは彼女の表情と震える声、揺れる視線から、ひとつの感情を読み取った。
それは“希望”だった。
──息子とまた一緒に暮らせるかもしれない、という、言葉にはならない小さな願い。
その願いに、レクスの表情は微塵も変わらなかった。
「……謝らなくていい。僕は平気です」
少しの間を置いて、彼は続けた。
「……それに、今の僕には、母親は必要ありません」
その言葉は静かだったが、決して突き放すものではなかった。
ただ、記録者としての彼の“結論”だった。
そう言い残し、レクスは静かに背を向けた。
その歩みはためらいなく、どこまでも遠くへ続いていくようだった。
その背中を見つめながら、母は声にならない声でぽつりと呟いた。
「……そんな……せっかくまた……」
母はその場に立ち尽くしたまま、胸元に手を当てた。指先は震え、かすかに声を失っていく。
戻ってきたと思った。声をかければ、抱きしめれば、何かが戻ってくると思っていた。
でも、彼の背中は、もう記録者としての遠い場所に向かっていた。
「……あんな顔……忘れられないのに……」
その夜。
レクスは自分の非公開記録にアクセスを試みた。
ロックされていたはずの一部ファイルが、なぜか解放されていた。
再生されたのは、母が机に向かって何かを書いている映像。
服は擦り切れていて、部屋は薄暗い。
「……ごめんね、レクス。あなたをあの場所に渡したのは……私です。でも、それでも……あなたが幸せになるなら、それでよかったと思った。思おうとした」
映像は途切れた。
レクスはしばらく画面を見つめていたが、やがて端末を閉じた。
《記録004:『記録されなかった母の言葉を、今、ここに残す』》
【監視報告:IRIS-04】
対象:レクス・ヴァレリア観察任務記録:母親照合ログ/第4記録行動
対象は戦時中に失踪状態となっていた実母と初めて対面。
表面上の情動反応は限定的であり、全体的に冷静な態度を維持していたが、
非言語的反応(呼吸遅延、眼球の固定、拳の微細な緊張)において明らかな変化が観測された。
分析項目:
対象は母親の抱擁に対し抵抗・拒絶を行わなかった。これは過去の類似接触時(他者との身体接触)と比較し、例外的傾向にある。
会話中、母の“赦されたいとは思っていない”という発言に対し、対象は「謝らなくていい」「母親は必要ない」と応答。これらは否定ではなく、対象の自己規定による“関係性の遮断”と解釈できる。
特筆すべきは、母親の感情に対して対象が“希望”という感情の発生源を読み取った点。従来の記録行動では観察と翻訳のみで終わる傾向にあったが、本件では“内在する意思”への推察が含まれていた。
個人見解(IRIS):
レクスはこの接触において、感情的揺動を明確に抑制しながらも、母親の深層意識に反応し始めている。
記録者としての自己境界を守りつつ、内面では“他者の想い”に自分を重ねている可能性がある。
映像ログ閲覧後の沈黙は、彼が記録される側として“初めての共鳴”を体験した兆候と判断。
対象の変化はごく微細ではあるが、今後の観察において要注意項目とする。