第3話:偽りの誓い
午前6時、レクスとイリスは無言のまま、収容区を抜けて舗装の壊れた通りを歩いていた。
風に乗って焼けた鉄の匂いが流れてくる。かつてここは商業地区だったが、いまは統一政府の再配分計画により、仮設住居と作業場が乱雑に並んでいる。
歩き慣れたはずの道。だが、その角を曲がったとき——レクスはふと足を止めた。
ひとりの中年女性が、配給所の前で並ぶ列に立っていた。
風に揺れる茶色の髪。右耳の下に、小さなあざ。
記憶の奥にある、母の面影と重なる。
「……どうしたの?」
イリスが不思議そうに覗き込む。
「……いや」
レクスは目をそらし、足を早めた。
記録者には、立ち止まる時間はない。
感情は記録するもので、掘り起こすものではない。
統一式場第6区は、かつて劇場だった建物を改装して作られていた。
だが、そこにあったのは祝祭の名残ではなく、静かすぎる緊張だった。
レクスとイリスは、中央機関からの依頼でここを訪れていた。
任務内容は、「婚姻儀式における感情翻訳」。
会議室の薄いスクリーンに、事前リハーサルの映像が映し出されていた。
新郎新婦が、感情のこもらない声で定型文の誓いを読み上げている。周囲の職員たちは無言で腕を組み、映像が終わると誰かがため息をついた。
「……これじゃ、プロパガンダにもならない」
額に汗を浮かべた式の管理担当者がレクスたちを振り返る。
「誓いの言葉が形式的すぎるんです。これじゃ、宣伝映像に使えない」
「両者、統一語は話せますが……感情的な交流は皆無です。せめて“想いのこもった言葉”にできないかと」
レクスは頷くだけだった。
式の控室。そこに並んで座るのは、新郎と新婦。
民族も言語背景も異なるふたり。政府によりマッチングされた混成婚のカップルだった。
新郎は、旧ベリティア圏出身。視線を下に落とし、終始無言。
新婦は、アルカ生まれ。強気な表情を保ちつつも、目の奥に疲れを宿していた。
「レクス、これってさ……」
イリスが小声で囁く。「“結婚”っていうより、“手続き”って感じ」
「……観察を始める」
レクスはふたりの間に立ち、静かに目を閉じる。
指先の震え。足の位置。まばたきの間隔。
非言語情報が網のように編み込まれ、彼の中に流れ込んでくる。
彼らは怒っているわけではない。
ただ、“話すこと”を放棄している。
通じないと信じるからこそ、語ろうとしない。
その諦念だけが、ふたりを結んでいた。
「……誓いの言葉を、こちらで準備します」
レクスは端末に文面を打ち込んでいく。
《新婦:私はあなたを赦すわけではありません。
でも、あなたに背を向け続けるほど、強くもありません。
だから私は、今日、あなたと同じ場所に立ちます。》
《新郎:俺はあなたを信じるわけではありません。
でも、あなたと沈黙を続けるのも、もう終わりにしたい。
だから俺は、今日、あなたと向き合います。》
それは誓いというには、あまりに静かで、あまりに正直だった。
式の本番。二人はその言葉を、それぞれの声で読み上げた。
拍手はなかった。
でも、どこか空気が、少しだけほどけた。
新婦がそっと新郎の手を取る。
新郎が、微かに握り返す。
イリスがぽつりと呟いた。
「……それって、誓いになるんだね」
その言葉に、新婦が小さく笑った。
「……ちゃんと、伝わった気がしたの。声に出してみて、初めて」
新郎は隣で頷き、今度ははっきりと彼女を見た。
レクスはその様子を見ながら、わずかに視線を逸らした。
そして、式場の片隅に立つカメラのレンズ越しに、上層部の検閲担当が無言で何かを記録しているのを見た。
(この記録は、どこまで残されるのか)
レクスの胸の奥に、小さな問いが灯る。
それは、彼が“記録する側”でありながら、かつて自分自身の記録を一度も読み返したことがないことを思い出させた。
イリスが隣でそっと呟いた。
「……レクス、今日のこれは、ちゃんと残るよね」
レクスは答えなかった。
だが、手元の端末には、次のページがすでに開かれていた。
式のあと。
花嫁がレクスのもとに歩み寄る。
「ねえ、さっきの“誓い”、あれ……私たちが本当に考えてたこと、なの?」
「……あなたが“言いたくても言えなかったこと”を言葉にしただけです」
彼女は目を見開いた後、ふっと肩の力を抜いた。
「そう。なんか、わかる気がする」
隣で聞いていた花婿が、別の言語で小さく呟いた。
レクスは理解した。
「ありがとう」と、彼は言っていた。
《記録003:『言えなかった言葉の中に、最も大切な想いがある』》
【監視報告:IRIS-04】
対象:レクス・ヴァレリア
観察任務記録 第6式場ログより
本記録において、対象は明確な感情交差のない依頼人双方の感情翻訳を実施。
従来の翻訳に比して、表現文が“誓い”ではなく“同意”や“共存”に近い形式を取った点が特徴的。
特記:翻訳文の選択は極めて中立的でありながら、双方の非言語的同意反応(手を握るなど)を引き起こした。
イリス個人見解:
感情のない翻訳者が、人と人の“言葉にならなかった間”を繋いだ。
これは偶然ではない。
対象に内在する“喪失”が、誰かの“諦め”に共鳴した可能性がある。
記録者に、確かに“繋ぐ力”があると感じた。
引き続き監視を継続する。