第2話:撃てなかった男、撃った少年
仮設記録局第七支部の朝は、いつもより静かだった。
空気が乾いていて、紙をめくる音がよく響く。
レクス・ヴァレリアは、端末の前で既存記録の整理をしていた。
感情のない眼差しで、機械のように文字を並べ、確認し、保存していく。
そんな中、イリスがぽん、と椅子の背にもたれて声を上げた。
「来たよ。依頼人」
扉が開き、少女がひとり入ってきた。
十四、五歳だろうか。艶のある黒髪を後ろで束ね、目元にどこか芯の強さを感じさせる。
「初めまして。わたし、メイ・アシュレイといいます」
レクスの手が、一瞬止まった。だがすぐに、また動き出す。
「依頼内容を伺います」
「……戦争で、兄が行方不明になりました。最期がどうだったか、知りたいんです」
レクスは無言で端末を操作し、照合する。
検索結果:リアム・アシュレイ。死亡記録あり。作戦コード「オルフェウスの檻」該当。
一秒、二秒。レクスの背筋がわずかにこわばる。
「……記録再構成を開始します」
メイは頷いた。
「兄は優しい人でした。戦争なんて……人を殺すことなんて到底、できる人じゃなかった」
イリスがちらりとレクスを見た。彼の表情は、いつも通りに無表情だった。
断片的な戦場ログ、環境データ、音響分析。レクスの端末に、かつての戦場が再構成されていく。
瓦礫の陰。銃を構えた少年と、立ちすくむ青年兵。
レクスの脳裏に蘇るのは、あの日。
「……なんで、戦場に……こんなガキが?」
リアム・アシュレイ。敵兵。優しい目をしていた。そして、撃てなかった。
だから、レクスが撃った。
感情も、迷いも、なかった。
「接触対象:リアム・アシュレイ、戦死。死亡位置:第23収容区南東、旧ラウス補給路沿い廃墟前座標。死亡時刻:C.U.417年7月18日 06:42。記録、以上」
レクスは冷徹にまとめた。だが、その手はほんのわずかに震えていた。
メイは、記録端末の画面をじっと見つめていた。
文字を読み終えた瞬間、ふっと笑みが浮かんだ。
メイは記録端末を見つめたまま、しばらく動かなかった。
表情からは読み取れない、複雑な感情の波が胸中を渦巻いているようだった。
──思っていた以上に、記録はあっけなかった。誰を助けたわけでも、立派な言葉を残したわけでもない。ただ、名前と時刻と場所、そして死の事実だけ。
メイの唇がかすかに動く。
「……これが、すべて……なんですね」
呟きは誰に向けたものでもなく、虚空に沈んでいった。
レクスは答えなかった。ただ、静かに視線を伏せる。
《応答内容は定義されていない。端末上の記録にも、発砲者の明示は存在しない。》
《過去ログ照合では自己が該当するが、それは開示対象外。》
沈黙は、選択ではなかった。
《応答処理不能》――その一行が、頭の奥に浮かぶ。
視線を落としたのは、単なる一時回避行動。
だがその直後、レクスの手がわずかに震えた。
それは“判断の保留”と“反復による収束処理”が同期しなかった結果。
自覚も、感情も、そこにはなかった。
ただ、処理の揺らぎだけが、確かに存在した。
メイの顔から色が失われていく。
彼女の足元がふらつき、椅子にしがみつくようにして座り込む。
「……どうして、兄は……そこにいたんでしょうね……」
ぽつりと呟いた声には、怒りも悲しみも入り混じっていた。肩が、わずかに震える。
「……こんなの、あんまりです……」
涙が止まらなかった。メイは机に顔を伏せて、声もなく泣き続けた。
レクスは、その姿をただ見つめていた。
イリスがそっと横から手を差し出しかけたが、それを止めるようにレクスが軽く首を振った。
数分後、メイはようやく顔を上げ、小さく微笑んだ。
その笑みは、どこか決壊したあとに浮かぶものだった。
「……やっぱり、兄は……普通の人だったんですね。怖かっただろうなって、それだけ思います」
メイは、静かに微笑んだ。
「記録、ありがとうございました」
彼女が部屋を出たあと、イリスがぽつりと言った。
「……本当は、もっと書きたかったんじゃない?」
「記録者は、感情を書かない」
「でも、いま書いたのは……“誰かが知りたかった”って気持ちに応えた記録だった。たとえ、真実のすべてじゃなくても……希望になることがある」
レクスは、何も言わなかった。
彼は記録端末を開き、非公開ログを一つ作成した。
《リアム・アシュレイ:敵兵。発砲をためらい、死亡。撃ったのは……》
文字が途中で止まる。
そして、別の一文が綴られた。
《……記録者、匿名にて記録を終了する》
入力を終えたとき、彼の手はわずかに震えていた。
それは、自分でも把握できないレベルのノイズだった。
《記録002:『記録に残せなかった名前がある』》
【監視報告:IRIS-04】
対象:レクス・ヴァレリア
観察任務記録 第七支部ログより
依頼人メイ・アシュレイに関する記録再構成時、対象は明確な過去記憶刺激に直面。
言語・動作の乱れは軽微ながら、手の震え、および記録文末の入力停止による“判断保留”が確認された。
特記:非公開ログへの記録行為はマニュアル違反ではないが、匿名形式の採用は本件が初。対象は“記録の正しさ”と“他者の希望”の間で葛藤した可能性がある。
イリス個人見解:
彼は「記録者」である以前に、「誰かを傷つけたまま生き残った子ども」なのだと思う。今回はその片鱗が、確かに揺れていた。
記録者の心に、わずかな“ノイズ”を確認。引き続き監視を継続する。