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第1話:言葉を失くした手紙



 灰色の空の下、冷たい風が吹き抜ける荒れ地のような一角に、それはあった。


 収容区第38号。かつては住宅地だった場所に、いまは無機質な仮設居住棟が立ち並んでいる。


 コンクリートと鉄条網に囲まれた敷地には、色を失ったような人々の姿がちらほらと見える。


 道路の亀裂、傾いた標識、剥げかけた塗装。


 すべてが、「一度壊れて、それでも動かされている」ことを物語っていた。


 そして、その静寂の中に立つひとりの少年。


 レクス・ヴァレリア、十五歳。


 その制服は記録局所属の簡素な黒。だが、その立ち姿には軍人のような規律が宿っていた。


 真っ直ぐな背筋。無駄のない所作。そして、何より——その表情には何も映っていない。


 まるで磨かれた鏡のように、感情を跳ね返す顔だった。


 レクス・ヴァレリアは、その静寂の中に立っていた。


 隣にいるのは、年端もいかない少女……のように見えるアンドロイド、イリス。


 柔らかな銀髪と透き通るような瞳。白を基調とした制服型ボディ。


 実際には高性能の観測・防衛機構を備えた実体アンドロイドであり、レクスの補佐として派遣されていた。


 収容区第38号。かつて街だった場所に、鉄条網とコンクリートで囲まれた仮設居住区が広がっている。


 世界が統一されたはずの今でも、ここには"声"が足りなかった。


「レクス、ここ……なんか、空気が固いね」


 イリスがぽつりと呟く。


「あのね、建物も人も、全部が息を止めてるみたい」


「……よく見てる」


 レクスは静かに応じた。


 イリスの言葉通り、この収容区では誰も大きな声を出さなかった。否、出せなかったのだ。


 民族が混在し、言語の統一が進まぬ中、人々のあいだには、言葉以上に分厚い“心の壁”が立ちふさがっていた。


 記録局の仮設オフィスに足を踏み入れると、部屋の奥に座っていた中年の男が立ち上がった。


 無精ひげにくたびれた制服。名札の下には『第38局副主任』と記されている。


「よく来てくれた。……例の子を、今連れてくる」


 彼はそう言って、控室からひとりの少女を案内してきた。


 黒髪を短く刈り込んだ小柄な子。


 幼い顔立ちに、不安げな瞳が揺れている。


「彼女が依頼人だ」


 担当者は淡々と言った。


「声帯に異常はない。でも、話さない。医師の診断では、戦争のショックによる選択性緘黙と発達性失語の併発……らしい」


「文字は?」


「読めない。まだ五歳程度の認識力らしい。本人はそれでも、何かを伝えようとしてる。……それが、今回の依頼内容だ」


 それを聞いていた少女の母は、思わず胸元を押さえた。


 肩が小さく揺れ、視線が宙をさまよう。


「……そんな……この子、そんなに……」


 呟きはかすれていた。


 母は一歩、少女に近づこうとして、ためらうように足を止めた。


 その手が、空中で宙ぶらりんのまま震えている。


「話しかけても、ずっと背を向けられて……声が届いていないんだって、そう……思ってた。でも……」


 母の目が、じわりと潤む。


 その視線が、机の上の紙と少女の背中のあいだで揺れていた。


 少女は何も言わず、手元の紙にゆっくりと文字を書き込んだ。


 その手は、小刻みに震えている。


 書かれていたのは、たった一言。


《おかあさん》


 少女は紙を差し出すと、俯いたまま動かなくなった。


「……お母さんに、手紙を書きたいんだね」


 イリスが優しく声をかける。


 少女は、ほんのわずかに頷いた。


 母親は同じ収容区にいるらしい。


 だが戦時中、少女は目の前で家族を失い、その心は言葉と感情の距離を見失っていた。


 母もまた、どう接してよいか分からず、ふたりの間には見えない壁が立っていた。


「レクス、これ……できるの?」


 イリスが不安げに問いかける。


 レクスは答えず、端末を起動した。


 そして、じっと少女の方を見つめる。


 彼の視線が細かく動いた。


 目の動き、肩の緊張、指の揺れ、呼吸のテンポ——


 無数の非言語情報が、彼の中で“意味”に変換されていく。


《感情データ取得中……》

《主感情:不安。副次感情:後悔/悲しみ/願望》


「……顔に書いてある感情は、誤訳されやすいんだ」


「え?」


 イリスが聞き返す。


「たとえば、今の彼女の表情。君は“怒ってる”ように見えるかもしれない。でも……実際は、“怖がってる”」


 少女の手が、机の下で小さく握られていた。


 ——記憶の中で、銃声が鳴った。


 崩れた壁、散った血。


 誰かの腕の中で、少女は泣くことすらできなかった。


 その記憶が、言葉を閉じ込めていた。


「こわいんだ、自分の気持ちが届かないのが」


 レクスは、少女の中に眠る感情をすくい上げるように、ひとつひとつ“ことばにならない声”を打ち込んでいく。


 数分後——


 一通の手紙が完成した。


《おかあさん、ごめんね。こわくて、わすれたくて、でも……わすれたくなかったの。だっこ、してほしい》


 その手紙を、オフィスの隅で待っていた少女の母に手渡す。


 細身の女性だった。戦中の疲弊が残るような顔に、それでも娘を気遣う気持ちがにじんでいた。


 彼女は緊張した面持ちで、差し出された紙を両手で受け取った。


 母は初め、文字を見つめたまま戸惑っていた。


 眉間に皺を寄せ、震える指で一文字一文字、ゆっくりと文字をなぞる。


 読み進めるうちに、その瞳に涙が溜まっていく。


 やがて彼女は、読み終えた紙を胸元に抱きしめ、少女に駆け寄った。


「……ごめんね、ごめんね……ずっと……ずっと、抱きしめたかった……」


 声が震えた。


 そして、母は少女を、強く、静かに抱きしめた。


 少女の体が、小さく震えた。


 そして、しぼり出すような声が漏れた。


「……おかあ、さん……」


 かすれた、けれど確かな音だった。


 母の目が大きく見開かれた。

 次の瞬間、手を口元にあて、涙があふれるのも構わずに娘の顔を覗き込む。


「しゃべった……この子……あなた……!」


 何度も何度も娘の名前を呼びかけながら、その肩を震わせた。

 娘は目をぱちぱちと瞬かせながら、ようやく母の腕の中で小さく頷いた。


 背後で見守っていた担当者も、いつの間にか目元を拭っていた。


「……名無なむの子どもたちは、みんな……戦争の“後”に置いてけぼりにされるんだ」


 彼は呟くように言った。


「でも、こんな奇跡があるなら……ああ、記録者ってのは、本当にすごいな……」


 イリスは目を見開き、それから微笑んだ。


「……やっぱり、言葉ってすごいね」


 レクスは無言で端末を閉じた。


 その様子を見ていたイリスが、少し呆れたように眉をひそめる。


「ねえ、今の見て何も思わないの? 少女が声を出したんだよ? ほら、ちょっとくらい感動とか……」


 レクスは目を伏せたまま、静かに答えた。


「……記録者は、記録を残すのが仕事だから」


「はいはい、そういう冷血な感じ、ほんっと変わらないよね」


 イリスはため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。


《記録001:『感情は言葉になる前に、もう泣いていた』》


 彼の記録は今日もまた、ひとつの“声”を未来に残した。










【監視報告:IRIS-04】


 対象:レクス・ヴァレリア

 観察任務記録 第38収容区ログより


 依頼人の少女に対し、レクスは例によって非言語情報を解析し、想定以上に精密な感情翻訳を行った。


 記録行動は冷静かつ機械的に見えるが、翻訳結果の文体には依頼者の情緒的背景が強く反映されていた点が特筆される。


 特記:

 少女の表情を「怒り」と誤読した私に対し、レクスは「顔に書いてある感情は誤訳されやすい」と返答。

 これは以前のケースと同様、彼が“表面的な共感”よりも深層的な情動分析を優先する傾向を示している。


 また、依頼完了後、対象レクスは少女の発声に対し一切の感情的反応を示さなかったが、端末の入力速度に一時的な遅延が見られた。


 本人に変調は見られないが、内部的な反応の兆候とみなす余地あり。


 現時点において、彼の「心の再起動」は予測不能。

 だが、確かに何かが、“揺れた”。



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