攫われた悪役令嬢と魔王の王国征服 前編
ここはとある牢獄。冷たい石壁に囲まれた暗い独房には、二つの人影があった。ひとりは「残虐非道」と恐れられた公爵令嬢、もうひとりは世界を震撼させるはずの魔王である。
「……やられたわね」
令嬢は長い金髪をかき上げ、薄暗い天井を見上げた。最後の記憶は、舞踏会の最中に飲み物を口にしたところで途切れている。気がつけばこの牢獄。鉄格子の向こうには、無機質な石畳の廊下が続いているだけだった。
「なんで我、捕まっとるん!? 我は魔王ぞ!?」
隣で喚くのは、角と黒いマントを揺らす魔王だった。牢獄の隅で腕を組み、まるで納得できないといった表情をしている。
「知らないわよ。私だって、どうしてこんな目に遭っているのか……」
令嬢は溜息をつきながら、自分の手首を見下ろした。魔法を封じる拘束具が嵌められている。おそらく魔王も同じだろう。
「くそっ……こうなれば力尽くで――」
魔王が拳を振り上げた瞬間、拘束具から電流が発生した。
「あばばばばばばぼば……」
牢獄の冷たい空気の中、魔王が見事な痙攣を披露する。拘束具から発せられた電撃はなかなかの威力らしく、彼女は床に転がりながらピクピクと痙攣していた。
「……学習能力がないの?」
令嬢は呆れたように腕を組み、倒れた魔王を見下ろす。
「ぐぬぬ……このような姑息な手段、卑劣極まりない!」
「捕らえられた時点で負けよ。負け惜しみは惨めになるだけだわ」
「貴様、我が魔王であることを忘れておるのか?」
魔王はふんぞり返って言い放つが、その手首には令嬢と同じく魔法封じの拘束具が嵌められている。説得力は皆無だった。
「その威厳のない姿で言われてもね」
令嬢は呆れ顔で腕を組み、魔王を見下ろす。魔王の姿は小柄な少女そのもの。黒いマントに覆われた華奢な体と、大きな赤い瞳。彼女の主張とは裏腹に、まるで悪戯好きの子供がふてくされているようにしか見えなかった。
「くっ……しかし、貴様も悪名高い悪役令嬢ではなかったか? こうも簡単に捕まるとは、少々期待外れではあるな」
その言葉に、令嬢は小さく笑った。
「私は舞踏会で毒を盛られたのよ。貴方は?」
「む……我は……ちょっとした不覚で……」
「情けない魔王ね」
「貴様にだけは言われたくないわ!」
魔王がまた腕を振り上げかけるが、先ほどの電撃が脳裏をよぎったのか、すぐに引っ込めた。
「ふん、しかしこんなもの……我が本気を出せば――」
言いかけた魔王がぴたりと動きを止めた。鉄格子の向こう、廊下の奥から足音が近づいてくる。
「……来たようね」
「敵か?」
「それ以外に何があるのよ」
令嬢はゆっくりと立ち上がり、魔王も構えを取る。二人の目が鉄格子の向こうに向けられた。
やがて姿を現したのは――
白い仮面をつけた男だった。
淡々とした足取りで牢の前に立つと、男は鍵束を取り出し、ひとつの鍵を選ぶ。そして鉄格子の錠前にそれを差し込みながら、静かに口を開いた。
「ようこそ、お二人とも。我らが主が、お待ちです」
カチリと鍵が回る音が響いた。
「お待ちです、じゃないわよ」
「貴様、敵か味方かも分からん者にのこのこついていくほど愚かではないぞ!」
刹那――魔王と令嬢は、ほぼ同時に白仮面の男の腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐふっ……」
男は情けない声を上げ、そのまま後方に吹っ飛ぶ。微動だにしなくなったのを見て、魔王は鼻を鳴らした。
「ふん、脆弱な……」
「さすがに少しやりすぎたかしら?」
令嬢が冷めた目で男を見下ろしつつ、仮面を剥ぎ取る。だが、意外にも素顔はごく平凡な青年だった。見覚えはない。
「さて、これで一つ問題が解決したわ」
令嬢は男が床に転がした鍵束を拾い上げ、吟味する。
「よし、これね」
ガチャリ、と鉄格子の錠前が開く。牢の扉を押し開けた瞬間、魔王が嬉々として拳を握った。
「よし、次はこの忌々しい拘束具を……あばばばばばばば!」
「……学習しなさいよ」
どうやら拘束具は外そうとしない限り電流は発生しないらしい。
「っく……なんと狡猾な仕掛け……!」
床に転がり、ピクピクと痙攣する魔王を横目に、令嬢は呆れたように肩をすくめた。
「とにかく、ここを出るわよ」
彼女は男の剣を奪い取り、魔王の首根っこを掴んで引きずり起こす。
牢獄の外へ――反撃の時は、もうすぐだった。
牢を出た瞬間、二人は鋭く周囲を見渡した。石造りの廊下は薄暗く、等間隔に灯された魔導灯がぼんやりと足元を照らしている。人気はないが、遠くから足音が微かに響いていた。
「さて、まずは状況の確認ね」
令嬢は冷静に言いながら、手にした剣の重みを確かめる。軽い実戦用の剣だが、戦えないことはない。
「む……我の武器はないのか?」
「さっき転がってた男が持っていたのはこの剣だけよ。我慢なさい」
「ちっ……」
魔王は舌打ちしながら自分の拳を見つめる。拘束具のせいで魔法は使えないが、肉体強化はまだ機能しているらしく、身体能力自体はそこまで落ちていないようだった。
「まずはここがどこなのかを調べないと」
「出口を探すのが先決だろう」
「敵の数も把握しないとね」
二人は頷き合い、足音を立てないように廊下を進み始めた。
しばらく行くと、曲がり角の先から二人組の兵士が現れた。
「ん? おい、牢が開いてるぞ!」
兵士の一人が驚きの声を上げると同時に、令嬢が躊躇なく動いた。
「遅いわよ」
素早く距離を詰め、剣の柄を振り上げる。ガツン、と鈍い音が響き、一人の兵士が呻き声を上げながら崩れ落ちた。
「おのれ!」
もう一人が剣を抜こうとしたが、魔王の拳が素早く突き出された。腹部に直撃し、兵士は目を剥いて気絶する。
「ふん、雑魚め」
「とはいえ、油断は禁物よ。騒がれたら面倒だもの」
令嬢は手際よく兵士たちを縄で縛り、口を塞いだ。
「さて、どっちに行く?」
二人は廊下の分岐点に立ち、慎重に耳を澄ませた。右側からは遠くで話し声が聞こえ、左側は静かだ。
「右は敵の待機所かしらね。左に進むのが無難かも」
「いや、我はあえて右を推すぞ」
「……どうして?」
「敵の情報を得るには、奴らを捕らえて問い詰めるのが手っ取り早い」
魔王の提案に、令嬢は少し考えた後、小さく笑った。
「悪くないわね。じゃあ、奇襲を仕掛けましょうか」
二人は静かに、しかし確実に戦いへと足を踏み入れた。
二人は気配を殺しながら、右の通路を進んでいった。やがて、鉄製の扉が見えてくる。扉の隙間からは、男たちの笑い声や食器がぶつかる音が漏れていた。
「休憩室かしら?」
「ふん、油断しきっているな」
魔王は不敵な笑みを浮かべながら、腕を回す。
「どうする? 静かに仕留めるか、それとも派手に――」
「静かに、よ」
令嬢は迷わず答え、扉にそっと手をかける。
ギィ、と音を立てて開いた扉の向こうには、五人の兵士がいた。円卓を囲んで食事を取っていたようだが、令嬢たちの姿に気づいて目を丸くする。
「おい、誰だ!?」
一人が立ち上がろうとするが――遅い。
「させないわ」
令嬢の剣が音もなく閃き、立ち上がりかけた兵士の後頭部を強かに殴りつけた。兵士は呻きながら崩れ落ちる。
「てめぇら、脱獄囚か――がふっ!」
次の兵士が叫びかけたが、魔王の膝蹴りが顎を直撃し、意識を手放した。
「遅い遅い。貴様らの動きは遅すぎる!」
魔王は軽やかに回し蹴りを放ち、さらに一人を壁に叩きつける。令嬢も無駄のない動きで残りの兵士を打ち倒した。
数秒後、部屋には気絶した兵士たちが転がるのみだった。
「ふん、手応えがないな」
「楽に片付くならそれでいいのよ」
令嬢は兵士の装備を漁り、予備の短剣と鍵の束を見つけた。
「この鍵、何かの重要なものかも」
「なら、持っていくとしよう。だが、その前に――」
魔王は気絶した兵士の一人を引きずり起こし、頬を軽く叩いた。
「さあ、起きろ。質問の時間だ」
兵士の男はうっすらと目を開き、魔王と令嬢を見て恐怖に顔を引きつらせた。
「し、しらねえ! 何も知らねえ!」
「まだ何も聞いておらんぞ?」
魔王がにやりと笑い、指を鳴らす。
「さて、どこなのかしら、ここは?」
令嬢が穏やかに問いかけると、兵士は震えながら答えた。
「こ、ここは王城地下の監獄だ……!」
「王城……?」
令嬢は目を細めた。
「ねぇ、なんのために私たちを捕らえたの?」
「そ、それは……」
兵士は口を噤むが、魔王がゆっくりと笑みを深めた。
「正直に話せ。我の機嫌がいいのは今のうちだけだぞ?」
震え上がった兵士が、観念したように口を開いた。
「……近いうちに、お前たちは処刑されることになっている」
二人の表情が、冷たく引き締まった。
「処刑だって? なぜじゃ? 心当たりなぞないぞ」
「いや、心当たりだらけでしょ、貴女も私も」
令嬢は呆れたようにため息をついた。
「貴女は魔王で、私は『残虐非道』と恐れられる公爵令嬢よ? どちらも王国からすれば厄介な存在でしょうね」
「むぅ……それはまあ、そうかもしれんが……」
魔王は腕を組み、納得のいかない顔をしている。
「だが、我はつい先日、戦争を終わらせたばかりだぞ? 人間どもとは停戦協定を結んだはず……」
魔王の言葉に、令嬢は鋭く視線を向けた。
「……その停戦協定、正式に結ばれたの?」
「ふむ……書類にはサインしたが、王の姿は見ておらん。使者を通じてやり取りしていた」
「それね」
令嬢は兵士を睨みつけながら言う。
「王国側は最初から和平を結ぶ気なんてなかったんじゃない?」
「なっ……!?」
「停戦協定はただの罠。あなたを油断させて捕らえるための方便よ」
魔王は驚愕した表情で拳を握りしめる。
「くっ……貴様ら、人間どもはそこまで卑劣な手を使うのか……!」
一方、令嬢も考え込むように視線を落とした。
「私のほうも似たようなものかもしれないわね……公爵家は王国にとって厄介な存在。私は政敵を蹴落としすぎたせいで、権力を持ちすぎたのかもしれない」
「貴様を消すことで公爵家の影響力を削ぐつもりか」
「ええ……それが一番ありそうね」
沈黙が流れる。
だが――
「――ならば、簡単な話じゃな」
魔王はニヤリと笑い、拳をポキポキと鳴らした。
「我らがここから脱出し、王の鼻先で自由を勝ち取ればよいだけのこと!」
その言葉に、令嬢も口元に笑みを浮かべた。
「ふふ……だったら仕返しをしてあげないとね」
令嬢は剣を軽く振り、鞘に収める。
「我も同感じゃ!」
魔王は拳を握りしめ、目を爛々と輝かせた。
「この国を騙し討ちにし、我を辱めた報い……たっぷりと払ってもらわねばな!」
その場に転がる兵士は、恐怖に顔を引きつらせながら震える。
「な、何を企んでいる……?」
魔王と令嬢はゆっくりと兵士を見下ろした。
「決まっているじゃない。王国の征服よ」
魔王が低く笑い、令嬢も楽しげに微笑んだ。
「ふふ、ただ脱出するだけじゃつまらないものね。どうせなら、もっと派手にやりましょう?」
「うむ! ただの逃亡者では終わらん。我らがこの王国を支配し、跪かせるのじゃ!」
二人の決意は固まった。
王国の人間どもは、まだ何も知らない。
この地下牢で生まれた復讐の炎が、やがて国全体を焼き尽くすことを――。