翔也side 終わりの日
翔也は部屋の隅で拳を握りしめたまま、深く息を吐き出していた。彼の心は、複雑な感情に引き裂かれていた。
美紅に対する優しさが、本物かどうか自分でもわからなくなっていた。最初はただ陽菜に言われた通りに動いていただけだった。だが、いつの間にか美紅の無邪気な笑顔や不器用に見せる頑張りに、彼自身が心を動かされていた。
陽菜が彼に声をかけてきたのは、ほんの数か月前だった。美紅が陽菜のグループで少しずつ目立ち始めた頃、陽菜は翔也に接近し、言った。
陽菜『あんた、翔也なら美紅を引っ掛けるなんて簡単でしょ?その子、ちょっと調子に乗ってるみたいだから、懲らしめてやりなよ。』
陽菜の声は冷たく、計算されたものだった。
翔也は最初、ただ軽い気持ちで受け入れた。彼は特に美紅に対して何の感情も持っていなかった。ただ、言われるがままに行動することが、楽だと思ったからだ。
しかし、翔也が美紅と接するたびに、彼女の人懐っこさや、他人に対して無理して笑おうとする姿に心が揺れ始めた。彼女が辛い時も無理して強がっているのが、次第に彼にとって居心地の悪さを感じさせた。そして、その感情は次第に変わっていった。
それでも、陽菜の計画は進行していた。翔也はそれに逆らうことができず、言われるままに美紅に近づき、嘘を重ね続けた。
だが、今日、彼は限界を感じていた。
翔也『もう、無理かもしれねぇ…』
彼は窓の外を眺めながら、自分に呟いた。空はどんよりと灰色で、まもなく降り出すだろう雨の予感が漂っていた。その暗い空模様は、彼の胸の中に渦巻く重い感情と重なっていた。
美紅が本当に傷つく姿を、もう見たくなかった。彼女に対する感情が、単なる「仕事」では済まなくなっていたことを、翔也は認めざるを得なかった。
その時、背後から陽菜の声が聞こえた。
陽菜『もう少しでしょ、あの子も気づいてないみたいだし。翔也、ちゃんとやってよ。』
翔也は無意識に拳を握りしめた。こんなこと、もう続けられない。彼女をこれ以上、裏切りたくなかった。
翔也『わかってるって。けどさ、なんかあの子さ…本当はこんなことしたくねぇんだよ。』
自分でも驚くほど、心の中にあった感情が口からこぼれた。陽菜の顔が不快そうに歪むのが目に映った。
陽菜『なに、それ?情が移ったとか言うんじゃないでしょうね。あんたは私の言うこと聞いてればいいの。でしょ?』
その瞬間、何かが背後で動く音がした。
不安にかられて振り返ると、通路の角に誰かが立っていた。髪が湿ったように見える――それは美紅だった。
彼女が全てを聞いていたのだと、一瞬で理解した。
翔也『美紅…!?』
彼の声が震えた。彼女がこちらを見つめる瞳には、驚きと裏切られた深い悲しみが映っていた。翔也はその目を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
美紅は何も言わず、その場から走り去った。翔也はすぐに後を追いかけたが、彼女の姿はすでに見えなくなっていた。
翔也『待て!美紅!』
冷たい雨が降り始め、彼の髪と服を濡らした。湿った土の匂いが漂い、雨に打たれながら走る翔也の足音だけが響く。彼女がどこにいるのか、どこに逃げたのか、そんなことは考える余裕もなく、ただ彼女の後を追いかけた。
翔也の胸の中には、言い訳の言葉など一切なかった。ただ、美紅に謝りたい。そして、すべてを話して、もう一度彼女と向き合いたい。それだけだった。
美紅の姿が遠くに見えた。雨に濡れた彼女の背中が小さく見える。翔也は息を切らしながら、全力で彼女に追いつこうとする。雨の匂いが、彼の心にさらに焦燥感を煽った。
翔也『美紅!』
彼は叫んだが、彼女は振り返ることなく、そのまま雨の中へ消えていった。翔也の手は、彼女に届かなかった。
翔也の心臓は強く打ち、全身が痛むほど走り続けていた。雨が冷たく降り注ぎ、髪も服もびしょ濡れになりながら、目の前で遠ざかる美紅の背中に必死に手を伸ばした。だが、彼女は振り返らない。走れば走るほど、その距離が広がっていく気がして、翔也の心はどんどん深い焦りに飲み込まれていった。
「美紅、待ってくれ!」と声を張り上げるが、雨音がその声をかき消す。冷たく重い雨の匂いが、彼の中に絶望を浸透させていく。雨に混じる土とアスファルトの湿った香りが、無情にも現実を突きつけた。美紅はすべてを知ってしまった。
「俺は、なんで…こんなことを…」
彼は自問した。最初は陽菜に従うことに大した抵抗はなかった。ただ、それがどういう結末を迎えるか、深く考えもしなかった。軽い気持ちで始めたはずの芝居が、気づけば彼自身を絡め取り、今ではその嘘に苦しんでいた。
翔也は本当に、美紅を傷つけるつもりなんてなかった。だが、そんな言い訳が今の彼女に通用するはずもない。彼女の純粋な笑顔、彼女が自分に対して見せてくれていた信頼、そのすべてが翔也の嘘によって踏みにじられた。
「なんでこんなことになったんだ…」
美紅の姿が雨に溶けて見えなくなりそうだった。彼女の表情が頭から離れない。驚きと悲しみ、裏切られたという深い絶望が、彼女の瞳に浮かんでいた。その瞬間を何度も思い返し、翔也は自分がどれだけ酷いことをしてしまったのかを改めて実感した。
「俺は…最低だ」
翔也の心に後悔が重くのしかかる。最初からすべてを話しておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。陽菜の言うままに動いた自分の弱さ、それに気づいた時にはもう遅すぎた。美紅の信頼を裏切り、彼女を傷つけた自分を許せなかった。
「美紅…」
彼女の名前を心の中で何度も呼ぶが、何の答えも返ってこない。雨はさらに強くなり、冷たい水滴が顔に打ちつける。まるで彼の罪を洗い流そうとするかのように、激しく降り続けた。しかし、どれほどの雨が降ろうと、翔也の胸の中にある重い後悔は消えることはなかった。
このまま美紅が自分のもとから去ってしまうのではないかという恐怖が、彼をさらに苦しめた。彼女の背中が完全に見えなくなり、翔也はその場で足を止め、雨の中に立ち尽くした。
「…どうすればよかったんだ…」
冷たい雨の中、翔也はただ自分の愚かさに打ちひしがれ、地面を見つめることしかできなかった。
翔也の心は徐々に病んでいった。美紅を追いかけたあの日から、彼の中には後悔と罪悪感が絶えず渦巻いていたが、それ以上に、自分がどうしようもない「嘘の男」だという事実が、彼を深く蝕み始めていた。
最初はただの日常の疲れだと思っていた。美紅が去った後も、翔也は仕事を続け、周囲の人々と普通に接していた。しかし、心の中では、彼はゆっくりと壊れていった。夜になると彼は眠れなくなり、ベッドの中で天井を見つめながら、あの日の美紅の表情を何度も思い返していた。彼女の驚き、悲しみ、そして絶望。それが頭の中で無限に再生され、次第に現実と幻想の境界が曖昧になっていった。
「俺は…なんてことをしたんだ…」
彼はそう自問し続けたが、答えは出なかった。ただ、陽菜に従っていた自分の愚かさと、美紅を傷つけたことが、彼の心に深い傷を刻み続けていた。
そして、ある日を境に、翔也は完全に壊れ始めた。
仕事もままならなくなり、毎日酒に溺れるようになった。朝から飲み始め、夜まで続ける。頭がぼんやりとして、罪悪感も苦しみも一時的に麻痺する。その瞬間だけが、彼にとっての逃避だった。だが、酒が抜けると、再びあの日の記憶が彼を襲った。
彼は家に引きこもり、外に出ることも減っていった。周りの友人や同僚とも連絡を取らなくなり、部屋の中は酒の缶やゴミで散らかっていった。鏡に映る自分の姿を見て、翔也はかつての自分と全く違うことに気づいた。髪は伸び放題で、肌は荒れ、目は虚ろ。まるで別人のようだった。
「俺なんか…もう終わりだ」
自暴自棄になった翔也は、すべてを投げ出すようにゴミに埋もれた部屋で横たわり、過去を振り返ることすら拒絶した。かつての自分、そして美紅との時間が、彼にとっては重すぎる罪だった。
「どうせ、俺は美紅を騙してた。陽菜の言うことに従ってただけのクズだ…」
そう思うたびに、彼はさらに深く堕ちていった。もはや何もかもがどうでもよくなり、彼は人間としての尊厳さえも失っていった。昼夜の区別もつかなくなり、酒を飲みながら、何もかもを忘れようとした。周囲がどう思っているかなど、もはや気にも留めていなかった。
彼の体も心も腐っていった。人間らしい感情すらも失い、ただただ無気力な日々を過ごすゴミ人間へと変わり果てた。




